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第14話:美男ですね

 どのくらいそうしていただろうか。

 壁にもたれて天井を見上げていた姿勢から、ジェイルは億劫そうに身体を起こした。前髪がぱらりと落ちて視界を邪魔する。浴室へ向かって部屋を横切りながら、シャツを脱いで無造作に椅子に引っかける。

 洗面台の前に立つ。かがみこんで頭を蛇口の下に突っ込む。右手をひねると、勢いよく水が飛び出してきた。肌着のTシャツまで水が染み込んだが、構わなかった。

 充分に水をかぶって、上半身を起こす。頭部から、水滴がぽたぽたと滴り落ちていた。グレーのTシャツが水分を含んでまだらに濃くなっている。Tシャツの裾で、濡れた顔を雑に拭った。目の前に鏡がある。ジェイルは鏡に映る男を睨んだ。

 黒曜石のようにしっとりしたツヤの髪が、額に張り付いている。そのあいだから、切れ長の目が覗いていた。この国の人間にしては白い肌。その口元を、不精髭が覆っている。薄い筋肉のついた上半身はすらりとしているが、腹周りだけは32歳という年齢に抗えず、柔らかい部分も目立ち始めている。

 これが、自分の身体だ。俺のものだった。――ついさっきまでは。

 髪を伸ばしても、髭を伸ばしても、誰にも何も言われなかった。その環境を自分で手にしてきたのだ。

 だがそれはあくまで逃避行だった。追手にみつかった以上、もはや所有権は宙に晒されている。あっけないほどあっという間に。失うときはいつもそうだ。

「髭は……どうにもなんねえな」

 誰に聞かせるでもなく呟いて、ジェイルは剃刀を手に取った。


 リビングに戻り、必要最低限の仕事だけを済ませた。パソコンを閉じると、今度はベッドルームのドアを開ける。しばらくチセに占領されていた部屋だ。一瞬だけ人の匂いがしたような気がしたが、それもすぐに消えた。

 大して量の収められていないクローゼット。そのいちばん端にひっそりとかかっていた、クリーニングに出したきりの黒のスーツを取り出す。イギリス時代、仕立て屋の息子だった同級生に、冠婚葬祭に使えるからと言われてあつらえたものだ。最後に着たのはいつだったか。

 アイロンをかけたばかりの白いシャツに腕を通す。小さなボタンをひとつ留めるごとに、呼吸の範囲が狭くなるようだ。いちばん上のボタンまで留めると、部屋の空気が変わった気がした。

 ネクタイはあえてつけなかった。黒のネクタイだと自分では葬式のようになりそうだし、かといってピンクや水色のネクタイではしゃぐ気にはなれない。蝶ネクタイなどもってのほかだ。うるさがたの年配者からはあれこれ言われるかもしれないが、このくらいは好きにしてもいいだろう。

 上着を羽織って、鏡の前に立つ。

「……ハッ」

 呆れた笑いのような、失望のため息のような、どちらともとれる乾いた声が漏れた。おそらく、どちらも本心だった。

 身なりを変えただけで、15年間の時空が一気に消え去ったようだった。それとも、変わったと思いこんでいたのは俺だけだったのか。

 やはり靴箱の奥にしまったきりだった革靴を取り出す。スニーカーに慣れた足には、重石をつけているように感じられた。

 ジェイルは部屋を振り返る。居心地のいい我が家だったはずが、どこか他人行儀な静けさをまとっていた。もう二度と帰ってこれないような、そんな予感がした。

 11時ちょうどだった。アパート前の路地を抜けたと同時に、黒塗りのハイヤーがゆっくりと滑りこんできた。助手席から出てこようとした男を手で制して、ジェイルは後部座席のドアを開けた。乗り込んだジェイルの顔を見て、男たちの動きが一瞬止まる。だが次の瞬間、何事もなかったように車は走り出した。

 窓越しに、住み慣れた町並みが流れていく。ジェイルの姿を隠してくれた、生命力の溢れる雑多な街。だが、もう同じように暮らすことはできなくなるだろう。

 車の窓から街を眺める自分を、さらに斜め後ろから眺めている気分になった。身体と意識のあいだに見えない壁があるような。

 昔から繰り返し考えていた。この身体は、いったい誰のものなのか。

 少なくとも、今はもう自分だけのものではない。望むと望まないとに関わらず、ジェイルがジェイル・レックス・ハッサ・チュンクリットである以上は。


 ラーニア王太后は、ヴェイラ第7代国王ハディト1世の妻であり、ジェイルの祖母である女性だった。

 ハディト1世の治世は、第二次世界大戦前から1970年代までの永きにわたる。大戦中もヴェイラの独立を保ち、「インドシナの雄」と呼ばれた。夫とともに激動の時代を生き抜いたラーニアは、当時にしては珍しくヨーロッパへの留学経験がある先進的な女性だった。美しく理知的で、夫を支える理想的な妻として、国民的な人気を誇った。ハディト1世が亡くなり、ラーニアが王妃から王太后となっても、その人気は衰えなかった。王制が崩壊したとき、王族とその関係者は多くの権利を失ったが、ラーニア王太后に対してだけは特別措置がとられたほどだ。

 車は首都のやや北に位置する「水晶宮」に向かっている。生前のハディト1世が贈ったこの別宅に、ラーニア王太后は暮らしていた。

「あなたはチュンクリット家らしい顔立ちをしていますよ。よい王様になれそうね」

 祖母はそう言って孫のジェイルを可愛がったものだ。ジェイルがはやくからスイスの寄宿学校に入ることを後押ししたのも彼女だった。

 とはいえ、子どもらしく甘えた記憶はあまりない。常に背筋が伸びていて、はっきりと物を言う祖母は、どちらかというと緊張する相手だった。というより、ジェイルの父や母もそうだったのだ。ラーニア王太后は、王家において特別な影響力を持っていた。

 車が門をくぐる。建物のポーチ部分で静かに止まった。「水晶宮」という名にふさわしく、色とりどりのタイルが敷き詰められた玄関に降り立つ。待ちかまえていたように、守衛が扉を開く。

「やあ、待っていたよ」

 バンケットルームの入口で客人の相手をしていたユナルが目を細めた。一方、客のほうはジェイルを見て目を丸くしている。

「本当に来るか、不安だったんだけどね」

「人質を取られたんじゃ、来ないわけにはいかないでしょう」

「物騒なことを言うもんじゃないよ。ほら、お連れ様はあちらだ」

 ジェイルが壁際に目をやると、数人に囲まれて話しかけられているチセがいた。

 チセは、ヴェイラの伝統衣装を現代風にアレンジしたようなデザインのドレスを着ていた。ヴェイラシルクの生地は光沢のあるピンクオレンジで、襟元と裾部分に金糸の刺繍がほどこされている。刺繍にあわせて、靴はゴールドのストラップパンプス。ノースリーブの上半身に、膝がちらりと見える丈のコンパクトなシルエットは、背が低いチセによく似合っていた。

「I’m 21 years old.え、中学生に見える? ほんとですってば!」

 珍しい日本人の少女は、客人のいいおもちゃになっているようだ。

 人のあいだを抜けて、チセのほうへ進んだ。ジェイルの顔を見た誰かが息を呑む気配がする。

 チセがジェイルに気づいた。真ん丸の目が、さらに見開かれた。チセを囲んでいた人びとが、さっと散らばった。

「ユナル叔父に、何もされなかったか」

「いえ、すごく紳士的でしたよ。ドレス可愛いし、ジュースおごってくれたし……」

「パスポートの手続きは?」

「それは、大丈夫です。数日で新しいものが発行されるって」

 チセがジェイルの顔をまじまじとみつめる。

「なんだよ」

「ヒゲ……」

 ジェイルは顎に手をやった。

「不精髭で来るわけにはいかないだろう」

 ただでさえスースーするのに、見られると居心地が悪い。だが、チセはさらにジェイルの顔を凝視した。

 そして、いきなり爆笑した。

「あはははは! もー、びっくりした。さっきまでヒゲだったのに、突然なくなってるから、わかんなかった~。ていうか、イケメンですね!」

「イケメン?」

「格好いいって意味ですよ! ヒゲがないと、一気に若返るというか、好青年風ですね。スーツもシックで似合ってます。まあ、個人的にはチンピラファッションも好きですけど」

 チセはケラケラと笑っている。うるせえよと呟いて顔をそらしながら、ジェイルは少しだけ安堵していた。この空間で、昨日までの自分を知っている人間がひとりいる。

「皆さん、大変長らくお待たせしました。王太后の準備ができたようです」

 ユナルのバリトンボイスが響いた。中央の立食カウンターに料理が運び込まれ、ドリンクを載せたトレイを持って、ボーイが客のあいだを歩いていく。

「王太后を迎える前に、ひとつ大事なお知らせがあります。今日は特別ゲストが来ています」

 ユナルは壁際に立っているジェイルを見て、微笑んだ。

「王太后の孫であり、私の親愛なる甥である、チュンクリット王朝最後の国王・レックス2世陛下と、日本人の友人チセ・オビサワ嬢です」

 どよめきが起き、部屋中の視線がジェイルに向けられる。ユナルは不敵な笑みを浮かべている。ジェイルはまっすぐ顔をあげて、ユナルを見つめ返した。

 パーティーが始まろうとしていた。

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