第32話:失われた瞳、記された影
レイは、仄暗い回廊をゆっくりと歩いていた。
宮廷の奥、普段は側女さえ立ち入らぬ一画。王の寝所と祈祷部屋の間にある、古い文庫――そこに、今朝届いた匿名の書状が誘うように記されていた。
――「〈灰色の瞳〉の真実は、文庫の裏に眠る」
足音が軋む。埃の匂いと、古紙のかすれた芳香が、レイの記憶を揺らす。
あの呪殺未遂から数日。王宮内では不穏な沈黙が続き、あの麗姫でさえ、部屋に籠もりがちになっていた。
何かが、始まっている。
レイはその「何か」を掴もうと、この場所に来たのだ。
「――あった」
灯りをかざすと、文庫の最奥、壁面の装飾が僅かにずれているのが見えた。木製のパネルに手をかける。押し込むと、柔らかく空気が動き、隠し戸が軋む音を立てて開いた。
奥は、書庫などではなかった。
そこは――祈祷部屋と似た、異様な聖域。
中央には石碑のような台座。そこに、一冊の帳面が鎮座している。
そして、壁一面に張り巡らされた紙札と絵図。人の顔、人の名。そして赤い糸でつながれた、いくつもの「印」。
まるでそれは、王宮の人間関係を俯瞰する、呪的な地図。
レイは帳面を開いた。
そこに記されていたのは――「灰色の瞳」の記録だった。
それは、かつての王家の系譜とともに、一族にときおり現れる「灰の瞳」を持つ者たちの名だった。
そして、その末尾にはこうあった。
――〈灰色の瞳〉は、王家にとって「鏡」である。忌むべき呪いではない。だが、王が腐れば、鏡も歪む。
次にその名が出現したとき、王は試される。
レイの胸に、どす黒いものが立ち上る。
なぜこれが封じられていたのか。なぜ〈灰色の瞳〉の存在が隠され、王妃が呪詛の標的にされたのか。
この記録が真実ならば――呪詛は、外からのものではない。王家自身が抱えてきた「内なる矛盾」が、血と力を媒介にして顕現したものだ。
王は自らの「鏡」を壊そうとしている。
背後に気配。
「……そこまで読んだか、レイ殿」
振り返ると、そこには太宰卿が立っていた。顔に笑みを張りつけたまま、扇を口元に当てている。
「お前だったのか、これを……?」
「いいや。私は見守っていたに過ぎぬ。だが、そろそろ君も“この国の深部”に触れる時だと思ってな」
「これは、何だ。呪詛の地図か?」
「違う。これは――“記憶”だよ、医師殿。王たちは、己の愚を忘れるのが得意だからな。故に、こうして残す者が必要なのだ」
レイは静かに問うた。
「……この帳面に、俺の名が加わることは?」
太宰卿は笑みを消し、扇を閉じた。
「それは君次第だ、レイ。鏡になるか、影になるか――」
言葉を残して、彼は文庫の闇に消えた。
――レイの心には、初めて“怒り”が芽生えていた。
王宮の欺瞞と傲慢、そのすべてが患者たちを苦しめてきた。自分が診てきた病の根――それは、ここにあったのだ。
ならば、自分の役目は一つ。
この「鏡」を、壊すのではなく、磨き上げること。
そうして見せるのだ。血の中にあっても、なお人が人として生きられる道を。
帳面を懐に入れ、レイは文庫を後にした。
すでに夜は明けていた。




