肆『努力』の言葉一つでここまで解釈違いが生まれるものなのか?
生成AIはここ数年で突然出てきて、あっという間に広がってしまったような錯覚を覚えるようで、実はその下地は既に出来上がっていたように思える。既にレールは敷かれていたとでも言うべきであろうか。
そもそもの前提であるが、生成AIによる何かしらの「生成」は「創作」足り得ない。「創作」とは文学、芸術の面で個人が独自に創り出したものに他ならないからだ。対して「生成」はそれまでにあったものを切り貼りして作り出したに過ぎない。
これをよく「根性論」であるとか「努力」に置き換えて、「生成AIは何百と生成を繰り返してようやく、『これ』って思えるものを出力する。そこまでが大変なんだ」という論調を見る。
「100回生成して、99回「惜しい」で、1回「これや」が来る。その1回に出会うまで何時間もひたすら聴き続ける」
こう語るのは自称AI音楽家だった。偶々ネットで流れて来た一文にまず呆れた。
そうして生成AIだって大変なんだ、これこそ創作の辛さなのだとSNSで様々な生成AIユーザーが宣っているのを読んだ時は、流石に失笑した。
「その1回に出会うまで何時間もひたすら聴き続ける」
あるいは、これに準じた『創作話』を生成AI関連では耳にタコが出来る程聞いてきた。99枚生成して1枚で『正解』を引けるだとか、生成された設定を元に文章を書いただのとかである。
『努力』をしたとか『大変なんだ』とかと言った『苦労話』を、である。
敢えて言おう。
あまりにも薄っぺらい。
彼らの語る苦労しただとか大変だとか、そんなものは全部勘違いに過ぎない。
それは『創作』ではなく、ただの『流れ作業』に過ぎない。『努力』というにもおこがましい「ただ、正解が来るまで待っていた」だけだ。
99回の失敗は機械側の失敗に過ぎず、本人は一切何の挫折も味わってはいない。
こう言っては語弊があるかもしれない。反発もあるだろう。だが、敢えて言うしかない。
「創作」とは痛みが伴うものだ。本気になるなら、それを突き詰めようと考えるのであれば、その分野の専門性を否が応でも学ぶことになる。どうしようもない壁にぶつかり、己の無力さ、他者のあまりに輝かしい功績を目にして狂いそうになるものだ。
誰かに影響を受け、その誰かを超えようと必死に足掻こうとすれば、心無い誰か或いは関心の無い人間の言葉に傷つけられることもあれば、無二の友か或いは名も知らない誰かのちょっとした一言に救われることもある。
そうした様々な過程が心の揺らぎとなり、作品に反映される。それは意識するかしないかは別として、そういうものなのだ、としか説明がしようがない。
生成AIは他者に憧れる事も無ければ、情熱を燃やす事も、そして嫉妬することも無い。全てが「完璧」なものを目指して生成される。人間独特の不完全さを決して真似ることができないのも、短所と言えるだろう。
勿論、こう言ったところで、生成AIユーザーは首を傾げ、不思議そうな顔をするだけだろう。もしも、生成AIユーザーの誰かと話す機会がある人はそこの理解はもう諦めた方がいいだろう。私は既に諦めている。
と、ここまでクリエイターと生成AIユーザーの違いについて話したが、クリエイターの中にも生成AIで生成されたものを我が物顔で使う者はいる。その多くは自分が造れない分野に対する物だ。
不思議な事に彼らは自分が造った分野への努力そして、生成AIの複製ターゲットにされることは反発するのに、それ以外の分野がターゲットにされることには恐ろしい程に鈍感だったりする。
或いは「自分の分野程の努力が他分野にはあるとは思えない」という傲慢さからくるのかもしれないが。
どんな分野であろうと、不断の努力と学びが無ければ一定のクオリティを出すことは不可能であることを、今一度考えるべきだろう。
次話では、ここ数年のクリエイター関連の事件(京アニ放火事件、柚葉事件等)に目を通し、生成AIが受け入れられるに至った下地は既にできていたのでは?という話題について触れようと思う。




