第27話:名もなき毒見
あの朝、厨房の裏手には、ひときわ香ばしい匂いが満ちていた。
「……この香り、栗だな。でも、変だ」
レイは煙の立つ鍋の前に立ち、眉を寄せた。栗の甘露煮にしては、妙に鼻をつく渋みがある。秋の味覚には違いないのに、どこか危うい。調理係の老女が、気まずそうに視線を逸らした。
「殿下の好物だそうでな。栗の炊き込みにしてほしいと……。でも、この栗、昨夜、納品されたばかりで……私らも、何か変だと……」
厨房の片隅では、一人の若い下働きが咳き込みながら、腹を押さえてうずくまっていた。
「さっき、つまみ食いを……」
レイは一歩、鍋に近づいた。熱い湯気をかき分けるように、そっと鼻先を近づける。甘さに隠れて、かすかに草木のような匂い——いいや、それは“苦味”だ。
「これは……トチの実じゃないか?」
声を出した瞬間、厨房が静まり返った。誰もが、毒見役の言葉を飲み込むように沈黙した。
「アク抜きが不十分なまま煮たら……胃をやられる。最悪、痙攣を起こすこともある」
「でも……納品されたのは、間違いなく“甘栗”だと……」
レイは鍋から一つ、煮栗を取り出し、手で割った。中から現れたのは、わずかに色づきの異なる実——少し青く、湿っている。
「外見は似てても、中身が違う。これ……誰が納品したの?」
調理係は震える指で、紙束を差し出した。書かれていたのは、よくある納品業者の名前だった。だが、レイの目が止まったのは、その末尾に記された一行だった。
『推薦者:ミカ・イシュラン(侍女長)』
——また彼女か。
王宮の奥に潜む、微笑みをまとった蛇。彼女の名が出るたびに、レイの心は静かに波立つ。直接的な手は決して下さず、周囲を動かして毒を仕込む。前回の湯の毒、そして今回の栗。狙いがあまりに曖昧で、誰が標的なのかすら判然としない。
「……これは、ただの過失じゃ済まされない」
声に出すと同時に、奥で呻いていた下働きが再び咳き込んだ。レイは屈み込み、脈を取り、瞳孔の動きを確かめた。
「やっぱり、軽い痙攣が出てる。急いで、酢と蜂蜜を混ぜて飲ませて。タンニンと反応させて中和するの」
手当の合間にも、頭の片隅では、もう一つの可能性が芽を出していた。
——ミカの意図は何だ? 王子殿下を狙ったのか、それとも厨房そのものを?
けれど、その問いに答えは出なかった。
午後、例の件を報告しに王宮の医務室に向かうと、そこには珍しく王子本人がいた。机に積まれた書類を片付けながら、彼はちらとレイに目をやった。
「また……毒、だったのか?」
「ええ。今回も、誰が狙われていたのかはっきりしませんが。ただ、関係者には注意を払った方がいいと思います」
王子は、ふと視線を落とした。
「……あのさ、レイ。君は、こんな場所で毎日、怖くならないのか?」
それは、思いがけない問いだった。
レイは少しだけ黙って、それからゆっくりと笑った。
「怖いですよ。でも、怖いからこそ、見逃さないんです」
王子はそれを聞くと、しばらく黙ってから、書類に目を戻した。だが、手はもう動いていなかった。
——その背中を見ながら、レイは心の奥で、今度こそ彼を守らなければと、強く思った。
名もなき毒の、そのすべてが宛名を持つ前に。




