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第14話:薬問屋の書付

 その日、蒸し暑い昼下がりの診療所では、戸口の風鈴が一度も鳴らなかった。湿気を含んだ風は止まり、代わりに重苦しい空気が部屋に沈殿している。


「来ないわね……今日に限って誰も」


 背筋を伸ばして帳面を記していたシノは、湯呑の茶をすするふりをして、ひそかにため息を吐いた。


 患者が来ないのは結構だ――しかし、それが"不自然なほどに"来ないとなると、話は別だ。


 特に昨日、裏通りで薬問屋の丁稚が急死したという話があってからは。


 死因は、当初は「悪性の胃痙攣」とされた。だが同じ問屋で働く者たちの間で、こんな話がささやかれているという。


「丁稚の善治郎は、帳場で『品の味見をさせられた』あとからおかしくなった」と。


「毒見」と称して、商品に異常がないか確認させる風習。それ自体は珍しくない。


 だが――その味見が命取りになったというならば。


 店の名は、白梅堂。近ごろ評判を上げていた薬種問屋で、特に『安くてよく効く』という商売で人気だった。


「……白梅堂」


 口の中でその名を転がしてみると、やはり不快なざらつきが残る。


「シノ、行ってみる?」


 薬籠を磨いていたユエが、何気ないふうを装って声をかけた。


「調べる気だったんでしょう?」


「……わかった。どうせ暇だしね」


 シノは立ち上がると、引き出しの中から和紙束を一枚、袖に忍ばせた。


 診るだけではなく、観る。そして記す。


 それが、あの人――祖母から教わった“医術”の始まりだった。

 


 白梅堂は表向き、上品な暖簾を掲げていたが、路地の奥へ入ると、雰囲気は一変する。戸板は割れ、桶には使い古しの薬草が放り込まれ、埃っぽい匂いが鼻を刺す。


「おや? お客さんかい。処方なら奥で聞くよ」


 出てきたのは、妙に愛想の良い中年の番頭だった。表面だけは笑っているが、目の奥には妙な緊張感がある。


「昨日亡くなった善治郎くんについて、お話を聞きたいのですが」


 シノは、診療所の名を出すこともなく、まるで町医者の視察のような口調で言った。


 番頭は一瞬、口元をぴくりと動かしたが、すぐににやけたような顔で言った。


「……ああ、あの子。急に腹を押さえて倒れてのう。医者にも診せたが、手遅れだったと聞いてます。うちは、なにも――」


「ですが、あの子は味見をした、と」


 ユエが重ねたその言葉に、番頭の指が帳簿の縁をぎゅっと握りしめるのが見えた。


 その瞬間――。


 シノは視線を、背後の棚に走らせた。そこにあったのは、乾燥した草――いや、よく見れば乾燥に失敗して一部が黒ずんだ"センブリ"の束だった。


(……苦味健胃の定番。だけどこれは)


 “苦いが、吐き気は催さない”はずの薬草。


 しかし、黒ずみが出たそれは、一部に「モエギタケの胞子」が混入した痕跡があった。保存状態が悪いと、近隣の乾物にも毒性を与えることがある。


 しかも、それに似た成分をもつ「ニガクサ」などが混じると……。


(それが下手に煎じられて、さらに“味見”で摂取されたのだとしたら――)


 シノは、袖にしのばせた紙に走り書きをした。


【善治郎:20代前半。症状:急性嘔吐、腹部けいれん、失神】


【乾燥不良センブリ、モエギタケ胞子、ニガクサ混入の可能性】


 筆先を止めると、ユエが小声で耳打ちした。


「おそらく、誰かがそれを“意図して”仕入れたのかもね。安く済むし」


「……故意にか、それとも無知によるものか」


 シノは呟きながら、番頭の指の爪の奥――そこにこびりついた、黒緑色の薬草カスに目をやった。


 これは、丁稚だけの不幸だったのか。


 それとも、白梅堂という店が、ひとつの“毒”に蝕まれていたのか――。



 診療所に戻ったシノは、その日の帳面に記した。


 少しだけ震えた筆跡で。


【薬草は、命を救うものであると同時に、命を奪うものでもある】


【誰がそれを手に取るかで、その意味が変わる】

 


 そして次の行に、こう記した。


【白梅堂、背後にある仕入れ元を調査すべし】

  


 ペン先が止まると、風鈴が、ようやく鳴った。


 ごく僅かな風が、静かに戸を揺らして通り抜けていった。

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