第20話:宦官の足音と、血のない遺体
早朝の朝靄のなか、静まり返った後宮の回廊を、布靴の音だけが響いていた。
軽やかだが、どこか急いているような──宦官の足音。
「……また、死んでました」
駆け込んできた宦官の報せに、翠蓮は顔をしかめた。
これで三人目だった。
いずれも、死因不明。ただし共通していたのは、**「外傷も毒の兆候もなく、ただ心臓が止まっていた」**という点と、「遺体に血がまったく残っていない」こと。
まるで血だけを何者かに奪われたような死だった。
死体が見つかるたび、後宮中にはざわつきと奇妙な噂が流れた。
──人の血を飲む妖が紛れ込んだのだ、と。
「今回の遺体は……誰?」
「鴻華院の侍女。名は蘇鈴と」
翠蓮は眉根を寄せた。
鴻華院といえば、例の“夜な夜な書庫に忍び込む妃”──麗妃が住まう場所。
(また、あのあたりで……)
書庫に夜な夜な現れる人物がいるという目撃情報は、今も真偽不明のまま噂されていた。
翠蓮は衣を翻して立ち上がった。
「現場を見に行くわ」
無言のうちに、もう一人、影のように翠蓮の後ろに立つ男がいた。影月。筆頭太医の補佐にして、謎多き冷静な男だ。
「貴女の言う通り、次の“仮説”が立てられるかもしれませんね」
「ええ……そろそろ、つながるはず」
遺体は、鴻華院裏の小さな中庭に横たえられていた。顔色は蒼白で、唇には血の気がない。けれども、傷も毒の兆候も──何もない。
ただ、体内の血がすべて失われているという異様な事実だけがあった。
「体内の血が全部抜かれていたとしても、どこにどうやって?」
側にいた影月が首をかしげた。
翠蓮は遺体の手を取り、爪を見た。蒼白ではあるが、変色はしていない。毒ではない。次に耳を見て──細く、かすかな裂け目を見つけた。
「ここに小さな穴がある……何かで刺された?」
「しかし、傷は浅い。血を抜けるようなものでは……」
「いいえ、違うの。これは──」翠蓮はふと顔を上げた。「“刺して血を抜いた”のではなく、“吸われた”のよ」
「吸われた?」
翠蓮は腰の薬袋から一枚の紙を取り出した。そこには、過去に別の郊外で見つかった類似の奇怪な死体の記録が書かれていた。
「地方で似たような死があったの。少し前に報告されてたけど……ね。“瘴気”に触れて死んだという噂だった。でも、じつはそこにも血のない遺体があったと聞いたわ」
「では、共通項は“気”……?」
「もっと正確には、“空気の抜け道”よ。呼吸と循環の関係に着目するの」
翠蓮は遺体の胸元に手をあてた。
「この子は、極端に呼吸が乱れた形跡がある。そしてその直後、血流が急激に減衰しているわ。つまり──」
「人工的に、呼吸を止められた?」
「いいえ、逆よ。“過剰に呼吸させられた”のよ」
その夜。
翠蓮は、ある小道具を携えて再び鴻華院へ赴いた。
そこには、例の麗妃が一人で庭に佇んでいた。黒髪に金の簪を差し、冷たい月明かりにその姿を浮かばせている。
「麗妃さま、ひとつお尋ねしても?」
「……あら、翠蓮。こんな夜更けに珍しいわね」
翠蓮は静かに切り出す。
「貴女が“東域の風医”とつながっていたこと、もう隠さない方がいいわ」
麗妃の手が止まった。
風医──すなわち“呼吸と気の流れ”を操る技術を得意とする東域の医術師。
「死んだ侍女たちの共通点は、“風医”の試薬を使った形跡があるということ。強制的に呼吸を活性化させ、血中の気を変化させる……副作用は、“内部から血液を気化させる”こと」
「……知りすぎているのね、貴女」
その瞬間、麗妃の袖が揺れ、小さな短剣が夜風を裂いた。
だが──それを止めたのは、現れた影月の一閃だった。
「ここから先は、我々が預かる」
宦官たちが一斉に駆け入り、麗妃を拘束する。
「なぜ……こんな、こと……」
麗妃の瞳には、一瞬の怨嗟が宿った。
翠蓮は静かに口を開いた。
「たぶん、貴女は“実験”のつもりだったのでしょう。“人間の呼吸と気”がどこまで肉体に影響するかを、確かめたかった。けれど──それを“後宮の侍女”に試した時点で、もう罪よ」
夜が明けた。
後宮にはまた平穏が戻ったように見えたが、翠蓮は知っていた。
──これは始まりにすぎない、と。
影月がぽつりと呟いた。
「“風医”の技術がここまで深く浸透していたとはね。いずれ本流の医学ともぶつかる時が来る」
「そうね……それでも、私は見抜いていくわ。どんな歪んだ知識であっても──正しさを装っていれば、いずれ人を殺すものだから」
翠蓮は空を見上げた。
東から昇る光は、どこまでも澄んでいた。
書き終わった話の掲載が終わったので、一度完結済みにしておきます。
明日以降執筆が終わり次第、再開します。




