参 考える事を止めた創作
一億の新海誠が生まれるなんて言葉が生成AIとセットで語られることがある。一億も新海誠がいたらそれはもはや「普遍」であり、彼らが生み出す何かはさして珍しい物でもなくなり、価値も無いのではないかという疑念は、イラストや小説の投稿サイトに氾濫する数多の生成品が答えなのではないだろうか。
新海誠の作品の絵が並んでいればさぞ壮観だっただろうが、現実はそうではない。どこもかしこも似たような体裁だけ取り繕っただけの絵で、どれ一つとして心が揺る動かされない。まるでただの「記号」だ。
金髪で美少女の人間がどこを見ているのかも不明瞭な視線で虚ろに微笑んでいるという記号。
描いた人間がおらず、どこを見て欲しいのか、どこに注目して欲しいのかといった意図が一切ないからだろう。
実際、絵を一度でも真面目に描いた事がある人間であれば分かるだろうが、「理想」とする絵と実際に出来上がった「絵」には大きな乖離が出てくるものだ。自分が意図して作ろうとした物に自身の技術が追いついていないが故のもどかしさであり、それを克服する為に何時間何日何年と練習し続けて、ようやく「意図した通りの理想」に近づく。創作するということは考えるということである。考えるのを止めた瞬間、技術は停滞し、想像力は失われていく。
よく生成AIが出力した絵を見て「頭に浮かんだ物をそのまま出力してくれた!」と思い込む人がいる。よく見ればところどころ破綻しているし、指が一本多かったり、どこからともなく第三の手が生えていたりなどはザラにある。それでも同じ事を言う人がいる。最初こそ綺麗に見えるよう気を遣ったりもしただろうが、何十枚、何百枚と生成するうちにどんどんと雑になっていく。
実際に統計を取ったわけではないが、「生成AIを使用していると、その内自分で描くなくなるので、絵がどんどん下手になる」と言った意見もある。
これは真実だろう。人間というか生き物というのは、使っていない機能はどんどん劣化していくものだ。想像しやすいのは音楽だろうか。一生懸命練習して覚えた楽器も、数年と触っていなければ、音の出し方すら思い出すのに苦戦する。
思考すること、それを言語化することも同様である。小説を書きはじめた人の中から一定数出てくるのが「絵は描けないけど、文章なら誰でもできるから」という主張である。確かに日本は識字率が高いし、文章を書く方がハードルが低いからそうするという人がいる事自体は悪いことでは決してない。
だが、勘違いしないで欲しいのは、文章をただ書くことと、物語を描く事の間には大きな壁が存在する。ただ文章を並べてキャラクターを喋らせただけでは、「物語」にはならない(残念ながら物語未満でも世に出される書物は結構あるのだが)
物語を物語として表現する為に必要な構成、読んで貰う為に辞書と睨めっこしながら、慎重に選んだ言葉の数々、これらが無い限り小説は物語として足り得ない。それは「絵」に関しても同じことであり、そこに物語性なり、作者の意志が介在しない限り、それらはただの「記号」にしかならない。
「金髪、白い肌の美少女」を表現するのに、生成AIが造った「記号」が無ければできない等という事は無い。そんなもの文章でいくらでも表現できる。もしもそれで満足が行かないというのであれば、それは単に作り手側の実力不足でしかない。
文章と絵、或いは音楽ないしの創作どれにも共通する問題点の筈だが、しばし「自分の分野」出ない事に関しては途端に杜撰になる構図がネット上で幾つも散見される。
例えば、カクヨムのランキングが一時期生成AIによる物量作戦で氾濫してしまったことがある。これらに多くのカクヨムユーザーは危機感を覚え、運営の素早い対応を望んだのだが、一旦待って欲しい。その危機感を覚えたユーザーの内、一体何人が生成AIを使った表紙絵のような「記号」を使っていただろうか。或いはアイデア出しの為、と、生成AIを話し相手にした人がどれだけいたことか?
これに限った話ではない。生成AIに「声」を無断学習されるのは嫌だが、自身はチャットGPTとのお喋りを楽しむだとか、中には生成AIを使って「創作」もどきをしている人が「生成AIで無断学習することを禁止」していりする。
ただただ与えられた物を素晴らしいと褒め称え、それが自分で何かを生み出しているわけではない……ということに思いが至らず、疑問を差し挟むことすらしなくなるというのは、実に恐ろしい事だと思う。
或いは、自分が造った物の素晴らしさを称える為の装飾品として、生成AIが出力した「記号」を装飾品のように付与するという考えもあるだろう。だが、その「装飾品」の元は、他の誰かが一生懸命考えて、作り出した物だった筈だ。
ある有名な同人ゲーム作家が、「背景だけ生成AIを使った」ことで炎上したことがあった。擁護の多くは「キャラクターでも音楽でもない、ただの背景なんだからいいだろう」という趣旨のものが多かったと記憶する。
だが、キャラクターや音楽と同じ位、背景の絵というのは重要なものではないのだろうか? 筆者はよく創作したキャラクターを交流させて遊ぶサイトを覗く。そこではキャラクターのイラストを発注したり(自分で描いたものを載せてもいい)、そのイラストをプロフィールにして背景画で着飾ったりなどして遊んだりするが、背景画にもきっちりと作者と購入費用が明記されている。
普通に取引していたら金銭が発生する事なのだ。
描けないのであれば、描けないなりに誰かにお願いするなり、きっちりお金を払って描いてもらうなりすればいいのに、どこの著作物のデータが入っているかもしれない物を使うのは、クリエイターとして誠実と言えるんだろうか。
だが、残念ながらこうした事にまで思考が回らなくなる人は多い。著名なクリエイターですら、そうなのだ。




