第5話:煙と沈黙と石灰の匂い
風のない晩だった。
夕餉の後、後宮の厨房から白い煙が上がったという騒ぎがあったが、宮女たちは「鍋を焦がしたのだろう」と特に気にも留めず、部屋へと戻っていった。
──ただ一人を除いて。
「焦げ臭さにしては、変に酸っぱい」
そう呟いたレイは、洗い物を終えると無言で厨房へ向かっていた。
厨房の裏口には煤の匂いと一緒に、奇妙な石灰臭が混じっていた。まるで、焼いた貝殻を砕いたような──それは、火力調整に使われる灰ではなく、「石灰窒素」や「未処理の消石灰」に近い、刺激的な匂いだった。
(……あれが燃えたのか? でも、それにしては不自然)
焦げ跡を指先で擦ると、指先がピリついた。
「アルカリ性が強すぎる。……灰じゃない。これは薬品の反応だ」
調理場に紛れていたのは、焼却処理されるはずの「脱脂綿」だった。
それも、油で汚れたまま焼かれていたようだ。
──誰かが意図的に、燃やした。
レイは視線を巡らせ、調理場の一角にある小さな木箱に目を止めた。
中には、木綿の包みがひとつ。少しだけ黒ずみ、香が染み付いたその包みには──複数の茶色いシミが残っていた。
油ではない。
それは──血液だった。
「……やっぱり」
血痕は乾きかけていた。試しに指先に少量を取り、乾燥した薄いセラミック片でこすると、茶褐色からわずかに緑黒く変色した。
──銅との反応。
(体内に、銅を含む薬剤を取り込んでいた可能性がある)
レイの背筋がぞくりと震えた。
そう。これは単なる失血ではない。おそらく、銅を媒介とした毒素──ある種の酸化剤を含む薬剤が使われたのだ。
思い出したのは、先日倒れた女官のこと。
彼女の爪の下に、うっすらと青黒い色が残っていた。視診では分からないほどの薄い「チアノーゼ」。
(おそらく、メトヘモグロビン血症……血液が酸素を運べなくなる毒性の症状)
それが事実なら、皮膚や呼吸器から吸収されるタイプの毒が存在している。
そして今、焦がされたのは、まさに「それ」の痕跡だった。
「……証拠隠滅、か」
思わず漏れた独り言に、背後から声が返った。
「気づいたか。やっぱり、只者じゃないね」
現れたのは、あの宦官──否、密偵のユウだった。
彼の腕には、手袋に隠された白い痕がある。薬剤に触れる者に特有の皮膚炎の跡だった。
「おまえがやったのか」
「まさか。俺は“燃やした人間を見て見ぬふり”をしただけだ。……あの血染めの布を、最初に見つけたのはおまえだろ?」
「あなたは、私が嗅ぎ回っていたことに気づいていた」
「当然さ。だが、燃やされた証拠を見る限り──誰かが、本気で“隠そう”としてる。俺の上役でも制止できない、な」
彼は言葉を切り、レイを見つめる。
「おまえが、“そこ”まで気づいたとなると──命が惜しければ、もう首を突っ込むな」
そう言い残して、ユウは煙の残る厨房を後にした。
残されたレイは、ほんのわずか口元を歪めて笑った。
(命が惜しければ、か……)
彼女は昔から「そういう顔」をされるのには慣れている。
誰もが見逃すような異常を見つけ、告げるたびに「気味が悪い」と言われてきた。
──でも、それでも。
(証拠を燃やす、ということは。見られてはいけない“意図”がある)
それは、毒よりもよほど強く、人の命を損なう「意思」。
ならば自分は、それを暴いてやるだけだ。
翌朝、レイは一通の報告書を、あの宦官ユウの机にそっと置いた。
そこには、燃えた布片と血痕の検査結果──
そして最後に、こう記してあった。
「次は、香炉を調べるべきです」




