第19話:火薬の香り、紅花の匂い
紅霞宮から戻った翌朝、私は書院の隅で、持ち帰った布地を広げていた。
銀燕が遺した最後の縫製品。件の羽織の裏地には、かすかに縫い目のズレがあった。だが、それは見た目に不自然ではなく、よく見なければわからぬほどのもの。
――わざと縫い合わせを乱すことで、「何か」を伝えたかったのでは?
昨日から、その何かを見抜こうと糸口を探っていたが、糸を解く手は進まず、私は何度もため息をついた。
「また布とにらめっこか?」
入り口に立っていたのは、例の皇子だった。文綺皇子。私の顔を見てふっと笑う。
「おまえ、見れば見るほど変わっているな。綾衣の匂いを嗅ぎ分ける娘など、宮に一人もおらんぞ」
「匂いだけで物事が解ければ、楽なのですが」
「だが、おまえはやっているだろう」
文綺皇子の目は、どこか獣めいていて、ずっとこちらを見透かしているようだった。
私は何も答えず、黙って羽織の裏地を差し出した。
「縫い目が不揃いだろう? 銀燕は、これで何かを残したと思うのです」
「ほう。して、何を伝えたのだ?」
「それが、まだわからないのです。が、これを縫ったのは彼女ではないと思われます」
「なに?」
私は糸を指でたぐる。
「銀燕は縫製の腕が一流でした。なのに、ここだけ縫い目が不揃い。これは、縫い物に慣れない者が“真似をして縫った”手付きです」
「銀燕のふりをして、誰かがこの布を仕立てた?」
「はい。そしてそれは、おそらく銀燕が亡くなる直前の話……」
そのとき、香が流れた。どこからか、風に乗って――違う。これは風ではない。爆ぜるような鋭い香気、そして鼻の奥に刺さる灰の匂い。
「火薬……?」
私は思わず立ち上がる。
「薬庫のほうから、煙……!」
皇子もすぐに動いた。彼が口笛を吹くと、廊下の向こうから衛兵たちが現れた。
火薬の匂いをたどって私たちが駆けつけたとき、薬庫の裏手が燃えていた。
赤い火が小さくぱちぱちと燃え、香の保存棚が倒れている。幸い、すぐに火は鎮火されたが――。
「誰がこんな……!」
私の手が、かすかに震えていた。薬草の保存庫に火を放つなど、単なる放火ではない。これは明らかに、証拠を隠すためのもの。
銀燕が縫った布と、そして――何か、私が近づきつつある“核心”を、誰かが恐れている。
「セイカ」
声をかけられて振り返ると、文綺皇子が小さな包みを持っていた。
それは、焼け落ちた棚の隅にあったらしい。包みの中には、白い紙と、赤い綿のようなもの。
「紅花か……?」
「いえ、違います。これは……“紅玉根”です」
私は薬袋に鼻を寄せる。紅玉根は、乾かすと紅花に似た色と香りを持つが、毒性がある――服毒すれば、血の巡りを異常に活性化させる。銀燕の死に、これが使われた可能性は?
「やっぱり、火を放ったのは誰かに命じられた者……いえ、命じた張本人は」
私の脳裏に、ひとりの人物の顔が浮かんだ。
あの夜、銀燕が最後に書き遺そうとした文字。その一文字の“つくり”に似た縫い目のズレ――「衣」偏。
それが示していたのは――
「……紅霞宮の、“紅”では?」
文綺皇子の目が細くなる。
「紅玉根。紅霞宮。そして、銀燕の“最後の衣”。すべてが“紅”でつながる。おまえの読みは、正しいのかもしれん」
私はぐっと唇を噛む。あまりにも唐突で、しかも大胆すぎる仮説。だが、すべてが一本の線でつながってゆく感覚があった。
もし本当に、“あの方”が――
「行くぞ、セイカ」
「え……」
「おまえは、紅霞宮に足を踏み入れることになる。命を賭けてもよいか?」
私は一瞬だけ、目を閉じた。
……逃げない。銀燕の死の真相が、そこにあるなら。
「はい」
そう返事をしたのだった。




