第25話:香の名は「虚ろ梅」
薄曇りの空の下、《仕立屋銀燕》の旧居跡地に立ったレイは、手のひらに包んだ香袋をそっと開けた。袋の中には乾いた薄紅色の小さな木片。ほんのわずかにすり減ったそれが、香りの元だった。
香木に鼻先を寄せる。胸の奥に染み込むような、ひんやりとした甘さ。そしてその後ろに、かすかに揺らめくような苦み。香の構成が、頭の奥でひとつの名前を呼び覚ます。
「──虚ろ梅」
その名を呟くと、背後で着物の裾がそっと揺れた。
「知っているのですか、あの香を?」
声の主は、銀燕の古くからの友人である仕立物職人、《砥屋の慎一》だった。肩から掛けた布袋には、木型と縫製道具。彼もまた、遺された銀燕の《手仕事》を追っていた一人だった。
「この香、ずっと気になっていたんです。銀燕さんの最後の縫製品に、ほんのりと染み込んでいたから」
「それは……仕立てた布から香ったのですか?」
「ええ。布地の端にだけ。恐らくは、縫い上げた後に染み込ませたもの。仕立屋なら、布の香りにも気を遣う。でもこれは……普通じゃない。香りに、伝えたい“何か”があった」
慎一がそう語ったとき、レイの中である記憶が繋がった。
──かつて一度だけ、見たことがあった。『虚ろ梅』という名の香。後宮の書庫で、香薬に関する古い写本の片隅に記されていた、幻の調香。
「“虚ろ梅”……正式には《心空の梅》と書く香です」
「心空……?」
「情緒を鎮め、かすかな幻視をもたらす香。使用者の記憶と心情により、香りの印象が変化する。伝説では──失われた記憶を“香”として封じる手法に用いられた、と」
「それって……記憶を、香りに?」
慎一の表情が一瞬、凍った。
そして彼の瞳に、ふっと、哀しみの色が滲んだ。
「銀燕は……若い頃、一度だけ“罪”を犯したと話していた。誰にも言えない後悔が、ずっと胸にあると。それが、もし……この香に込められていたとしたら?」
「ならば、これは“手紙”です。遺された縫製と香りによる──もうひとつの遺言」
レイは袋を閉じた。香は今も、かすかに《何か》を訴えようとしていた。
──虚ろ梅に込められた記憶。それは「罪」か、それとも「贖い」か。
そのとき。
門の前に佇む人影に気づいた。小柄な身なり、くすんだ緋色の羽織。控えめに礼をする女の姿は、見覚えがあった。
「あなた……“雛”さん?」
そう。数年前、銀燕に弟子入りを志願し、一度は門前払いされたという若い縫い手──雛だった。
彼女はゆっくりと前に進み、ひとつの小包を差し出した。
「これを……先生から、いつか“真実を知る者”が現れたら渡せと、預かっていました」
包みの中には、一枚の紙と、古びた簪。
紙にはこう記されていた。
「“香りに触れたならば、あの日の《誓い》を、あなたに託します──”」
レイは静かに息を呑んだ。
そして、悟る。
この簪は、銀燕が最初に手掛けた“婚礼用の簪”。だが実際には、祝福ではなく《別離》の象徴として仕立てられたもの。
「銀燕さんは……誰かを、手放すためにこれを作った」
慎一も頷いた。
「彼女は、自分の中の罪を“香り”にして封じたんでしょう。そしてそれを、布に縫い、香に染め……レイさん、あなたに託した」
それは、レイがこれまで出会ってきたどの“謎”よりも、深く、美しい真実だった。
虚ろ梅──それは、記憶を編む香。
レイは包みを抱きしめ、夜の空気に染まる香りのなかで、ひとつの誓いを立てた。
「この《香》の記憶を、解き明かしてみせる。銀燕さんが、なぜこの香を選んだのか……なぜ、それを遺したのかを」
その決意の奥底で、もうひとつの香りが揺れた。
──銀燕を殺した者は、まだ《真実》を隠している。
そしてその香りは、思いもよらぬ《もう一人の仕立屋》の手に宿っていることを、レイはまだ知らなかった。




