第3話:赤い舌と偽りの薬湯
その朝、洗い場には人の気配が少なかった。
重苦しい空気が沈殿している。まるで、ここが“死に最も近い場所”だと、誰もが気づいてしまったかのように。
(……二人目)
レイは干されかけの布に触れながら、昨夜の惨劇を思い出していた。
梅香妃は、深夜に再び嘔吐し、口から赤い液を吐いたという。侍医は「体質に合わない薬湯を飲んだため」と説明したが、レイはその“薬湯”にこそ疑いを持っていた。
「ねえレイ、また何か変なこと考えてるんでしょ」
女官の一人が、怯えたように笑いながら声をかけてきた。
「考えるのは自由でしょう。洗濯場は思想の自由があるんです」
「はあ……アンタ、本当に変わってるよ」
彼女は笑って立ち去った。けれど、心の奥にわずかな“期待”があるようにも見えた。
誰もが薄々気づいている。
これは単なる病気ではない。
だが、それを口にした者は──もうこの場にはいない。
(“薬湯”……処方を確認したい)
後宮で使われる薬湯は、宦官や医官が管理する“煎薬房”で作られる。そこでは膨大な量の薬草が日々煎じられ、妃や女官に届けられる。
その中身が“本当に薬”かどうか、誰も確かめる術はない。
実際、過去に煎薬房で“薬草の取り違え”による死亡事故が報告されている。だが、それは記録上、すべて「自然死」として処理されていた。
――疑えば、処分される。
そんな後宮の沈黙のルールを、レイは冷ややかに受け止めていた。
午後、レイはこっそり煎薬房へと足を運んだ。
煙草のような苦い匂いが漂う薬庫の奥。棚には瓶詰めの乾燥薬草が並んでいる。
「ここか……梅香妃の処方記録」
彼女は帳面をめくる。墨のにおいが新しかった。記録の日付は確かに昨夜。
《黄耆、桂皮、甘草……》
一見して、虚弱体質への滋養薬としては普通の処方だった。だが──
(……おかしい)
レイの目が一点で止まった。
《蛇床子》
これは……避妊・堕胎に使われる薬草だ。
しかも、体内に取り込むと腹部への強い血流刺激を起こし、体質によっては激しい出血や嘔吐を招くこともある。
(妊娠……していた? まさか、梅香妃が?)
だとすれば、あの“薬湯”は──治療ではなく、排除のための処方だったことになる。
誰が、何の意図で、処方にそれを混ぜたのか。
「なるほど。蛇床子、か」
話を聞いた宦官・ソウは、帳面を受け取ってしばらく無言だった。
「これが誤記である可能性は?」
「まずないです。字も墨も揃ってます。記録として“意図的に書かれていた”。それが問題です」
「つまり、煎薬房に“梅香妃が妊娠している”という情報が入っていた、と」
「そしてそれを、止めたがっていた誰かがいる」
「……下ろさせた?」
レイは静かに頷いた。
「医療ではない。これは“命令”による処置です」
ソウは目を伏せ、天井を見上げた。
「妃が妊娠したとすれば、その相手は当然、陛下──」
「本当にそうでしょうか?」
レイは静かに言った。
「この後宮で、誰が誰の子を身籠ったかなんて、ほんとうのところは誰にも分からない」
沈黙。
そして、ソウがぽつりとつぶやいた。
「つまり……誰かが、“陛下の子ではない妊娠”を隠そうとした……」
レイの表情は無表情のままだった。
「あるいは、“陛下の子”であることを、都合よく消したかった誰かが」
夜、再び煎薬房に戻ったレイは、帳面の裏紙を指でなぞった。
墨がかすかににじんでいる。
紙をめくると、下の帳面に微かに“走り書き”の跡が残っていた。
《“処方を変えるよう言われた。理由は問うな。上からの指示”》
──間違いない。
これは事故ではなく、“命令による毒”。
レイはそのまま裏紙を破り、薬袋にしまった。
(これは証拠になる)
だが、問題はそれをどこに出すかだ。
証拠を出せば、確実に自分も“消される”。
後宮とは、真実が最も危険な毒となる世界なのだ。
その夜、レイは帳の下で煎薬を煮ながら、ぼんやりと炎を見つめていた。
(正義って、なんなんだろうな)
昔、辺境の村で、疫病が流行ったとき。
死んだ赤ん坊の舌が赤く染まり、死因を見抜けずにいた医者がいた。
彼女はその舌の色で「梅毒による母子感染」を見抜いた。
だが、誰も信じなかった。
それでも、その後の治療で生き残った子がいる。
――あの赤い舌が、命をつないだ。
だから今も、レイは観察する。
黙って、見て、測って、嗅いで、味わって。
そして──暴く。
(妃が死ぬのは“呪い”のせいじゃない。人間が殺してる)
その真実を知ったとき、誰が最も怒り、誰が最も恐れるか。
その答えは、次の犠牲者が教えてくれるだろう。