第16話:花街の名妓と、失われた五感
西市のさらに西――香と絹の香りが濃くなるその一角、通称《暮紅の里》には、夜ごと艶やかな光が灯る。雅な舞に、酒に、女。男たちの欲を吸い上げるかのように、灯籠の火がゆらゆらと揺れていた。
その界隈で、ひときわ名を轟かせる妓がいた。名を〈朱鈴〉。髪は漆黒、唇は深紅。絹のように滑らかな肌と、女とは思えぬほど冷たい眼差しを持つという。
「おい、聞いたか。朱鈴様が、三日前から客を取っていないらしい」
「ありゃ、また何かあったんじゃ……前に毒を盛られかけたって話も……」
そんな噂が、蓮の耳にも届いたのは、ちょうど王宮からの診察依頼を終えた帰り道のことだった。ふと耳に残った「毒」の二文字に、蓮は足を止める。
(妓楼と毒……それだけで充分、奇妙だ)
思案しつつ、蓮はふと脇に目をやった。
見慣れぬ小童――髪はぼさぼさ、だが目だけは鋭く澄んでいる――が、露天の笹餅をじっと見つめていた。気になって、近づく。
「腹が減ってるの?」
無言で頷く小童。
蓮は一つ銭を渡し、笹餅を買ってやる。すると、黙っていた小童がぽつりと言った。
「……あの姉ちゃん、声が出なくなったんだ」
「誰の話?」
「朱鈴って人。喋れないし、匂いも味も分からないってさ。けど、死んでない。変でしょ?」
(五感の一部が奪われている?)
蓮の脳裏に、ある毒の名が浮かんだ。だが、それは非常に特殊な……いや、単純な毒では説明がつかない。
「坊や、案内して。朱鈴のところまで」
妓楼〈緋の楼〉は、まるで異国の楼閣のようだった。赤を基調とし、天蓋の布が風に揺れる。
応対に出た女将は、蓮を一目見て、すぐ奥の座敷へと通した。朱鈴はそこに、まるで翳そのもののように座っていた。
見れば、確かに異様だ。姿勢も肌の張りも申し分ない。だが――目が、生気を欠いている。
「失礼します。医師の蓮と申します」
返事はない。ただ、女将が代わりに語った。
「三日前の晩、常連の客が帰ったあと、急に口がきけなくなりまして……匂いも味も感じないと。熱もなく、皮膚の感覚もありますが……」
「その客の名は?」
「……朱鈴は何も言いませんが、どうやら〈青牙楼〉の男らしいのです。あそこは……」
青牙楼――毒使いの名家が庇護している隠れ里だ。合法と非合法の境目を渡る薬師たちが集う土地。
(まさか、〈感応草〉の乾燥根……?)
感応草とは、極めて微量でも中枢神経に作用し、味覚・嗅覚・発声機能のみを一時的に遮断する奇毒。しかも、毒性はほぼ残らず、一見「疲れや心因性障害」と誤診されることもある。
「朱鈴様、指を一本立ててください」
ゆっくり、右手の人差し指が上がる。
「では、目を閉じて」
閉じられるまぶた。
「はい。次に、私が何かを触らせます。指のどこに触ったか、指さしてください」
蓮は朱鈴の右手に布を当て、少しだけ擦る。すると、彼女は微かに中指を指した。
(触覚は正常……嗅覚と味覚、発声だけが欠けている。感応草で間違いない)
「女将、朱鈴様が飲食されたものの残り、すべて拝見できますか?」
「え、ええ。台所に残してあります」
厨房で蓮はすぐに、甘酒の壺に残る香りから、微かな甘草とは異なる香――乾燥させた感応草特有の、金属のような苦味を感じ取った。
「これです。甘酒に、感応草の根が……。しかも、かなり巧妙に混ぜてあります」
「し、しかし、なぜそんなこと……?」
「彼女は客と寝台をともにせず、ただ『話す』ことで心を癒す妓と聞きました」
「……はい。あの人の言葉には、不思議な力があるんです」
「つまり、誰かが朱鈴様の“声”を恐れた。もしくは、“嗅覚”と“味覚”を失わせて、舞妓としての価値を奪おうとした」
(敵意か、嫉妬か。それとも――沈黙を強いたかったのか)
翌日。
蓮は王宮薬司の裏手にある記録庫を訪れ、感応草の出入り帳を調べた。
すると、数日前に青牙楼の使いが薬司に立ち寄り、「実験用」としてわずかな感応草を請求していた記録を見つける。
記帳名――「清安」
その名に、蓮の目が細まる。
清安――宦官の中でも、情報収集と女官監視を生業とする〈密告人〉の一人だ。
(なるほど。妓の口を封じ、王宮の密事を漏らされぬようにした……か)
朱鈴の治療は難しくはない。解毒茶を二日飲めば、五感は戻る。
だが彼女は、蓮にこう書き記した。
「わたしは、あの夜に話したことを、思い出せない。けれど……失ったものの先に、本当に必要なものがあった気がするの」
蓮は少しだけ笑った。
「それなら、戻ってきた声で、また取り戻せばいい」
朱鈴の瞳に、ようやく光が灯る。
暮紅の里に、再び夜の風が吹いた。




