第一話 壁の向こうの名前
その年の冬は、雨が多かった。
三日も降り続けば、王宮の石壁は水を含んで黒くなった。昼でも光を返さず、夜になれば壁も柱も床も、すべてが同じ闇の中へ沈んでいく。
雨水は古い城壁の隙間を伝い、地下へ落ちていた。
目には見えない。
ただ、どこか遠くで、水が一滴ずつ石を打つ音がする。
王宮に長く勤める者は、その音を嫌った。
壁の中には、遠い昔に死んだ者たちの通路が残っている。
雨の夜に聞こえる水音は、そこを歩く足音なのだ。
そんな話を、下級侍女たちは寝所で囁き合った。
リュシア・ベルは、そうした話を信じてはいなかった。
信じてはいなかったが、夜番で一人きりになると、廊下の奥にある、灯りの届かない場所だけは見ないようにして歩いた。
その夜、リュシアは上級侍女から、本館の片づけを命じられていた。
雨の夜には、理由をつけて持ち場を離れたがらない者が増える。壁の中を死者が歩くという話を笑っていた上級侍女たちも、暗くなってから本館へ近づこうとはしなかった。
そのため、残された仕事は、いつも下級侍女へ回された。
使われていない客間の燭台を下げ、窓が閉まっているかを確かめ、廊下に残された花瓶や銀器を片づける。
難しい仕事ではない。
だが、東棟で働くリュシアは、本館の奥まで入ったことがほとんどなかった。
同じ灰色の石壁が続き、どの角を曲がっても似たような柱と扉が現れる。来た道を覚えていたつもりだったが、いつの間にか見覚えのない回廊へ入り込んでいた。
引き返そうとして、背後を振り返る。
先ほど通ったはずの曲がり角は暗く、その先には燭台の火さえ見えなかった。
リュシアは、灯りの残る方角へ歩いた。
それが正しい道だからではない。
ただ、闇の深い方へ戻りたくなかった。
長い回廊には、等間隔に燭台が置かれていた。炎は小さく、窓の隙間から風が入るたびに傾いた。
その一瞬だけ、柱の影が廊下を横切る。
誰もいないと分かっていても、人が通ったように見えた。
回廊の突き当たりには、一際大きな扉があった。
扉の上には、王家の紋章が刻まれている。
そこで初めて、リュシアは自分が王族の居室がある一角まで入り込んでいたことに気づいた。
すぐに引き返さなければならない。
そう思ったとき、扉の向こうから声がした。
「おまえは、カシオンよ」
女の声だった。
低く、よく通る声。
王妃エレオノーラの声だと気づき、リュシアは息を止めた。
「それ以外の名前を、二度と口にしてはなりません」
返事はなかった。
雨が高窓を叩いている。
やがて、男の声がした。
「いつまで、死んだ王子の名で生きろとおっしゃるのです」
王太子だった。
「声を抑えなさい」
「ここには、あなたと私しかいない」
「壁には耳があります」
「その壁の中に、私は十二年も閉じ込められてきた」
リュシアの指から盆が滑った。
銀の水差しが石床へ落ちた。
器は割れず、甲高い音を立てながら床の上を転がった。壁際にぶつかり、ようやく止まる。
部屋の中から声が消えた。
リュシアは水差しを拾うこともできず、背を向けた。
逃げなくてはならない。
だが、王宮の中に逃げ場所などなかった。
東棟へ戻ったところで、今夜この廊下を通った者を調べられれば、すぐに分かる。
三歩も進まないうちに、背後で扉が開いた。
「待て」
静かな声だった。
静かであるからこそ、逆らえなかった。
リュシアは足を止めた。
振り返ると、王太子カシオンが扉の前に立っていた。
燭台の光を背にしているため、表情は見えない。銀灰色の髪と、細い頬の輪郭だけが薄く光に縁取られていた。
王妃の姿はない。
私室の奥には、王族だけが使う通路があると聞く。すでにそこから立ち去ったのだろう。
「聞いたのか」
否定しても意味はなかった。
リュシアは床へ膝をつき、額を伏せた。
こぼれた水が、頬のすぐそばまで広がっている。冬の石は冷たく、湿った匂いがした。
「申し訳ございません」
王太子は、すぐには何も言わなかった。
雨音のほかには、壁の奥で水が落ちる音だけがした。
「顔を上げろ」
リュシアは命じられたとおりにした。
王太子は、感情の見えない目で彼女を見下ろしていた。
冷たい男だといわれている。
宴では滅多に笑わず、貴族たちの機嫌を取ろうともしない。使用人を怒鳴りつけることはないが、親しく言葉を交わすこともなかった。
人間に興味がないのだと、王宮の者たちは噂していた。
「名は」
「リュシア・ベルと申します」
「どこに仕えている」
「東棟でございます」
「いつからだ」
「五年前からでございます」
王太子は、確かめるように繰り返した。
「リュシア・ベル」
王族に名前を呼ばれたのは、初めてだった。
下級侍女の名を覚える者は少ない。リュシアも普段は、「東棟の娘」か「そこの侍女」と呼ばれていた。
王太子は静かに告げた。
「明日の朝、君は死ぬ」
リュシアは、自分でも驚くほど落ち着いて、その言葉を聞いた。
死ぬ。
意味は分かる。
だが、その言葉と自分の身体が、うまく結びつかなかった。
心臓は動いている。
喉は乾いている。
冷えた指にも感覚が残っている。
それなのに、明日の朝には死ぬのだという。
泣き叫ぶのだと思っていた。
命乞いをするのだとも思っていた。
実際に胸へ浮かんだのは、夜明けまでの時間をどのように過ごせばよいのだろうという、場違いな戸惑いだった。
「承知いたしました」
王太子の眉が、わずかに動いた。
「何を承知した」
「処罰をお受けいたします」
「話を最後まで聞け」
王太子は廊下の先へ目を向けた。
人影がないことを確かめ、声を落とす。
「死ぬのは、王宮侍女のリュシア・ベルだ。君自身ではない」
リュシアは目を上げた。
「どういう意味でございましょう」
「王妃は、廊下に誰かがいたことに気づいている」
水差しの音を聞かれた。
夜が明ければ、今夜この棟に入った使用人を一人ずつ調べるだろう。秘密を聞いた者が見つかれば、事故か病死に見せかけて殺される。
「その前に、君が死んだことにする」
北側の貯水路へ落ちたように見せかける。
獣の血をつけた上着と髪飾りを水門へ残し、夜番の途中で足を滑らせたことにする。雨で水かさが増しているため、遺体が見つからなくても不自然ではない。
リュシア本人は、夜明け前に王宮を出る葬送用の馬車へ隠す。
王都を離れたあと、国境近くの村で新しい身分を用意するという。
「なぜ、そこまでなさるのですか」
王太子は窓の外を見た。
硝子を流れる雨の向こうで、中庭の裸木が揺れていた。細い枝が風に押され、暗い空へ何度も身を折っている。
「私の秘密を知ったことは、君の罪ではない」
「ですが、私を逃がしたと知られれば、殿下のお立場も危うくなります」
「私を殺したい者なら、すでにたくさんいる」
王太子は、わずかに口元を動かした。
笑ったようにも見えたが、その目には何も浮かんでいなかった。
「そんな私が、下級侍女を助けるのも一興だろう」
彼は私室から、旅装と硬貨の入った革袋を持ってきた。
「夜明け前、近衛隊長のエルンストが迎えに来る」
「信用してよい方でしょうか」
「私よりは信用できる」
冗談なのか、リュシアには分からなかった。
「部屋へ戻れ。誰にも話すな」
リュシアは立ち上がった。
膝が痺れ、初めの一歩を踏み出すまでに少し時間がかかった。
数歩進んだところで、背後から呼び止められた。
「リュシア」
振り返る。
王太子は、先ほどと同じ場所に立っていた。
「生き延びろ」
その言葉だけは、命令には聞こえなかった。
夜明け前、王宮の北側で鐘が鳴った。
王宮に関わる者が亡くなったことを知らせる鐘だった。
低い音は雨雲の下を這い、まだ眠りの残る王都へ広がっていった。
その頃、リュシアは葬送用の馬車の棺に横たわっていた。
前日に亡くなった老官吏を運ぶ予定だった棺だが、遺体は夜のうちに別の馬車へ移され、代わりにリュシアが横たわっていた。
車輪が王宮の石畳を叩く。
薄い床板を通し、振動が背中へ伝わった。
城門で馬車が止まった。
「棺を開けろ」
衛兵の声がした。
御者台にいるエルンストが答えた。
「疫病の疑いがある遺体だ」
「確認するよう命じられている」
「開けるなら、おまえの名を記録へ残す。そのあと王妃陛下へ、自分で報告しろ」
低い言い争いが続いた。
リュシアは口元を両手で覆い、息を殺した。
やがて、重い門が開く音がした。
馬車が再び動き出す。
硬い石畳の振動が消え、車輪が泥を踏む柔らかな揺れへ変わった。
王宮を出たのだ。
どれほど走ったのか、リュシアには分からなかった。
やがて馬車が止まり、荷台の扉が開いた。
冷たい朝の空気が流れ込んでくる。
「出ていい」
エルンストの声だった。
リュシアが棺から這い出ると、馬車は深い森の中に止まっていた。
夜は明けていた。
だが、木々が空を覆い、地上まで十分な光が届いていない。濡れた幹は黒く、木の根の間には白い霧が沈んでいた。
エルンストは馬車のそばに立ち、森の奥を見ていた。
三十代半ばほどの男で、右の眉から頬へ古い傷が走っている。
「予定では、この先で別の者へ引き渡すことになっていた」
「予定では、ということは」
森の中から、枝を踏む音がした。
エルンストが剣へ手をかける。
木々の間から現れたのは、王宮に残っているはずの王太子だった。
外套の肩口が裂け、黒い布に血が広がっている。
「殿下」
王太子は馬車まで歩いてきた。
顔は青ざめていたが、足取りは崩れていない。
「その呼び方は、もうやめたほうがいい」
「何があったのですか」
王太子は背後の森を振り返った。
遠くで犬の吠える声がした。
一頭ではない。
何頭もの猟犬が、湿った森をこちらへ向かっている。
「予定が変わった」
王太子は言った。
「私も、殺されることになったらしい」




