表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

「死んでくれ」と言われた悪役令嬢、死んだふりして第二の人生始めます

作者: みんと
掲載日:2026/02/26


 シャンデリアの光が、残酷なほど美しく夜会場を照らしていた。

 百を超える蝋燭の炎が、天井に吊るされた水晶のシャンデリアに反射して、まるで降り注ぐ星のように大理石の床を彩っている。楽団が優雅なワルツを奏で、色とりどりのドレスを纏った貴族たちがグラスを傾けている。

 王国最大の社交場。秋の大夜会。

 その場の全ての視線が──一人の男に集まっていた。

「──セラフィーナ・ヴァルモント」

 壇上に立つ王太子アルベルト・レグリシア。金髪碧眼、端整な顔立ち。王国の次期統治者にふさわしい、堂々たる佇まい。

 しかしその美しい顔に浮かんでいるのは、冷たい嫌悪だった。

「本日をもって、お前との婚約を破棄する」

 夜会場が、しん、と静まり返った。

 セラフィーナは壇上の下に立っていた。深紅のドレス。艶やかな黒髪をアップに纏め、首元にはヴァルモント家に代々伝わるルビーのネックレス。公爵令嬢にふさわしい、完璧な装い。

 完璧な装いのまま、数百人の前で恥辱を受けている。

 アルベルトの隣には、一人の少女が寄り添っていた。リリアーナ。淡い金色の巻き毛に、うるんだ翡翠の瞳。聖女の力を持つと言われる男爵令嬢。清楚で、儚げで、守ってあげたくなるような──セラフィーナとは正反対の少女。

「お前はリリアーナをいじめた。聖女を虐げる悪女に、未来の王妃の資格はない」

 いじめた?

 セラフィーナの記憶を辿る。確かにリリアーナに厳しい言葉をかけたことはある。だがそれは、王宮の作法も知らず、王太子に馴れ馴れしく近づく少女に礼節を教えようとしただけだ。

 しかし今、リリアーナはアルベルトの腕の中で涙を流している。その涙の一滴が、セラフィーナの言葉よりもずっと雄弁に「被害者」を演じていた。

「アルベルト殿下、私は──」

「黙れ」

 セラフィーナの言葉は、遮られた。

「お前のような女は──死んでくれ」

 その一言が、夜会場に響き渡った。

 誰かが息を呑んだ。だが──誰も、セラフィーナを庇わなかった。

 貴族たちの目。嘲笑。同情。好奇心。哀れみ。あらゆる感情が混ざった視線が、セラフィーナに突き刺さる。

 ヴァルモント公爵家の令嬢。幼い頃から完璧であることを求められ、王太子妃として恥じない教育を受け、この国のために全てを捧げてきた。

 その全てが、今、踏みにじられた。

 ──死んでくれ。

 その言葉が頭の中で反響した瞬間。

 世界が──白く弾けた。

 頭の奥で、何かが割れるような音がした。走馬灯のように、見知らぬ映像が流れ込んでくる。

 蛍光灯の明かり。パソコンの画面。積み上がった書類。終電を逃した夜。コンビニのおにぎり。上司の怒号。「まだ終わらないのか」「使えないな」「お前の代わりはいくらでもいる」──。

 そして──暗転。

 過労で倒れた、ある日本人女性の最期。

「……あ」

 セラフィーナは──思い出した。

 前の人生を。日本という国で、ブラック企業に殺された、二十八歳のOLの記憶を。

 そして同時に、もう一つ気づいた。

 この世界。この設定。この婚約破棄のシーン。

 前世で疲れ果てた深夜に、唯一の癒しだった乙女ゲーム。『聖女と七人の騎士』。

 セラフィーナ・ヴァルモントは、そのゲームの──悪役令嬢だ。

 そしてこの悪役令嬢の結末は。

 婚約破棄の後、全てを失い、最後は──処刑。

 処刑エンド。

 頭が急速に冴えていく。涙が引っ込んだ。代わりに、腹の底から不思議な力が湧いてくる。

 ──ああ、そう。死ねって言うんだ。

 前世でも「お前の代わりはいくらでもいる」と言われた。そして本当に死んだ。過労で。

 今度は「死んでくれ」と面と向かって言われている。

 二度目だ。死ねと言われるのは。

 でも──今度は従わない。

 前世は自分の意思で死んだわけじゃない。体が先に限界を迎えた。選択肢がなかった。

 でも今は違う。今は選べる。

 死んでくれ?

 ──いいよ。「死んで」あげる。

 ただし──本当に死ぬつもりは、一ミリもない。

 セラフィーナは顔を上げた。

 涙を拭い、背筋を伸ばした。数百人の視線を受け止めながら、美しく微笑んだ。

「──かしこまりました、殿下。お望み通りに」

 深々と礼をして、夜会場を去った。

 その足取りに、迷いはなかった。



 夜会から戻ったセラフィーナは、自室に入るなり扉に鍵をかけた。

 そして──笑った。

「ふ、ふふ……あはは」

 一人で笑っている姿は、傍から見れば正気を疑われるだろう。だが、止められなかった。

 前世の記憶が完全に馴染んだ今、頭の中はフル回転している。ゲームの知識。前世のOLとしての実務能力。そしてセラフィーナ自身が積み上げてきた貴族としての教養と、薬学の知識。

 セラフィーナは学生時代、王立学院で薬学を専攻していた。王太子妃として毒物の知識は必須とされていたからだ。だが今、その知識が全く別の用途で役に立とうとしている。

「仮死薬──ジュリエット・ポーション」

 前世の知識と、この世界の薬学を組み合わせる。心拍を極限まで落とし、体温を下げ、呼吸を感知できないレベルまで抑える薬。効果は六時間。その間、どんな医者が診ても「死亡」と診断するはずだ。

 材料は全て、自室の薬棚にある。

 調合を始めながら、もう一人だけ、信頼できる人間を呼んだ。

「──お嬢様、お呼びですか」

 メイドのエマ。幼い頃からセラフィーナに仕えてきた、唯一の味方。

「エマ。あなたに頼みたいことがあるの」

 全てを話した。前世の記憶のことは伏せて、しかし計画だけは正確に。

 明日の朝、セラフィーナは馬車で屋敷を出る。王太子に「死んでくれ」と言われた公爵令嬢が、悲嘆に暮れて早朝に一人で出かけた──という目撃証言を残す。

 馬車は崖道を通る。そこで「事故」が起きる。馬車ごと崖下に転落。

 転落の直前にセラフィーナは仮死薬を飲み、馬車から脱出。崖下にはあらかじめ壊れた馬車の残骸と、セラフィーナの外套を配置しておく。

 仮死状態のセラフィーナをエマが回収。

「回収後、この薬を飲ませて。六時間で目が覚めるわ」

「お嬢様……本気、ですか」

「本気よ。ここにいたら、本当に殺される」

 ゲームの処刑エンドを知っているセラフィーナは、それが冗談ではないことを分かっていた。

 エマの目に涙が光った。しかし、すぐにその目は決意の色に変わった。

「──お供します。どこまでも」

「ありがとう、エマ」

 翌朝。計画は完璧に遂行された。

 早朝の崖道で「事故」が発生。駆けつけた衛兵が崖下で大破した馬車と、セラフィーナの外套を発見。遺体は川に流されたと判断された。

 その日の夕方には、王国中にニュースが駆け巡った。

「ヴァルモント公爵令嬢セラフィーナ、馬車事故により死亡──」

 王宮では、アルベルトが報告書を読んでいた。

 

「そうか」

 それだけ言って、報告書を閉じた。

 表情は変わらなかった。

 ただ──ペンを持つ指先が、かすかに震えていたことに、アルベルト自身は気づいていなかった。



 王国の南端。ベルモット辺境伯領。

 王都から馬車で五日。緑豊かな丘陵地帯に点在する小さな町の一つ、エーデルワイスの町に、一人の女性が流れ着いたのは、セラフィーナの「死亡」から二週間後のことだった。

 黒髪を栗色に染め、質素な旅装に身を包んだ女性。名は「フィーナ」。傍らには一人のメイド──ではなく、「姉」のエマ。

 姉妹で旅をしてきた薬師見習い、という触れ込み。

「ここにするわ」

 町の外れにある、潰れた雑貨屋の空き物件。家賃は信じられないほど安い。窓からは丘の上の風車が見える。

「お嬢──フィーナ、ここは少し寂しくないですか?」

「寂しいくらいがちょうどいいの。目立ちたくないし」

 前世のOL時代、狭いワンルームで一人暮らしをしていた記憶がある。あの頃に比べれば、この空き物件は広くて、風通しが良くて、何より上司がいない。最高だ。

 三日で店を整えた。棚を磨き、薬草を並べ、看板を掲げる。

『フィーナの薬屋』

 エマが「もう少しお洒落な名前にしませんか」と言ったが、分かりやすいのが一番だ。前世でも「分かりやすい件名のメールは開封率が高い」と学んだ。

 最初の客が来たのは、開店三日目だった。

「あのー、ここ薬屋さん? うちの子が熱出しちゃって」

 農家の奥さんが、三歳くらいの子供を抱えて駆け込んできた。

 診る。喉の腫れ。軽い風邪だ。

 セラフィーナ──フィーナは、薬棚から材料を取り出した。ティーツリーの葉、ラベンダーの花弁、蜂蜜。この世界の薬草と前世のアロマテラピーの知識を組み合わせた、子供でも飲める甘いシロップ。

「一日三回、食後に小さじ一杯。三日で治ると思います」

「あ、ありがとう! いくらですか?」

「銅貨三枚で」

「え、そんなに安くていいの!?」

 安い。王都の薬師なら銀貨を取る。でもここは辺境だ。まずは信頼を得ることが先。前世の営業戦略──「初回はお試し価格」だ。

 三日後、奥さんが笑顔で戻ってきた。

「治った! すっかり元気になったの! ねえ、うちのお婆ちゃんの腰痛も診てもらえない?」

 口コミは、最強の広告だ。

 一週間もすると、町の人たちが次々と薬屋を訪れるようになった。

「フィーナちゃんの薬、よく効くわねぇ」

「しかもお安いし、丁寧だし」

「王都から来たんですって? こんな辺境に勿体ない」

 ──勿体なくなんかない。ここがいいのだ。

 前世では、毎日終電まで働いて、誰にも感謝されなかった。「お前の代わりはいくらでもいる」と言われ続けた。

 でもここでは、薬を渡すたびに「ありがとう」と言ってもらえる。

 たったそれだけのことが、こんなにも胸を温かくするなんて。

 開店から一ヶ月が過ぎた頃だった。

 その日は雨だった。

 夕方、閉店準備をしていると、店の扉が乱暴に開いた。

「すまない──人を、頼む」

 ずぶ濡れの男が立っていた。

 長身。濡れた黒髪が額に張り付いている。鋭い目つき。だがその顔は血の気を失っていて、左腕を押さえている。指の隙間から、赤い血が滴っていた。


「──中に入って。すぐ診るから」


 フィーナは一瞬の躊躇もなく、男を店の奥に通した。前世のOL時代にはなかった判断の速さだ。この世界で身につけた、薬師としての本能。


 男を椅子に座らせ、外套を脱がせる。左腕に深い切り傷。だが骨には達していない。


「何があったの?」


「……山賊だ。領内の巡回中に待ち伏せされた」


 巡回。この辺境を巡回する人物。フィーナの手が一瞬止まった。


「あなた、もしかして──」


「レオンハルト・ヴァイスベルク。隣のヴァイスベルク公爵領の領主だ」


 公爵。

 フィーナの心臓が跳ねた。貴族だ。身分の高い人間に近づくのは危険だ。正体がバレるかもしれない。


 ──でも、目の前で血を流している人間を放っておくことは、できない。


「……失礼します」


 傷口を洗浄する。消毒液を調合する。この世界のアロエに似た薬草と、蒸留酒を混ぜた消毒薬。前世の知識がなければ、消毒という概念すらこの世界にはほとんど浸透していない。


「少し沁みるけど、我慢して」


「……構わない」


 男は眉一つ動かさなかった。フィーナが手際よく傷口を縫合し、薬草の軟膏を塗り、包帯を巻く。その間、レオンハルトはじっとフィーナの手元を見ていた。


「……見事な手際だ」


「薬師ですから」


「この辺境で、これほどの腕を持つ薬師は聞いたことがない」


「最近越してきたばかりなので」


 それ以上は聞かなかった。レオンハルトは余計な詮索をしない男だった。

 ただ、一言だけ。


「──助かった。礼を言う」


 その声は低く、静かで、しかし確かな重みがあった。

 前世で「ありがとう」と言われた記憶を探る。上司から? ない。同僚から? たまに。クライアントから? ほとんどない。

 この世界に来て、「ありがとう」の価値を知った。けれどこの男の「礼を言う」は、また少し違う温度を持っていた。


「お代は──」


「要らない」


 レオンハルトが立ち上がった。


「要らない、ではない。必ず返す」


 そう言い残して、雨の中に消えていった。


 三日後。


 店の前に、荷馬車が止まった。

 中身は、大量の薬草。それも、王都でしか手に入らないような高級な品種ばかり。ムーンリリー、霜降りセージ、黄金カモミール。


 添えられた手紙は一行だけ。


『先日の礼。必要なものがあれば言え。──L』


「……あの人、加減を知らないのかしら」


 フィーナは呆れた。呆れたのに、口元が緩んでいるのをエマに見られた。


「フィーナ、笑ってますよ」


「笑ってない」


「笑ってます」


「……笑ってないったら」


 それから、レオンハルトは月に二度、フィーナの薬屋を訪れるようになった。


 最初は傷の経過観察という名目だった。とっくに治っているのに。


「傷の様子を見てほしい」


「もう完治してるわよ」


「……念のためだ」


 次は薬草の相談だった。


「領内で疫病が出た。予防薬を処方できるか」


 これは正当な依頼だった。フィーナは三日かけて予防薬を調合し、レオンハルトの領民に配布した。被害は最小限に抑えられた。


「お前のおかげで、百人以上の命が救われた」


「大袈裟よ。薬が効いただけ」


「薬を作ったのはお前だ」


 レオンハルトは事実しか言わない男だった。お世辞を言わない。嘘もつかない。褒めるときも、ただ事実を述べるだけ。

 それが──前世で空虚な社交辞令ばかり聞かされてきたフィーナには、深く刺さった。


 月に二度だった訪問が、月に三度になった。そのうち週に一度になった。


 レオンハルトが来ると、店の空気が変わった。常連の奥様方が「あら公爵様」とそわそわし、子供たちが物珍しそうに窓から覗く。

 レオンハルトは町では有名人だった。隣のヴァイスベルク領を治める若き公爵。冷血公と呼ばれている。表情が乏しく、言葉が少なく、社交界には一切顔を出さない。領民からは有能な領主として信頼されているが、同時に恐れられてもいる。


 ──冷血、ね。


 フィーナはそうは思わなかった。

 傷の治療中、一度も痛みに顔をしかめなかった男。だが、領内の疫病の話をするときだけ、ほんの僅かに声が揺れた。領民の命を本気で案じている。冷たいのではなく、感情の表し方を知らないだけだ。


 前世の自分もそうだった。感情を表に出すのが下手で、「冷たい」「何を考えているか分からない」と言われ続けた。


 レオンハルトを見ていると、どこか過去の自分を見ているようで──そして同時に、過去の自分とは決定的に違う「強さ」を感じて、目が離せなくなる。


 ある日、レオンハルトが店を訪れたとき。いつもの椅子に座り、いつものように黙ってフィーナの調合を眺めていた。


「ねえ、毎回来るけど、本当に用があるの?」


「……ある」


「何?」


 沈黙。長い沈黙。


「……お前の淹れた薬草茶が飲みたい」


 フィーナは噴き出しそうになった。冷血公が、お茶を飲みに来ているのだ。


「それ、用事って言わないと思うけど」


「お前に会いに来ている、と言った方がいいか」


 さらりと言った。さらりと、とんでもないことを。

 フィーナの手が止まった。顔が熱い。前世でも今世でも、こんなことを言われた経験がない。


「……っ、お茶、淹れるわ」


「ああ」


 逃げるように薬棚に向かうフィーナの背中を、レオンハルトはいつもの無表情で──しかし、どこか柔らかい目で見つめていた。


 エマが奥の部屋でニヤニヤしていた。


「エマ、その顔やめて」


「何も言ってません」


「顔が言ってる」


 季節は秋から冬に変わり、フィーナの薬屋は町になくてはならない存在になっていた。

 そしてフィーナ自身の心にも、いつの間にか、なくてはならない存在ができていた。


---




 王都レグリシア。

 かつて大陸一と讃えられた白亜の王城は、その輝きを急速に失いつつあった。


 セラフィーナ・ヴァルモントの死から、半年。


 最初の異変は、外交だった。

 セラフィーナは公爵令嬢として、幼い頃から各国の王族と交流があった。隣国ヴェルディア帝国の皇女とは幼馴染であり、南方のリモージュ公国の大公とは文通を続けていた。王太子妃候補として、セラフィーナは王国の外交における重要なパイプ役を担っていたのだ。

 ──それを、アルベルトは知らなかった。


 セラフィーナの「死後」、ヴェルディア帝国からの親書の返事が途絶えた。リモージュ公国との貿易交渉は暗礁に乗り上げた。理由は単純だ。相手国にとって、交渉相手はセラフィーナだった。王太子ではない。


「なぜ返事が来ない!?」


 アルベルトが外務大臣を怒鳴りつける。だが外務大臣も困惑していた。そもそも、帝国皇女との個人的な信頼関係を築いていたのはセラフィーナであり、外務省ではない。


 次に崩れたのは、経済だった。

 ヴァルモント公爵家は王国随一の名門であると同時に、最大の納税者でもあった。セラフィーナの死後、公爵はショックで病に倒れ、領地の経営は停滞した。公爵家からの税収が激減し、王国の財政は一気に逼迫した。


 そして──聖女リリアーナ。


 アルベルトがセラフィーナを捨ててまで選んだ少女。聖女の力で国を導くはずだった存在。

 だが、蓋を開けてみれば。


「リリアーナ、今日の公務はどうした?」


「え……だって、難しくて分からなかったから……」


 公務を放棄。王宮の作法は覚えない。外国の使節の前で失言を繰り返す。貴族たちの間では「あの聖女は本当に聖女なのか」という囁きが広がり始めた。


 リリアーナに悪意はないのだろう。彼女はただの男爵令嬢だ。王宮で求められる高度な教養も政治感覚も、元々持ち合わせていない。

 セラフィーナは十五年かけてそれを身につけた。リリアーナにそれを求めるのは酷だ。


 ──だが、それを理解しているのはセラフィーナだけだ。アルベルトは理解していない。


「なぜお前にはできないんだ……なぜ……」


 執務室で書類の山に埋もれながら、アルベルトは独り言ちた。

 セラフィーナがいた頃は、外交文書の草稿は彼女が作っていた。各国の情勢分析も、宮中行事の段取りも、全てセラフィーナが水面下で処理していた。アルベルトがそれに気づいていなかっただけだ。


 空気のように当たり前にあったものが、失われて初めてその大きさを知る。


「殿下、ヴェルディア帝国が国境に兵を集めているとの報告が」


「──何だと?」


「セラフィーナ様と皇女殿下の友誼で保たれていた不戦協定です。セラフィーナ様の死後、帝国側は協定の更新に応じておりません」


 アルベルトの顔から血の気が引いた。


 夜。一人になった執務室で、アルベルトは窓の外を見ていた。


「……死んでくれ、と言ったのは、俺か」


 あの夜会の記憶が蘇る。壇上から見下ろしたセラフィーナの顔。

 泣いていなかった。取り乱してもいなかった。ただ真っ直ぐに立って、微笑んで、「かしこまりました」と言って去っていった。


 あの微笑みの意味を、今になって考える。


「……あれは、諦めの顔じゃなかった」


 決意の顔だった。

 何か覚悟を決めた人間の顔だった。


 アルベルトは机の引き出しから、一枚の報告書を取り出した。馬車事故の調査報告書。何度も読み返した。何度読んでも、不自然な点がある。

 遺体が見つかっていない。


「……セラフィーナ」


 その名前を呟いた。

 半年前、この名前を呼ぶとき、そこにあったのは嫌悪だった。

 今あるのは──後悔だ。


---




 セラフィーナの死から一年。


 フィーナの薬屋は、今やエーデルワイスの町だけでなく、近隣の町や村からも患者が訪れる評判の店になっていた。


 そしてフィーナとレオンハルトの関係も、一年の間に少しずつ──いや、レオンハルト側はかなり急速に──変化していた。


「フィーナ、今日は休みにしろ」


「なんで。予約が三件あるのよ」


「俺が代わりの薬師を寄越す。お前は休め」


「休めって、どこで休むのよ」


「俺の城に庭園がある。今、薔薇が見頃だ」


「……それ、デートに誘ってるの?」


「そうだ」


 直球だった。レオンハルトは回りくどいことが言えない男なのだ。


 いつの間にか、レオンハルトはフィーナの生活に深く入り込んでいた。薬草の仕入れルートを整備し、店の修繕に職人を手配し、冬には薪を届けに来た。


「そこまでしてくれなくても──」


「したいからしている。迷惑か?」


「……迷惑じゃ、ないけど」


 前世では恋愛をする余裕がなかった。ブラック企業で心も体も擦り減って、「自分を好きになってくれる人がいる」という想像すらできなかった。

 今世でも、悪役令嬢として王太子に嫌われ、「死んでくれ」と言われた。


 そんな自分を、この人は「好きだ」と──まだ言葉にはしていないけれど、行動の全てが叫んでいる。


 レオンハルトの薔薇園で、二人は並んで歩いた。


「フィーナ。お前には聞きたいことがたくさんある。どこから来たのか。なぜこの辺境にいるのか。お前の手は薬師の手というより、もっと──」


「……聞かないでくれる?」


「ああ。お前が話したいと思うまで待つ。何年でも」


 何年でも。


 その言葉が胸に落ちた瞬間、涙が出た。


「ちょ、なんで泣いているんだ。俺が何か──」


「違うの。嬉しいだけ。嬉しくて泣いてるの。こういうの、初めてだから」


 レオンハルトは黙って、不器用にフィーナの頭に手を置いた。ぽん、ぽん、と撫でるその手は、剣を振るう手と同じとは思えないほど優しかった。


 ──そして、その幸せな日々を揺るがす出来事が訪れたのは、その翌月のことだった。


 ヴァイスベルク公爵領に、王国から外交使節団が到着するという知らせ。

 目的は、悪化する帝国との関係を仲裁してほしいという、王太子アルベルトからの依頼。


 使節団の団長は──アルベルト本人だった。


「レオンハルト、使節団の歓迎会に出なくてはならない」


「……もちろん、分かっている」


 フィーナは出席するつもりはなかった。だが、レオンハルトが言った。


「俺の隣にいてほしい」


「え?」


「お前は俺にとって大切な人だ。公の場でもそれを隠すつもりはない」


 フィーナの心臓が止まりかけた。

 それは事実上の──。


「レオンハルト、それ──」


「分かっている。だから言っている。フィーナ、俺の隣にいてくれ」


 公爵が公の場で「隣にいてほしい」と言う。それが意味することは一つだ。


 歓迎会の夜。


 ヴァイスベルク城の大広間は、こぢんまりとしているが品があった。王都の過剰な装飾とは違い、磨かれた木と石の素材を活かした、実直な美しさ。


 アルベルトが到着した。


 一年ぶりに見る王太子は、変わっていた。あの夜会での傲慢な輝きは消え、目の下には隈があり、頬はこけている。王国の崩壊は、彼自身をも蝕んでいた。


 アルベルトはレオンハルトに歩み寄り、外交辞令を述べた。レオンハルトは最低限の礼で応じた。

 そしてアルベルトの目が──レオンハルトの隣に立つ女性に移った。


 栗色の髪。穏やかな微笑み。質素だが上品なドレス。どこかで見たような──いや。


 アルベルトの顔が、凍りついた。


 栗色に染めた髪。変えた口調。質素な装い。だがその所作──グラスの持ち方、背筋の伸ばし方、顎の角度。十五年の貴族教育が染み付いた、骨の髄までヴァルモント公爵令嬢の所作。


「──セラ、フィーナ……?」


 声が震えていた。


 フィーナは──セラフィーナは、アルベルトを真っ直ぐに見た。


 一年前、この男に「死んでくれ」と言われた。

 一年前、この男の言葉通りに「死んだ」。

 そして新しい人生を始めた。新しい名前で、新しい場所で、新しい大切な人と。


 もう、あの頃のセラフィーナではない。

 王太子に認められることが全てだった少女は、もういない。


 フィーナは小首をかしげて、にっこりと微笑んだ。


「──どちら様ですか?」


 アルベルトの顔面が蒼白になった。


「わ、私だ! アルベルトだ! セラフィーナ、お前──生きて──」


「申し訳ありません。フィーナと申します。薬師をしております。お人違いではないでしょうか?」


 完璧な微笑み。完璧な他人行儀。

 アルベルトの目が見開かれた。その目に浮かんでいるのは、驚愕と、後悔と、そして──絶望。


 レオンハルトが一歩前に出た。フィーナの肩をそっと抱き寄せる。


「アルベルト殿下。こちらは私の大切な人だ。無礼は許さない」


 静かな声。だがその中に込められた圧は、この場の全員に伝わった。


 アルベルトは何かを言おうとして──言葉が出なかった。

 目の前にいるのは、一年前に自分が殺した女だ。「死んでくれ」と言った。そして彼女は死んだ。

 いや──死んでいなかった。死んだふりをして、自分から逃げたのだ。

 そして今、別の男の隣で笑っている。自分に向けたことのない、穏やかで幸せそうな顔で。


「…………」


 アルベルトは踵を返し、広間を出ていった。

 その背中を、もう誰も追わなかった。


---



 歓迎会の後、フィーナとレオンハルトは城のバルコニーに出た。

 冬の星空が、息を呑むほど美しかった。


「……大丈夫か」


「うん。大丈夫」


「震えている」


「……寒いだけよ」


 レオンハルトが外套を脱いで、フィーナの肩にかけた。


「お前が誰であっても構わない。フィーナでも、別の名前でも。俺にとっては同じだ」


「……気づいてたの?」


「最初から、ただの薬師ではないと思っていた。だが、どうでもいいことだ」


「どうでもいい……」


「俺が好きなのは、目の前にいるお前だ。過去の名前も肩書きも関係ない」


 フィーナは泣いた。今度は、隠さなかった。


 前世では「死ね」と言われるように働いて、死んだ。

 今世では「死んでくれ」と言われて、死んだふりをした。

 そして生き延びた先で──「生きていてくれ」と言ってくれる人に出会った。


「レオンハルト」


「なんだ」


「私ね、二回死んでるの。一回目は本当に死んで、二回目は嘘で死んで」


「……」


「でも、三回目はないわ。もう死なない。ここで生きる。あなたの隣で」


 レオンハルトは何も言わなかった。

 ただフィーナの手を取り、強く握った。

 その手の温もりが、全ての答えだった。


 翌朝。

 エーデルワイスの町に、いつもの朝が来た。


 フィーナの薬屋の扉が開く。薬草の香りが朝の空気に溶ける。


「おはよう、フィーナちゃん! 今日もよろしくね!」


「おはようございます。今日は何にしましょう?」


 小さな薬屋。小さな町。穏やかな日常。

 そしてカウンターの奥には、いつもの椅子に座って薬草茶を飲んでいる黒髪の公爵。


「……レオンハルト、また来たの?」


「茶を飲みに来た」


「毎日来なくてもいいのよ?」


「来たいから来ている」


 エマがニヤニヤしている。常連の奥様方がひそひそと「今日も来てるわ」と囁いている。


 フィーナは呆れたように笑って、薬草茶を淹れた。


 ──これが、「死んでくれ」と言われた女の、ささやかで幸福な第二の人生だ。


 死んでくれと言われたから、死んだふりをした。

 そうしたら──本当の人生が始まった。


〈了〉



お読みいただき、ありがとうございました!


少しでも面白い! 続きが読みたい! と思っていただけたら、

『ブックマーク』と広告下の【☆☆☆☆☆】を【★★★★★】にしていただけると幸いです!


評価ボタンは、モチベーションに繋がりますので、何卒応援よろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
医師に診断させるわけではないのに仮死薬は何の意味が? 誰も見てないところで飲んで仮死になってエマに回収させて復帰させる薬飲ませてもらってる謎の行動になってますが何か他のお話と混ざったんでしょうか?
突如のにゃん!がいい。 残しておいてほしい。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ