第39話 薄闇に残る王の炎
イロハは恭しく頭を垂れながらも、視線で女王ミカガミの姿を精緻に観察していた。
青みがかった白髪に、身体を締めつけないゆったりとした形の、薄い青の寝衣。
その薄い青の寝衣は、彼女の痩せた肩にそっと落ち、静かな湖面のようにわずかに揺れていた。
同じ色のガウンが上に重ねられ、女王としての品格だけが、かすかな光となって彼女の輪郭に残っている。
かつては凛とした女性だったのであろう。その名残である気韻は漂うが、それ以上に痩せこけた頬と、落ち窪んだ紫の瞳が、濃厚な死の匂いを振りまいていた。
イロハの赤い瞳は、ミカガミの病の本質を即座に見抜く。
(……末期がん。全身性の転移。多臓器不全の前段階ですか。これでは私でも、もう治せない)
イロハの内心は、微かに顰められた眉に表れた。
その眉を見て、女王ミカガミはコロコロと鈴を転がすように笑った。
「うふふ、ひどい有様でしょう」
「――あ、申し訳ございません。無礼な真似を」
「いいのよ。それで、あなたはルミナ国アルト陛下の使者のようですけど、こういった形で訪れたということは、ミナヅキが私に会うことを許さなかったのね」
「……はい、ご賢察の通りです」
ミカガミは日が落ち、宵闇に閉ざされた窓を見つめた。
「あの子には苦労をかけてばかり。すべて一人で背負い込んでいる。私はもう、詳しい国政を知る立場ではないけど……無茶をしているのでしょうね」
「それは……」
ここでミカガミは柔らかな微笑みを浮かべる。
「アルト陛下が訪れたのは、同盟のためかしら?」
「え!? 詳しい事情を知らないのでは?」
「知らなくても、ルミナと帝国の関係から想像できます。和平協定の期限が切れる前に、カイリと同盟を結び、帝国に抗おうとしている。そのために訪れた……どう、当たった?」
「その通りでございます」
間を置くことなく、女王はこう返答する。
「隣国の不興を買おうとも、ルミナと手を結ぶことは悪い話ではないでしょうね。まだ若く、充実していた頃に、先代のタイド様とお会いしたことがあります。あの方の御子と、ルミナの兵士の精強さがあれば、とても頼もしい同盟国となるでしょう」
イロハは無言で軽く目を閉じた。
(……惜しい方です。痛みに全身を苛まれながらも、思考は王としての威厳を宿す。これほどの方が病に倒れ、そして……もはや、何の力にもならないなんて)
瞳を薄く開き、ミカガミの全身を淡く見つめる。
(アルト様の一助となるかと期待しましたが、この部屋から出ることもままならないでしょう。ミカガミ様の仲介は期待できないようですね)
イロハは内心で、女王ミカガミのカードを断ち切った。彼女は存在しないものとして、思考は次へ移ろうとしている。
その様子をただ穏やかにミカガミは見つめ、こう問いかけた。
「ミナヅキの様子はどうでしたか?」
「え?」
「よく見舞いには来てくれますが、カイリの様子を詳しく話してはくれません。ただ、安心してくださいと言うばかりで」
「そう、なのですか……」
「あの子は勇者ではありますが、正統な王族ではありません。そのため、反発もありましょう。近隣国はこれを好機と見て、何かしら仕掛けてきているはず」
「…………」
「それに振り回されて、相当な無茶をしているはずです。イロハと言いましたね。実情を教えていただけませんか。使者としてのあなたがわかる範囲で構いませんので」
イロハは心の奥底から、彼女を短い一言で再度こう評価した。
(本当にもったいない……)
だが、すでに彼女は舞台から降りた存在。頼りにはならない。
そう割り切り、イロハはミカガミの強い眼差しに真っ向から応えた。
「病に障るかもしれませんよ」
「構いません」
口調は優しいが、意思は鋼のように強い。
その思いを汲み、イロハは知る限りの現状を語った。
政治犯を処刑していること。その子どもたちを山へ追いやり、過酷な状況で自然死へ追い込んでいること。
そして、大使であり王であるアルトへ毒を盛ったこと――。
事実を知ったミカガミは感情を乗せずに、ただ一言漏らした。
「……そうですか」
そして、再び宵闇の窓を見つめる。
「あの子をそこまで追い詰めてしまったのは、私の不徳と致すところ」
小さな沈黙が広がり、場を重く沈ませる。
イロハは無駄だと思いつつも、使者としての役割を果たす。
「アルト様のご意をお伝えします」
――――
役目を終えたイロハは敬意を払い、深く頭を垂れて、影へと溶けるように静かに去っていった。
一人残されたミカガミは、寂しげな笑みを浮かべる。
「私を頼りに来たのに、期待外れだったようね。ですが、仕方ありません。もはや私は、このベッドから立ち上がることもままならない――んっ!」
王としての矜持を保つため、イロハの前では押し殺していた激痛が、説明のつかない痛みとなってゆっくりと広がっていく。
どこがどう痛いのか……自分でも、もう分からない。
臓腑を締めつけられるような鈍い痛みが続き、身体の奥を細かく刺すような感覚が絶え間なく襲う。そのうえ、力が抜けていくような重さが全身を縛りつける。
――それでも――
「王としての役目を放棄するわけにはいかない。もはや、この国を満足に治めることもできない私ですが……か細くともカイリを存続させる可能性があるならば……タイド様の御子に頼るしかありません。これが……私の最期の務めとなるでしょう」
女王ミカガミは痛みが鎮まることを願い、残された体力を静かに、静かに、一点の覚悟に集めていた。




