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第28話:沈黙の花と毒の香

冬の気配がじわりと深まるなか、後宮の空気は、やけに静かだった。


レイは、南苑の温室の前に立っていた。


ここは、皇后の趣味で集められた植物が咲き誇る、特別な空間。温室とはいえ外気の冷え込みを完全には遮れず、かすかに白い息が吐かれる。けれどその奥に咲く花々は、見事に冬を裏切っていた。


「これが……“緋紅ひこうの芍薬”か」


レイの視線の先には、深紅の花弁を幾重にも重ねた芍薬があった。だが、美しい花には妙な違和感があった。葉が、わずかに黄ばんでいるのだ。


「栄養の偏りじゃない。これは、土の問題……」


レイは指先で土を少しすくい、香りを確かめた。


その瞬間、鼻腔をかすめたのは、どこかで嗅いだことのある“甘苦い匂い”。


「……アルソルンの根?」


それは古来、静かに人の心を鈍らせる薬草として知られる。単体では効き目は弱いが、ある香と組み合わせると、呼吸を通じて人の神経を鈍らせ、注意力を削ぐ。


「どうしてこれが、芍薬の根元に……?」


背後で衣擦れの音。


「先生、いらっしゃいましたか」


侍女頭・ミカが、静かに現れた。


その微笑みは相変わらず、氷の薄膜のようだった。


「皇后陛下より、花の世話に通うよう命じられまして。緋紅の芍薬は特別な育て方が必要だそうで」


「薬草を混ぜるように、ですか?」


「まあ。よくお分かりで」


ミカはそのまま温室の奥へ歩いて行く。彼女の背を見つめながら、レイは確信した。


——あの芍薬は、単なる花ではない。そこに込められた“毒”は、空間に滲み出す形で誰かに影響を与えようとしている。


けれど誰に? そして、何のために?


温室のすぐ近くには、皇子の書院。最近は王子の謁見もここで行われていた。


「……つまり、あの香りに長く晒されれば、集中力を失い、判断力が鈍る」


そんな状態で重要な政務を決断させられれば——。


「敵は、刀を抜かずに殺す手を選んでいるってことか」


自室に戻ったレイは、畳の下に隠した小さな木箱から、香のサンプルを取り出した。以前、芹からもらった《鳳翡翠》。琳妃の密書の香。


それを薄く炊いて、部屋に漂わせる。


とたんに、彼女の中でいくつかの情報が、香りに導かれるように結びついた。


「ミカが仕掛けた花。琳妃が遺した香。王子を狙う影。そして……皇后陛下の沈黙」


レイはすっと立ち上がった。行先は一つ——皇后の私室。


**


「ずいぶんと、花に詳しいのね」


その声は、まるで凍てつく風の中に咲く氷華のようだった。


皇后は、座敷の中で一人、琴を奏でていた。整った姿勢、張り詰めた指先。そして、その瞳は一瞬たりともレイから逸らさなかった。


「緋紅の芍薬。あれに施された薬草の処置、御存じでしたか」


レイの問いに、皇后は指先を止めることなく応じた。


「当然。あれは“封じ”の香よ。乱れた心を鎮める薬でもある。……あなたは毒だと思ったの?」


「“毒”かどうかは、使い方次第です」


「……賢い子ね」


皇后はふと目を伏せた。そして静かに言った。


りんが、よく言っていたわ。“香は毒にも薬にもなる。真に怖いのは、人の使い方”だと」


レイの胸の奥が、ひとつ震えた。


琳妃。彼女もまた、香を操る者だった。母として、妃として、そして今、何かを託した存在として。


皇后が最後に言った。


「今、王宮は揺れている。でも私には、もう時間がない。だから、せめて香だけでも残しておくの」


静かな語りの中に、哀しみと、覚悟のような響きがあった。


部屋を出たレイは、夜風の中に立ち止まった。


背後の宮殿から、まだ微かに琴の音が聞こえる。


「毒も薬も、人が選ぶ。なら私は……」


レイの手の中には、一輪の緋紅の芍薬。花の奥には、まだ知らぬ秘密が潜んでいる。


けれど、その香りの中に、確かに命の匂いがあった。

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