第13話:招かれざる客
ジェイルは居間のカーテンを勢いよく開いた。まぶしい光が室内に飛び込んでくる。ついでに窓を開けて空気を入れ替える。屋台で売り買いする声や、犬や鳥の鳴き声といった、動き始めた街の音が聞こえる。
「完璧な月曜日だ」
息を吸い、吐き、ジェイルは満足げに頷いた。
「さあ、今日こそ出ていけよ!」
そして振り返ると、勢いよくチセを指差した。
チセはダイニングチェアに行儀悪く体操座りして、表の屋台で買ってきた揚げパンをもぐもぐと頬張りながら、朝刊をめくっていた。
「すごーい、一面ですね。昨日のデモ」
「俺の話、聞いてるか?」
「聞いてますよ~。大使館に行ってパスポート再発行の手続きをします。もう、何回も言わなくてもわかってますってば」
ジェイルの意気込みなど気にもかけない様子で、チセは興味深そうに新聞を見ている。その悠々とした姿に、どちらがこの家の主人なのか一瞬わからなくなりそうだ。だが、ジェイルは気を取り直して続ける。
「9時から俺の仕事の時間だ。あと15分。それまでに荷物まとめろよ。そしてもう戻ってくるな」
「昨晩のうちに準備してます。もー、ほんとは最後の夜だからいっぱい聞きたいことあったのに、はやく寝ちゃうからヒマでヒマで」
昨日は宮殿から戻ったあと、シャワーで汗と汚れを洗い流したら、あっという間に眠気が押し寄せてきたのだった。近所の中華料理屋のテイクアウトで軽い夕食を済ませるところまではなんとか起きていたが、すぐにリクライニングチェアに沈み込んでしまった。おかげで今朝はすっきりとした目覚めを得ることができたのだが、子どものように眠ってしまったのは少し恥ずかしい。
「あれだけの追跡劇を繰り広げりゃ、誰だって眠くなるんだよ」
さらに言えば、お前が来てから生活リズムが狂わされていたのだ、と思ったが、悔しいので口には出さない。
「まあ、意外と可愛い寝顔の写真が撮れたから、いいですけどね」
「はあ!?」
「冗談ですよ~。ジャパニーズジョークです」
チセは敵意のない顔で笑ったが、冗談かどうか疑わしいものだ。ジェイルはそれ以上詰めるのを諦め、チセの向かい側に腰掛けた。テレビをつけると、ニュース番組がちょうど昨日のデモの様子を映していた。
「千人以上の民衆がデモに集まり、ドルーダ首相退陣を求め、観光客でにぎわう宮殿前は一時騒然となりました。途中で一部の参加者と警官がもみ合う騒ぎがあり……」
アナウンサーの言葉に一瞬身を固くするが、ジェイルやチセの姿は映されることはなかった。ほっとするが、画面の端に見えた≪王政を復古せよ≫というプラカードの文字は、胃のあたりに嫌なうずきを感じさせた。
ニュース番組が終わり、テレビ画面の時刻表示が9:00に切り替わる。
「9時だ」
チセが奥の部屋から大きなリュックを引っ張り出してきた。背負って、ぺこりと一礼する。
「いろいろ、お世話になりました。ありがとうございます」
「まったくだ」
「でも楽しかったですね」
「どこが」
まだ喋りたそうにしているチセを、ジェイルは玄関へと追いやる。
「もう、会うのはこれきりだ。面倒に巻き込まれるのはご免だからな。安いホテルには泊まるなよ。観光地ではスリに気をつけろ。水道水は飲むな。で、親を心配させないうちに日本に帰れ」
言いたいことを一気に言い切ると、チセがおかしそうに笑った。
「なんだか、お父さんみたい」
「俺はまだ32歳だ」
「褒めてるんです。その、なんだかんだ世話好きなところ、私、好きですよ」
最後の言葉に、耳を疑った。思わずチセの顔を見る。人を小馬鹿にした表情を浮かべていると思ったチセは、意外にも静かに目を細めてジェイルの顔を見上げていた。
「じゃ!」
しかし、すぐにいつもの笑顔に戻ると、ジェイルが声をかける間もなく、あっという間に玄関ドアの向こうに去っていった。ギイと音を立てて、ドアが閉まる。蓋をされたように、部屋に静けさが戻った。
ジェイルは放心したように突っ立っていた。
「いったい、なんなんだあいつは……」
我に返り、ドアチェーンをかけようと手を伸ばす。だがいきなり、再度ドアが開けられ、ジェイルはバランスを崩した。ドアの向こうには、こちらを窺うように見ているチセがいる。
「だから、なんなんだお前は!」
唾を飛ばすジェイルに、珍しくチセは神妙な顔で言った。
「えーと、お客さん?みたいです」
チセの後ろに、スーツ姿の男がふたり立っていた。路地裏のアパートにはおよそふさわしくない2人組だった。
防衛本能を感じてジェイルは身構える。
「……電気もガスも、料金はちゃんと払っているはずだが」
強い口調で言い放ったが、男たちは微動だにしない。嫌な予感がした。
「へえ、君、自分で電気代なんて払っているのかい」
そのとき男たちの後ろから、別の影が現れた。
「仮にも一国の元首だった人間とは思えないな」
その姿を認めた瞬間、ジェイルは反射的にドアノブを引いた。だが、それより早くスーツの足が突っ込まれる。なす術なくドアが開かれるのを見ながら、もはや事態はどうにもならないことをジェイルは自覚した。天を仰ぐ。5年間逃げおおせてきたのに、こんなところでチェック・メイトか。
「久しぶりの再会だというのに、ずいぶんな扱いじゃないか、ジェイル」
折り目正しいタキシードに身を包み、鼻の下に立派な髭を携えた男は、からかうように口の端をあげた。
「お元気そうで……叔父上」
母親の弟であるユナル・ジャネイラを、ジェイルは前髪の隙間から睨んだ。
「シンガポールにいらっしゃると思っていましたから、人違いかと思って失礼を」
「招待状を何度も送っただろう? 今日は王太后の85歳の誕生日だから、盛大なパーティーを開くと。いつまで経っても返事がないから、家まで迎えに来たというわけさ」
「この住所は、教えていないはずですが」
「昨日は驚いたよ。まさか君を宮殿で見かけるとは思わなかったから」
ジェイルは内心で舌打ちする。いったいどこで見られ、尾けられていたのか。この叔父の抜け目なさを過小評価していた。
「このお嬢さんと観光かい?」
ユナルは横に立っていたチセの顔を覗き込む。
「コンニチハ」
「こ、こんにちは」
ヴェイラ語の会話の内容はわからないだろうが、緊迫した状況はチセにも伝わっているようだった。ジェイルに向き直り、ユナルは愉快そうに笑った。
「可愛いお嬢さんだねえ。君にロリータ・コンプレックスの気があるとは知らなかった」
「冗談はやめてください。彼女は立派な大学生です。日本の友人から預かっている大事な教え子だ」
笑えない冗談に、ジェイルは無表情で答える。
「ヴェイラと日本のかけ橋か。いいねえ、彼女も今日のパーティーにぜひ招待したいな」
「彼女は関係ないでしょう!」
思わず声を張り上げたが、ユナルはものともしない。
「パーティーは人が多いほうがいいよ。王太后も喜ぶだろう」
「もう、『王太后』ではないでしょう。ただの老人だ。そっとしてあげてください」
「私にとっては永遠に王太后だよ。同じように彼女を慕う人たちがたくさんいる。集まって誕生日を祝うことが、そんなに悪いことかな? 孫の君が顔を出せば、彼女もきっと喜ぶよ」
「……俺は、そうは思わない」
ユナルは興味深そうにジェイルの全身を眺め、指先で髭をなぞった。
「俺なんて言うようになったかい。青白い文学少年だった王子様が」
返事をする代わりに、ジェイルは目の前の叔父を睨んだ。
ユナルはパンパンと手を叩いた。
「さあ、パーティーは正午からだ。はやく準備しないとな。まさか、そんな普段着で出席するつもりじゃないだろうね」
「心配されなくても、スーツくらいあります」
「この子はどうしようか? ドレスは持っているかな」
「彼女は大使館に行く用事があるんです。それにもう日本に帰る予定だ。巻き込まないでください」
ユナルはにやりと目を細めた。
「じゃあ、大使館までお送りしよう。そのあと、ドレスアップさせて会場まで連れていくよ」
そう言って、チセの肩に手を置いた。止めようとしたジェイルを、スーツの男が押しとどめる。
なるほど、チセを人質に取るつもりか。どこまで調べたのか知らないが、昨日の今日で実に用意周到な男だ。だからジェイルはこの叔父が嫌いなのだ。
「監視のためにも彼らは置いていくよ。では、3時間後に」
連れて行かれるチセが、振り返って叫んだ。
「よくわかんないけど、私は大丈夫です! たぶん」
おそらく、ユナルが外国人であるチセに手を出すことはないだろう。利害関係を冷静に判断し、使えるものを都合よく使う。それが叔父のやり口だ。
ユナルとチセの後ろ姿が、階段を降りて行った。車に乗り込む音がする。
ジェイルは男たちに向かって、静かに告げた。
「悪いが、家にはあげられない。俺を待つなら、外の車の中で待ってほしい。ここは普通のアパートだ。スーツの男ふたりがいると、悪目立ちするだろう」
彼らは顔を見合わせた。
「心配しなくても、逃げやしないさ。あの叔父が、絶対に逃がさないだろうしな」
ジェイルは部屋へと引き返した。
居間にかかっている時計は、9時15分を指していた。だが果てしなく長い時間が経ったような気がする。
ジェイルは壁に力なくもたれた。身体が自分のものではなくなったようだった。