第31話:鬼灯の花は夜に咲く
郭の死から二日が経った。
その間、王宮の空気はどこか張りつめていた。
目立った動揺は表には出ていないものの、文官たちは足音を潜め、女官たちは妙に香を炊きすぎていた。
「気づいたか、レイ」
背後から聞き慣れた声が落ちてくる。
振り向くと、王子——琥珀の眼を持つ青年が、扇子で口元を隠してこちらを見ていた。
「なにが、でしょう」
「誰も郭の死に、泣いていない」
レイは少しだけ眉を動かす。
「……つまり?」
「つまり、彼は“誰か”にとって都合の悪い存在だったということだ」
「それが、あなたでないといいんですけど」
王子はクスリと笑った。
「まあな。ただ、もうひとつ奇妙なことがある」
「奇妙?」
「郭が死んだ夜、“焚かれていた香”の記録が、記録庫から消えていた」
レイはその言葉にぴたりと動きを止めた。
香の記録は、各部屋に備え付けの香冊子に逐一書かれる仕組み。とくに郭のような高官の部屋では、香の出入りは厳格に管理されていた。
「つまり、誰かがそれを“消した”」
「あるいは、もとから書かれていなかった可能性もあります」
レイは静かに返す。
「……それにしても、どうしてそんなことを?」
王子の瞳が、ほんのわずかに鋭くなる。
「郭が死んだあの日、もう一人、“香による毒”の影響を受けた者がいる」
「誰です?」
「——小蘭。琳妃付きだった侍女だ」
その名前に、レイの呼吸が一瞬止まった。
小蘭は、琳妃の死後しばらく姿を消していたが、最近になって再び後宮に戻ってきていた。今は雑務をこなす小間使いとして、存在感を薄めていたが——。
「彼女、琳妃の香を密かに模倣していた可能性があります」
王子の言葉に、レイは顎に手をあて、考え込む。
「それでいて郭とも接触していた?」
「少なくとも、その可能性はある。だが問題は……彼女が“話せなくなった”ということだ」
「口が利けない?」
「発語障害。喉の神経が、一時的に麻痺しているようだ。医官は“風邪をこじらせた”と言っているが……」
レイは首を振った。
「そんなことはありえません。“風邪”であれば嗄れ声になる程度。神経麻痺となると、むしろ毒か強い香の作用」
「つまり、彼女も“沈黙させられた”」
王子が視線を落とす。
「そして、彼女の部屋に——これが残されていた」
差し出されたのは、掌に収まるほどの紙片。
そこには、朱色の顔料で一輪の花が描かれていた。
鬼灯の花——鬼火のように揺らぐその花は、かつて琳妃が好んだ香袋の印に酷似していた。
「……これは琳妃の暗号ね」
レイは即座に理解した。
琳妃はかつて“鬼灯香”と呼ばれる特殊な香を用い、ある一群の人間にだけ指示を送っていたという。
香に込める意志。香による伝達。視えない“継承”の構図が、少しずつ明らかになってきていた。
**
その夜。
レイは小蘭の寝所に忍び込んだ。
彼女は浅い眠りの中にあり、汗ばんだ額に冷たい布が置かれていた。
枕元には、妙に香ばしい——しかし異様に甘ったるい香の余韻が漂っている。
レイは顔を近づけ、香袋の中身をそっと嗅ぎ取った。
「……杜松と、沈香、龍脳。それに、少量のトリカブト」
思わず舌打ちする。
これらの組み合わせは、知識がなければ決して調合できない。しかも神経毒として作用するが、一定時間で揮発するため検出が極めて難しい。
「継承者は……“香毒”を使える存在。それも、琳妃に師事していた者」
だが、ここでレイはひとつの違和感を抱いた。
——琳妃が遺した言葉、「白蛇の香は、嘘を暴く」。
継承者が“毒”を選んだのなら、なぜ琳妃は“真実を暴く香”を遺したのか?
それはつまり、琳妃が“毒の継承”を否定していた可能性がある。
「つまり……継承者は、琳妃の意志をねじまげた存在」
そのとき、小蘭の手がピクリと動いた。
うわごとのように、かすかな声が漏れる。
「……ひ……かり……の……ま……」
「ひかり? ま……?」
レイは耳を澄ませたが、それ以上の言葉は出なかった。
だが、胸の奥にざわめくものがあった。
「光の間——?」
もしかすると、それは“琳妃が最後に立ち寄った場所”。
そしてそこに、“鬼灯の火”が残されているのかもしれない。
完結済みにしておきます。




