第30話:白蛇の眠る夜
王子の部屋にただよう“爪痕”の香。
レイはその余韻を吸い込みながら、心の奥で何かが引っかかるのを感じていた。
——琳妃が遺した「継承者」は、もうすでに動いている。
ならば、その者はなぜあえて王子の部屋に香を焚いたのか。
「……警告か、それとも挑発か」
一人呟きながら、レイは王子の間の床に視線を落とした。
香の灰が、風もないのにわずかに乱れている。その形はまるで、蛇がのたうった痕のよう。
「……白蛇」
それは琳妃が使っていた、香道の中でも異端とされる“動香”の痕跡だった。
香の煙に意図的に動きを与え、空気の流れや人の気配を伝える技。
「琳妃は……“何か”を伝えようとしてた」
レイは香炉の灰を集め、乾いた布に包んで部屋を出た。
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向かったのは、かつて琳妃が足繁く通った温室——現在は使用が禁じられている、王宮の北棟にある「薬香園」。
扉の鍵はすでに錆びていたが、簡単な仕掛けでこじ開けられる。
レイは躊躇なく中へと足を踏み入れた。
中は、黴臭さとともに古い香草と薬材の匂いが充満している。
だがその奥、ひとつだけ空気の流れが違う一画があった。
古びた棚の裏。床に敷かれた古紙の下に、何かが埋まっている。
レイは慎重に紙をめくり上げた。
——小さな木箱。
中には、丸薬のように固められた香団子が数粒と、琳妃の筆跡で記された短冊が一枚。
「白蛇の香は、嘘を暴く。
真実の前では、偽りの顔はひび割れる——」
レイの中で、いくつかの断片が一気に結びついた。
王子の間に焚かれた“爪痕”の香。
その香りが、白蛇の香と混ざり、痕跡を残すよう設計されていたなら——
そこにいた“誰か”の嘘をあぶり出すための罠だった。
そのとき、背後でかすかな足音。
レイはすぐさま香炉の灰を布に包み、背を向けた。
「見つけたぞ、レイ嬢」
現れたのは、宦官の筆頭である■郭長官だった。
「まさか、こんな場所で会うとはな」
「あなたこそ、どうしてここに?」
「噂を聞いたのだ。琳妃の香を再現している者がいると」
レイは鋭く目を細めた。
この男は、琳妃が毒に倒れた時に最初に駆けつけた人物。そして、その直前に琳妃と“香の調整”と称して密談していたという噂もあった。
「まさか、あの“継承者”ってあなたじゃないでしょうね?」
問いかけは冗談のように柔らかく、だが目は決して笑っていない。
郭は微笑む。
「私が琳妃を殺したとでも? それはあまりにも古典的すぎるな」
「だけど、古典は、事実であることも多いわ」
その瞬間、郭の背後で何かが動いた。
レイは迷いなく香団子のひとつを放り、匂い袋で空気を煽った。
たちまち室内に、白蛇の香がふわりと漂い出す。
煙は郭の周囲をゆっくりと取り巻いた——そして、その眉間に薄く、赤い発疹が浮かび上がる。
それは、「香に対する拒絶反応」。爪痕と白蛇、両方に耐性を持つ者だけが、この煙の中で正気を保てる。
「やっぱりね。あのとき、琳妃のそばにいたあなたの装束にだけ、“香の耐性”を示す焼き香の痕がなかった」
「……なるほど。見ていたのか。琳妃も君も、実に厄介だ」
郭は、顔の仮面のような微笑を崩し、低く呻くように笑った。
「だが“あれ”は、私の意志ではない。“もっと奥”にいる。私はただの使いに過ぎんよ」
レイの心に、冷たい影が差し込んだ。
まだ、真の継承者は奥にいる——?
郭は一歩、後ずさる。
「残念だな、君とは分かり合えると思っていたのだが」
「……分かり合うって、毒の香で人を殺す相手と?」
「いや、共に宮廷を“綺麗”にできると思ったのだよ」
そして、郭は懐から丸薬を取り出し、それを口に含むと、香とともに白目を剥いて倒れた。
自ら服毒したのだ。
**
数刻後。
宮廷内では郭の死が“持病による急死”として処理された。
だがレイの胸中には、確かな疑念が残っていた。
——なぜ、今になって郭は動いたのか?
——そして、“もっと奥”とは誰のことか?
琳妃が命をかけて遺した香の“鍵”。
それをめぐる戦いは、まだほんの序章にすぎなかった。




