第29話:密書と爪痕
夜が深まると、宮殿の廊下は水を打ったように静まり返る。
レイは蝋燭の明かりだけを頼りに、書庫へと足を運んでいた。琳妃が生前、香の調合と記録を行っていたという東棟の文庫。その奥に、誰にも読まれていないはずの“もうひとつの密書”が眠っているという噂がある。
「この時期に、噂が浮上するのは……偶然じゃない」
慎重に扉を開けると、香木のかすかな匂いが鼻先をくすぐった。
静まり返った書庫の奥、古い調香道具と帳面の並ぶ棚のさらに裏。レイは、指の感覚だけを頼りに板の継ぎ目を探り、手のひらほどの空洞を見つけた。
その中に、一通の巻紙。
《琳妃 私記》
——それは琳妃が、王子が生まれた直後に書き遺したものだった。
蝋燭の灯を細く絞り、レイは文を静かに読みはじめた。
「この子は、きっと狙われる。
香を使って身を守るすべを、いつか教えねばならない。
だがそれは、私ではできない。私の命はすでに、“香”によって刻まれているから」
レイは息を呑む。
琳妃は自ら、毒の香に触れたと記していた。宮廷の陰で香を操る者たちに、自ら“囮”となって接近していたのだ。
そして巻紙の末尾。
「私が仕掛けた香の中に、“鍵”を忍ばせた。
それは“爪痕”の名を持つ香。もしそれが王子の傍に漂う日が来たなら——
その香りの主こそ、私を殺した影の継承者」
レイは巻紙を閉じ、顔を上げた。
爪痕——それは琳妃がかつて一度だけ使ったという、鋭くも儚い香。記憶の底に焼き付くように残り、漂わせた者の心に微かな痛みを残す香り。
「琳妃は……自分の死の真相を、香で遺したのか」
その瞬間、扉の外に気配。
「……誰かいるのか?」
レイは巻紙を懐にしまい、素早く帳面の陰に身を潜めた。廊下の影から、誰かの影がゆっくりと近づいてくる。
扉が、軋みを立てて開いた。
入ってきたのは——
「……芹?」
文官装束を身にまとった青年が、驚いた顔でレイを見た。
「君こそ、どうしてこんな時間に……」
「そっちが先に答えなさいよ」
レイは眉をひそめつつも、手の中の巻紙には自然と力がこもった。
芹は言った。
「琳妃の記録を調べていた。あの“香”が、宮中の誰かに使われていると聞いたから。爪痕、という名の香——」
レイは黙って巻紙を差し出す。
芹はそれに目を通すと、目の奥に重い影を落とした。
「……やっぱり。琳妃は、香で敵を暴こうとしていた」
「でも、肝心の“誰が継承者か”までは、書かれてない」
レイは言った。
「琳妃が狙われた理由は何か。なぜ、王子の誕生と共に命を絶たねばならなかったのか——」
その疑問は、やがて王子自身の出生や正統性にまでつながるはずだった。
芹は低く呟いた。
「“爪痕”の香りは、一昨日、王子の間に漂っていた。誰かが、そこに仕掛けた」
レイの背に、ぞくりと冷たいものが走る。
「つまり……“継承者”が、すでに動いているってことね」
温室、芍薬、皇后の沈黙。ミカの氷のような微笑み。そして、琳妃の死に際の香。
全てが、静かに、けれど確実に一つに繋がり始めていた。
**
その夜。王子の間に、再び淡い香が漂っていた。
それは、懐かしくも切ない香り。けれどその奥には、鋭く刺すような痛みがあった。
誰かがその香を、故意に焚いたのだ。
そして、その人物の影は、まるで夜に溶け込むように、王子の間からすっと消えていった。
爪痕の香りだけを残して——。
一度完結済みにしておきます。
明日以降執筆が終わり次第、再開します。




