第35話:鈴の音は、嘘の音
朝餉の膳に添えられた梅干しを見て、レイはふと手を止めた。
(……今朝は、二粒)
いつもは一粒だけ。それが今日は二つ。厨房が間違えた可能性もあるが、些細な違いほど、侮ってはならない。
膳を下げた侍女の足取りが軽いのも気になった。まるで、何かいいことがあったかのように。
だが、今日に限って言えば――良いことなど、何も起きていないはずだった。
レイは上衣の襟を整え、静かに部屋を出る。
(今朝の件と関係があるとすれば……やはり、あの件だろう)
鈴の音。昨夜、東苑でかすかに鳴った、澄んだ音。あの音は、誰かが「合図」を送った証だ。
誰に、何を伝えようとしたのか――そして、それが今朝の「梅干し二粒」に繋がっているとすれば。
中庭を渡る風はやや湿り気を帯びている。夏の終わりが近づいているのだ。花の匂いが少しずつ弱まり、代わりに土の香りが立つ。
渡り廊下の端にある小さな文室。薬材帳の整理を口実に、レイはそこに足を踏み入れた。
「……いたのですね、雷水殿」
案の定、あの人がいた。
雷水は帳面を広げながら、にこやかにレイを見上げた。
「おや、君も薬材の整理かい? 奇遇だね」
相変わらず、整いすぎた笑顔。何かを隠している者の常。
「奇遇……でしょうか? それとも、計算済み?」
レイが問いかけると、雷水はわずかに目を細めた。
「君の言葉は時々、棘があるね」
「わたしの言葉は、棘ではなく――針です。毒を運ぶための」
雷水が口元に手をやって、笑った。まるでそれを楽しんでいるかのように。
「それで? 今日は何の毒を持ってきたの?」
「鈴の音です」
部屋の空気が変わった。
ほんの少し、冷たくなった気がした。
「聞こえました。昨夜、東苑にて。澄んだ音が、一度だけ」
「……風の音だったのでは?」
「それが“風の音”であるなら、なぜ厨房に“梅干し二粒”が来たのか、説明がつきませんね」
雷水はふっと笑みを消し、静かに帳面を閉じた。
「君の勘は、いつも鋭い。けれど時々――過ぎる」
「それは、あなたが“隠す”のが、下手だからです」
この一言で、会話は終わった。
雷水は立ち上がり、扉へと向かう。だが、手をかけたところで足を止めた。
「レイ。君が探しているのは“犯人”じゃない。“関係性”だ」
「ええ。誰が嘘をついているか、ではなく――誰が“誰のため”に嘘をついているか。そこが、肝ですから」
雷水は振り返らずに去った。
その背を見送りながら、レイはふと天井を見上げた。
――鈴の音は、誰のために鳴ったのか。
それがわかれば、この嘘の層の中に差し込む、最初の光になる。
文室に残るのは、帳面と、紙のにおい、そして、少し冷たい空気。
外では、どこかの庭からまた、鈴の音が鳴った気がした。
(また、誰かが嘘をついた)
レイは帳面に目を落とし、ページをめくる。
次の音が鳴るまでに、もう少し、毒針を研いでおこう。
構想を練るので、少しの間お休みします。




