「死んでくれ」と言われた悪役令嬢、死んだふりして第二の人生始めます
シャンデリアの光が、残酷なほど美しく夜会場を照らしていた。
百を超える蝋燭の炎が、天井に吊るされた水晶のシャンデリアに反射して、まるで降り注ぐ星のように大理石の床を彩っている。楽団が優雅なワルツを奏で、色とりどりのドレスを纏った貴族たちがグラスを傾けている。
王国最大の社交場。秋の大夜会。
その場の全ての視線が──一人の男に集まっていた。
「──セラフィーナ・ヴァルモント」
壇上に立つ王太子アルベルト・レグリシア。金髪碧眼、端整な顔立ち。王国の次期統治者にふさわしい、堂々たる佇まい。
しかしその美しい顔に浮かんでいるのは、冷たい嫌悪だった。
「本日をもって、お前との婚約を破棄する」
夜会場が、しん、と静まり返った。
セラフィーナは壇上の下に立っていた。深紅のドレス。艶やかな黒髪をアップに纏め、首元にはヴァルモント家に代々伝わるルビーのネックレス。公爵令嬢にふさわしい、完璧な装い。
完璧な装いのまま、数百人の前で恥辱を受けている。
アルベルトの隣には、一人の少女が寄り添っていた。リリアーナ。淡い金色の巻き毛に、うるんだ翡翠の瞳。聖女の力を持つと言われる男爵令嬢。清楚で、儚げで、守ってあげたくなるような──セラフィーナとは正反対の少女。
「お前はリリアーナをいじめた。聖女を虐げる悪女に、未来の王妃の資格はない」
いじめた?
セラフィーナの記憶を辿る。確かにリリアーナに厳しい言葉をかけたことはある。だがそれは、王宮の作法も知らず、王太子に馴れ馴れしく近づく少女に礼節を教えようとしただけだ。
しかし今、リリアーナはアルベルトの腕の中で涙を流している。その涙の一滴が、セラフィーナの言葉よりもずっと雄弁に「被害者」を演じていた。
「アルベルト殿下、私は──」
「黙れ」
セラフィーナの言葉は、遮られた。
「お前のような女は──死んでくれ」
その一言が、夜会場に響き渡った。
誰かが息を呑んだ。だが──誰も、セラフィーナを庇わなかった。
貴族たちの目。嘲笑。同情。好奇心。哀れみ。あらゆる感情が混ざった視線が、セラフィーナに突き刺さる。
ヴァルモント公爵家の令嬢。幼い頃から完璧であることを求められ、王太子妃として恥じない教育を受け、この国のために全てを捧げてきた。
その全てが、今、踏みにじられた。
──死んでくれ。
その言葉が頭の中で反響した瞬間。
世界が──白く弾けた。
頭の奥で、何かが割れるような音がした。走馬灯のように、見知らぬ映像が流れ込んでくる。
蛍光灯の明かり。パソコンの画面。積み上がった書類。終電を逃した夜。コンビニのおにぎり。上司の怒号。「まだ終わらないのか」「使えないな」「お前の代わりはいくらでもいる」──。
そして──暗転。
過労で倒れた、ある日本人女性の最期。
「……あ」
セラフィーナは──思い出した。
前の人生を。日本という国で、ブラック企業に殺された、二十八歳のOLの記憶を。
そして同時に、もう一つ気づいた。
この世界。この設定。この婚約破棄のシーン。
前世で疲れ果てた深夜に、唯一の癒しだった乙女ゲーム。『聖女と七人の騎士』。
セラフィーナ・ヴァルモントは、そのゲームの──悪役令嬢だ。
そしてこの悪役令嬢の結末は。
婚約破棄の後、全てを失い、最後は──処刑。
処刑エンド。
頭が急速に冴えていく。涙が引っ込んだ。代わりに、腹の底から不思議な力が湧いてくる。
──ああ、そう。死ねって言うんだ。
前世でも「お前の代わりはいくらでもいる」と言われた。そして本当に死んだ。過労で。
今度は「死んでくれ」と面と向かって言われている。
二度目だ。死ねと言われるのは。
でも──今度は従わない。
前世は自分の意思で死んだわけじゃない。体が先に限界を迎えた。選択肢がなかった。
でも今は違う。今は選べる。
死んでくれ?
──いいよ。「死んで」あげる。
ただし──本当に死ぬつもりは、一ミリもない。
セラフィーナは顔を上げた。
涙を拭い、背筋を伸ばした。数百人の視線を受け止めながら、美しく微笑んだ。
「──かしこまりました、殿下。お望み通りに」
深々と礼をして、夜会場を去った。
その足取りに、迷いはなかった。
夜会から戻ったセラフィーナは、自室に入るなり扉に鍵をかけた。
そして──笑った。
「ふ、ふふ……あはは」
一人で笑っている姿は、傍から見れば正気を疑われるだろう。だが、止められなかった。
前世の記憶が完全に馴染んだ今、頭の中はフル回転している。ゲームの知識。前世のOLとしての実務能力。そしてセラフィーナ自身が積み上げてきた貴族としての教養と、薬学の知識。
セラフィーナは学生時代、王立学院で薬学を専攻していた。王太子妃として毒物の知識は必須とされていたからだ。だが今、その知識が全く別の用途で役に立とうとしている。
「仮死薬──ジュリエット・ポーション」
前世の知識と、この世界の薬学を組み合わせる。心拍を極限まで落とし、体温を下げ、呼吸を感知できないレベルまで抑える薬。効果は六時間。その間、どんな医者が診ても「死亡」と診断するはずだ。
材料は全て、自室の薬棚にある。
調合を始めながら、もう一人だけ、信頼できる人間を呼んだ。
「──お嬢様、お呼びですか」
メイドのエマ。幼い頃からセラフィーナに仕えてきた、唯一の味方。
「エマ。あなたに頼みたいことがあるの」
全てを話した。前世の記憶のことは伏せて、しかし計画だけは正確に。
明日の朝、セラフィーナは馬車で屋敷を出る。王太子に「死んでくれ」と言われた公爵令嬢が、悲嘆に暮れて早朝に一人で出かけた──という目撃証言を残す。
馬車は崖道を通る。そこで「事故」が起きる。馬車ごと崖下に転落。
転落の直前にセラフィーナは仮死薬を飲み、馬車から脱出。崖下にはあらかじめ壊れた馬車の残骸と、セラフィーナの外套を配置しておく。
仮死状態のセラフィーナをエマが回収。
「回収後、この薬を飲ませて。六時間で目が覚めるわ」
「お嬢様……本気、ですか」
「本気よ。ここにいたら、本当に殺される」
ゲームの処刑エンドを知っているセラフィーナは、それが冗談ではないことを分かっていた。
エマの目に涙が光った。しかし、すぐにその目は決意の色に変わった。
「──お供します。どこまでも」
「ありがとう、エマ」
翌朝。計画は完璧に遂行された。
早朝の崖道で「事故」が発生。駆けつけた衛兵が崖下で大破した馬車と、セラフィーナの外套を発見。遺体は川に流されたと判断された。
その日の夕方には、王国中にニュースが駆け巡った。
「ヴァルモント公爵令嬢セラフィーナ、馬車事故により死亡──」
王宮では、アルベルトが報告書を読んでいた。
「そうか」
それだけ言って、報告書を閉じた。
表情は変わらなかった。
ただ──ペンを持つ指先が、かすかに震えていたことに、アルベルト自身は気づいていなかった。
王国の南端。ベルモット辺境伯領。
王都から馬車で五日。緑豊かな丘陵地帯に点在する小さな町の一つ、エーデルワイスの町に、一人の女性が流れ着いたのは、セラフィーナの「死亡」から二週間後のことだった。
黒髪を栗色に染め、質素な旅装に身を包んだ女性。名は「フィーナ」。傍らには一人のメイド──ではなく、「姉」のエマ。
姉妹で旅をしてきた薬師見習い、という触れ込み。
「ここにするわ」
町の外れにある、潰れた雑貨屋の空き物件。家賃は信じられないほど安い。窓からは丘の上の風車が見える。
「お嬢──フィーナ、ここは少し寂しくないですか?」
「寂しいくらいがちょうどいいの。目立ちたくないし」
前世のOL時代、狭いワンルームで一人暮らしをしていた記憶がある。あの頃に比べれば、この空き物件は広くて、風通しが良くて、何より上司がいない。最高だ。
三日で店を整えた。棚を磨き、薬草を並べ、看板を掲げる。
『フィーナの薬屋』
エマが「もう少しお洒落な名前にしませんか」と言ったが、分かりやすいのが一番だ。前世でも「分かりやすい件名のメールは開封率が高い」と学んだ。
最初の客が来たのは、開店三日目だった。
「あのー、ここ薬屋さん? うちの子が熱出しちゃって」
農家の奥さんが、三歳くらいの子供を抱えて駆け込んできた。
診る。喉の腫れ。軽い風邪だ。
セラフィーナ──フィーナは、薬棚から材料を取り出した。ティーツリーの葉、ラベンダーの花弁、蜂蜜。この世界の薬草と前世のアロマテラピーの知識を組み合わせた、子供でも飲める甘いシロップ。
「一日三回、食後に小さじ一杯。三日で治ると思います」
「あ、ありがとう! いくらですか?」
「銅貨三枚で」
「え、そんなに安くていいの!?」
安い。王都の薬師なら銀貨を取る。でもここは辺境だ。まずは信頼を得ることが先。前世の営業戦略──「初回はお試し価格」だ。
三日後、奥さんが笑顔で戻ってきた。
「治った! すっかり元気になったの! ねえ、うちのお婆ちゃんの腰痛も診てもらえない?」
口コミは、最強の広告だ。
一週間もすると、町の人たちが次々と薬屋を訪れるようになった。
「フィーナちゃんの薬、よく効くわねぇ」
「しかもお安いし、丁寧だし」
「王都から来たんですって? こんな辺境に勿体ない」
──勿体なくなんかない。ここがいいのだ。
前世では、毎日終電まで働いて、誰にも感謝されなかった。「お前の代わりはいくらでもいる」と言われ続けた。
でもここでは、薬を渡すたびに「ありがとう」と言ってもらえる。
たったそれだけのことが、こんなにも胸を温かくするなんて。
開店から一ヶ月が過ぎた頃だった。
その日は雨だった。
夕方、閉店準備をしていると、店の扉が乱暴に開いた。
「すまない──人を、頼む」
ずぶ濡れの男が立っていた。
長身。濡れた黒髪が額に張り付いている。鋭い目つき。だがその顔は血の気を失っていて、左腕を押さえている。指の隙間から、赤い血が滴っていた。
「──中に入って。すぐ診るから」
フィーナは一瞬の躊躇もなく、男を店の奥に通した。前世のOL時代にはなかった判断の速さだ。この世界で身につけた、薬師としての本能。
男を椅子に座らせ、外套を脱がせる。左腕に深い切り傷。だが骨には達していない。
「何があったの?」
「……山賊だ。領内の巡回中に待ち伏せされた」
巡回。この辺境を巡回する人物。フィーナの手が一瞬止まった。
「あなた、もしかして──」
「レオンハルト・ヴァイスベルク。隣のヴァイスベルク公爵領の領主だ」
公爵。
フィーナの心臓が跳ねた。貴族だ。身分の高い人間に近づくのは危険だ。正体がバレるかもしれない。
──でも、目の前で血を流している人間を放っておくことは、できない。
「……失礼します」
傷口を洗浄する。消毒液を調合する。この世界のアロエに似た薬草と、蒸留酒を混ぜた消毒薬。前世の知識がなければ、消毒という概念すらこの世界にはほとんど浸透していない。
「少し沁みるけど、我慢して」
「……構わない」
男は眉一つ動かさなかった。フィーナが手際よく傷口を縫合し、薬草の軟膏を塗り、包帯を巻く。その間、レオンハルトはじっとフィーナの手元を見ていた。
「……見事な手際だ」
「薬師ですから」
「この辺境で、これほどの腕を持つ薬師は聞いたことがない」
「最近越してきたばかりなので」
それ以上は聞かなかった。レオンハルトは余計な詮索をしない男だった。
ただ、一言だけ。
「──助かった。礼を言う」
その声は低く、静かで、しかし確かな重みがあった。
前世で「ありがとう」と言われた記憶を探る。上司から? ない。同僚から? たまに。クライアントから? ほとんどない。
この世界に来て、「ありがとう」の価値を知った。けれどこの男の「礼を言う」は、また少し違う温度を持っていた。
「お代は──」
「要らない」
レオンハルトが立ち上がった。
「要らない、ではない。必ず返す」
そう言い残して、雨の中に消えていった。
三日後。
店の前に、荷馬車が止まった。
中身は、大量の薬草。それも、王都でしか手に入らないような高級な品種ばかり。ムーンリリー、霜降りセージ、黄金カモミール。
添えられた手紙は一行だけ。
『先日の礼。必要なものがあれば言え。──L』
「……あの人、加減を知らないのかしら」
フィーナは呆れた。呆れたのに、口元が緩んでいるのをエマに見られた。
「フィーナ、笑ってますよ」
「笑ってない」
「笑ってます」
「……笑ってないったら」
それから、レオンハルトは月に二度、フィーナの薬屋を訪れるようになった。
最初は傷の経過観察という名目だった。とっくに治っているのに。
「傷の様子を見てほしい」
「もう完治してるわよ」
「……念のためだ」
次は薬草の相談だった。
「領内で疫病が出た。予防薬を処方できるか」
これは正当な依頼だった。フィーナは三日かけて予防薬を調合し、レオンハルトの領民に配布した。被害は最小限に抑えられた。
「お前のおかげで、百人以上の命が救われた」
「大袈裟よ。薬が効いただけ」
「薬を作ったのはお前だ」
レオンハルトは事実しか言わない男だった。お世辞を言わない。嘘もつかない。褒めるときも、ただ事実を述べるだけ。
それが──前世で空虚な社交辞令ばかり聞かされてきたフィーナには、深く刺さった。
月に二度だった訪問が、月に三度になった。そのうち週に一度になった。
レオンハルトが来ると、店の空気が変わった。常連の奥様方が「あら公爵様」とそわそわし、子供たちが物珍しそうに窓から覗く。
レオンハルトは町では有名人だった。隣のヴァイスベルク領を治める若き公爵。冷血公と呼ばれている。表情が乏しく、言葉が少なく、社交界には一切顔を出さない。領民からは有能な領主として信頼されているが、同時に恐れられてもいる。
──冷血、ね。
フィーナはそうは思わなかった。
傷の治療中、一度も痛みに顔をしかめなかった男。だが、領内の疫病の話をするときだけ、ほんの僅かに声が揺れた。領民の命を本気で案じている。冷たいのではなく、感情の表し方を知らないだけだ。
前世の自分もそうだった。感情を表に出すのが下手で、「冷たい」「何を考えているか分からない」と言われ続けた。
レオンハルトを見ていると、どこか過去の自分を見ているようで──そして同時に、過去の自分とは決定的に違う「強さ」を感じて、目が離せなくなる。
ある日、レオンハルトが店を訪れたとき。いつもの椅子に座り、いつものように黙ってフィーナの調合を眺めていた。
「ねえ、毎回来るけど、本当に用があるの?」
「……ある」
「何?」
沈黙。長い沈黙。
「……お前の淹れた薬草茶が飲みたい」
フィーナは噴き出しそうになった。冷血公が、お茶を飲みに来ているのだ。
「それ、用事って言わないと思うけど」
「お前に会いに来ている、と言った方がいいか」
さらりと言った。さらりと、とんでもないことを。
フィーナの手が止まった。顔が熱い。前世でも今世でも、こんなことを言われた経験がない。
「……っ、お茶、淹れるわ」
「ああ」
逃げるように薬棚に向かうフィーナの背中を、レオンハルトはいつもの無表情で──しかし、どこか柔らかい目で見つめていた。
エマが奥の部屋でニヤニヤしていた。
「エマ、その顔やめて」
「何も言ってません」
「顔が言ってる」
季節は秋から冬に変わり、フィーナの薬屋は町になくてはならない存在になっていた。
そしてフィーナ自身の心にも、いつの間にか、なくてはならない存在ができていた。
---
王都レグリシア。
かつて大陸一と讃えられた白亜の王城は、その輝きを急速に失いつつあった。
セラフィーナ・ヴァルモントの死から、半年。
最初の異変は、外交だった。
セラフィーナは公爵令嬢として、幼い頃から各国の王族と交流があった。隣国ヴェルディア帝国の皇女とは幼馴染であり、南方のリモージュ公国の大公とは文通を続けていた。王太子妃候補として、セラフィーナは王国の外交における重要なパイプ役を担っていたのだ。
──それを、アルベルトは知らなかった。
セラフィーナの「死後」、ヴェルディア帝国からの親書の返事が途絶えた。リモージュ公国との貿易交渉は暗礁に乗り上げた。理由は単純だ。相手国にとって、交渉相手はセラフィーナだった。王太子ではない。
「なぜ返事が来ない!?」
アルベルトが外務大臣を怒鳴りつける。だが外務大臣も困惑していた。そもそも、帝国皇女との個人的な信頼関係を築いていたのはセラフィーナであり、外務省ではない。
次に崩れたのは、経済だった。
ヴァルモント公爵家は王国随一の名門であると同時に、最大の納税者でもあった。セラフィーナの死後、公爵はショックで病に倒れ、領地の経営は停滞した。公爵家からの税収が激減し、王国の財政は一気に逼迫した。
そして──聖女リリアーナ。
アルベルトがセラフィーナを捨ててまで選んだ少女。聖女の力で国を導くはずだった存在。
だが、蓋を開けてみれば。
「リリアーナ、今日の公務はどうした?」
「え……だって、難しくて分からなかったから……」
公務を放棄。王宮の作法は覚えない。外国の使節の前で失言を繰り返す。貴族たちの間では「あの聖女は本当に聖女なのか」という囁きが広がり始めた。
リリアーナに悪意はないのだろう。彼女はただの男爵令嬢だ。王宮で求められる高度な教養も政治感覚も、元々持ち合わせていない。
セラフィーナは十五年かけてそれを身につけた。リリアーナにそれを求めるのは酷だ。
──だが、それを理解しているのはセラフィーナだけだ。アルベルトは理解していない。
「なぜお前にはできないんだ……なぜ……」
執務室で書類の山に埋もれながら、アルベルトは独り言ちた。
セラフィーナがいた頃は、外交文書の草稿は彼女が作っていた。各国の情勢分析も、宮中行事の段取りも、全てセラフィーナが水面下で処理していた。アルベルトがそれに気づいていなかっただけだ。
空気のように当たり前にあったものが、失われて初めてその大きさを知る。
「殿下、ヴェルディア帝国が国境に兵を集めているとの報告が」
「──何だと?」
「セラフィーナ様と皇女殿下の友誼で保たれていた不戦協定です。セラフィーナ様の死後、帝国側は協定の更新に応じておりません」
アルベルトの顔から血の気が引いた。
夜。一人になった執務室で、アルベルトは窓の外を見ていた。
「……死んでくれ、と言ったのは、俺か」
あの夜会の記憶が蘇る。壇上から見下ろしたセラフィーナの顔。
泣いていなかった。取り乱してもいなかった。ただ真っ直ぐに立って、微笑んで、「かしこまりました」と言って去っていった。
あの微笑みの意味を、今になって考える。
「……あれは、諦めの顔じゃなかった」
決意の顔だった。
何か覚悟を決めた人間の顔だった。
アルベルトは机の引き出しから、一枚の報告書を取り出した。馬車事故の調査報告書。何度も読み返した。何度読んでも、不自然な点がある。
遺体が見つかっていない。
「……セラフィーナ」
その名前を呟いた。
半年前、この名前を呼ぶとき、そこにあったのは嫌悪だった。
今あるのは──後悔だ。
---
セラフィーナの死から一年。
フィーナの薬屋は、今やエーデルワイスの町だけでなく、近隣の町や村からも患者が訪れる評判の店になっていた。
そしてフィーナとレオンハルトの関係も、一年の間に少しずつ──いや、レオンハルト側はかなり急速に──変化していた。
「フィーナ、今日は休みにしろ」
「なんで。予約が三件あるのよ」
「俺が代わりの薬師を寄越す。お前は休め」
「休めって、どこで休むのよ」
「俺の城に庭園がある。今、薔薇が見頃だ」
「……それ、デートに誘ってるの?」
「そうだ」
直球だった。レオンハルトは回りくどいことが言えない男なのだ。
いつの間にか、レオンハルトはフィーナの生活に深く入り込んでいた。薬草の仕入れルートを整備し、店の修繕に職人を手配し、冬には薪を届けに来た。
「そこまでしてくれなくても──」
「したいからしている。迷惑か?」
「……迷惑じゃ、ないけど」
前世では恋愛をする余裕がなかった。ブラック企業で心も体も擦り減って、「自分を好きになってくれる人がいる」という想像すらできなかった。
今世でも、悪役令嬢として王太子に嫌われ、「死んでくれ」と言われた。
そんな自分を、この人は「好きだ」と──まだ言葉にはしていないけれど、行動の全てが叫んでいる。
レオンハルトの薔薇園で、二人は並んで歩いた。
「フィーナ。お前には聞きたいことがたくさんある。どこから来たのか。なぜこの辺境にいるのか。お前の手は薬師の手というより、もっと──」
「……聞かないでくれる?」
「ああ。お前が話したいと思うまで待つ。何年でも」
何年でも。
その言葉が胸に落ちた瞬間、涙が出た。
「ちょ、なんで泣いているんだ。俺が何か──」
「違うの。嬉しいだけ。嬉しくて泣いてるの。こういうの、初めてだから」
レオンハルトは黙って、不器用にフィーナの頭に手を置いた。ぽん、ぽん、と撫でるその手は、剣を振るう手と同じとは思えないほど優しかった。
──そして、その幸せな日々を揺るがす出来事が訪れたのは、その翌月のことだった。
ヴァイスベルク公爵領に、王国から外交使節団が到着するという知らせ。
目的は、悪化する帝国との関係を仲裁してほしいという、王太子アルベルトからの依頼。
使節団の団長は──アルベルト本人だった。
「レオンハルト、使節団の歓迎会に出なくてはならない」
「……もちろん、分かっている」
フィーナは出席するつもりはなかった。だが、レオンハルトが言った。
「俺の隣にいてほしい」
「え?」
「お前は俺にとって大切な人だ。公の場でもそれを隠すつもりはない」
フィーナの心臓が止まりかけた。
それは事実上の──。
「レオンハルト、それ──」
「分かっている。だから言っている。フィーナ、俺の隣にいてくれ」
公爵が公の場で「隣にいてほしい」と言う。それが意味することは一つだ。
歓迎会の夜。
ヴァイスベルク城の大広間は、こぢんまりとしているが品があった。王都の過剰な装飾とは違い、磨かれた木と石の素材を活かした、実直な美しさ。
アルベルトが到着した。
一年ぶりに見る王太子は、変わっていた。あの夜会での傲慢な輝きは消え、目の下には隈があり、頬はこけている。王国の崩壊は、彼自身をも蝕んでいた。
アルベルトはレオンハルトに歩み寄り、外交辞令を述べた。レオンハルトは最低限の礼で応じた。
そしてアルベルトの目が──レオンハルトの隣に立つ女性に移った。
栗色の髪。穏やかな微笑み。質素だが上品なドレス。どこかで見たような──いや。
アルベルトの顔が、凍りついた。
栗色に染めた髪。変えた口調。質素な装い。だがその所作──グラスの持ち方、背筋の伸ばし方、顎の角度。十五年の貴族教育が染み付いた、骨の髄までヴァルモント公爵令嬢の所作。
「──セラ、フィーナ……?」
声が震えていた。
フィーナは──セラフィーナは、アルベルトを真っ直ぐに見た。
一年前、この男に「死んでくれ」と言われた。
一年前、この男の言葉通りに「死んだ」。
そして新しい人生を始めた。新しい名前で、新しい場所で、新しい大切な人と。
もう、あの頃のセラフィーナではない。
王太子に認められることが全てだった少女は、もういない。
フィーナは小首をかしげて、にっこりと微笑んだ。
「──どちら様ですか?」
アルベルトの顔面が蒼白になった。
「わ、私だ! アルベルトだ! セラフィーナ、お前──生きて──」
「申し訳ありません。フィーナと申します。薬師をしております。お人違いではないでしょうか?」
完璧な微笑み。完璧な他人行儀。
アルベルトの目が見開かれた。その目に浮かんでいるのは、驚愕と、後悔と、そして──絶望。
レオンハルトが一歩前に出た。フィーナの肩をそっと抱き寄せる。
「アルベルト殿下。こちらは私の大切な人だ。無礼は許さない」
静かな声。だがその中に込められた圧は、この場の全員に伝わった。
アルベルトは何かを言おうとして──言葉が出なかった。
目の前にいるのは、一年前に自分が殺した女だ。「死んでくれ」と言った。そして彼女は死んだ。
いや──死んでいなかった。死んだふりをして、自分から逃げたのだ。
そして今、別の男の隣で笑っている。自分に向けたことのない、穏やかで幸せそうな顔で。
「…………」
アルベルトは踵を返し、広間を出ていった。
その背中を、もう誰も追わなかった。
---
歓迎会の後、フィーナとレオンハルトは城のバルコニーに出た。
冬の星空が、息を呑むほど美しかった。
「……大丈夫か」
「うん。大丈夫」
「震えている」
「……寒いだけよ」
レオンハルトが外套を脱いで、フィーナの肩にかけた。
「お前が誰であっても構わない。フィーナでも、別の名前でも。俺にとっては同じだ」
「……気づいてたの?」
「最初から、ただの薬師ではないと思っていた。だが、どうでもいいことだ」
「どうでもいい……」
「俺が好きなのは、目の前にいるお前だ。過去の名前も肩書きも関係ない」
フィーナは泣いた。今度は、隠さなかった。
前世では「死ね」と言われるように働いて、死んだ。
今世では「死んでくれ」と言われて、死んだふりをした。
そして生き延びた先で──「生きていてくれ」と言ってくれる人に出会った。
「レオンハルト」
「なんだ」
「私ね、二回死んでるの。一回目は本当に死んで、二回目は嘘で死んで」
「……」
「でも、三回目はないわ。もう死なない。ここで生きる。あなたの隣で」
レオンハルトは何も言わなかった。
ただフィーナの手を取り、強く握った。
その手の温もりが、全ての答えだった。
翌朝。
エーデルワイスの町に、いつもの朝が来た。
フィーナの薬屋の扉が開く。薬草の香りが朝の空気に溶ける。
「おはよう、フィーナちゃん! 今日もよろしくね!」
「おはようございます。今日は何にしましょう?」
小さな薬屋。小さな町。穏やかな日常。
そしてカウンターの奥には、いつもの椅子に座って薬草茶を飲んでいる黒髪の公爵。
「……レオンハルト、また来たの?」
「茶を飲みに来た」
「毎日来なくてもいいのよ?」
「来たいから来ている」
エマがニヤニヤしている。常連の奥様方がひそひそと「今日も来てるわ」と囁いている。
フィーナは呆れたように笑って、薬草茶を淹れた。
──これが、「死んでくれ」と言われた女の、ささやかで幸福な第二の人生だ。
死んでくれと言われたから、死んだふりをした。
そうしたら──本当の人生が始まった。
〈了〉
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