表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/35

第13話:声なき命、香に囚わる

 花香妃の間では、異常が起きていた。


 「妃さまが……声を出そうとしても、喉から音が出ないのです」


 震える声で報告に来たのは、妃付きの近侍女官だった。


 医師団は急いで駆けつけたが、花香妃の症状は極めて特異だった。熱もなく、咳もない。だが確かに、彼女の美しい喉元はひくひくと動くばかりで、音は出ない。


 「恐れながら、お加減は……?」


 凌は問いかける。花香妃はゆるく首を振る。焦点の合わない目が、揺れる。


 ――症状はあの香房の使用人とまったく同じ。これは偶然ではない。


 「昨夜、焚かれた香をすぐに確認させてください」


 女官たちが目を見合わせた。


 「……妃さまは、お気に入りの“花霧香”をずっとお使いでした。昨日は、特別な晩と申されて……香量を倍に増やしておられたとか」


 香量を倍? それは無謀すぎる。香というのは適量をわずかに超えるだけで、神経に過剰な刺激を与えることもある。しかも“花霧香”は、もともと甘みと渋みのバランスを精密にとった香――そこに誰かが異物を混ぜれば、毒を隠すにはもってこいだ。


 「香炉を、こちらに持ち帰らせて」


 凌が命じると、女官たちは慌てて顔を伏せた。だが、そのとき花香妃がわずかに手を上げる。


 震える指先が、そっと「はい」と告げていた。


 “持っていけ”――妃の意思だった。



 香炉の底には、まだわずかに香の灰が残っていた。


 冷静に灰を掬い、嗅ぎ分ける。


 甘さの奥に、ごくごく薄い柑橘系の苦み。これは……サフロール系ではなく、ネオスチルベン誘導体の香りだ。喉頭麻痺を誘う新型の香気毒。人体への持続性が強く、いったん吸入すれば一昼夜、発声が不能になることもある。


 「新しい毒……やっぱり、誰かが香に仕込んでる」


 香炉の作りも調べた。真鍮と翡翠を組み合わせた精巧な構造。注目すべきは、内部の受け皿に小さな二重底があったこと。普通なら灰は下に落ちるだけのはずが、そこに粉末が先に入れてあれば、焚くたびに毒成分がじわじわ放出される。


 「これ、最初から“毒を仕込むため”に作られてる……」


 誰がこんな香炉を?


 凌はある人物の顔を思い出した――学士・明季めいき。彼の家は香炉職人の一族と関係があると聞いたことがあった。



 その夜、凌はこっそりと香司院を訪れた。


 香司院――後宮に香を納める職人と調合師たちの中枢であり、通常の女官では踏み込めない領域。


 「失礼します」


 細い回廊を抜け、焚香倉ふんこうそうに入ると、そこには数十本の香油瓶と香灰の山。だが凌は知っていた。ここには“表”の香しか置かれていない。


 本物の毒香は、もっと深い場所――。


 「そのあたりでやめておかれるのが、よろしいかと」


 背後から声がした。


 振り向くと、そこには明季がいた。相変わらず、笑っていた。


 「妃の病状は、どうでしたか?」


 「……あなたが、やったのね」


 「証拠が?」


 「香炉の構造、毒の香灰、使用された成分。全部一致してる。あなたの家は香炉作りの工房とつながってるって話も、聞いた」


 「私の家柄と、香炉と、花香妃の病。その間に因果関係があると?」


 明季は微笑を崩さずに言う。


 「香とは“空気の毒”です。誰が吸っているかも、誰が撒いたかも、誰もわからない。――それがいい」


 そのときだった。


 背後から、煙の匂いが漂った。焚香倉の奥から、ほんのわずかに立ち昇る白煙。明季がぽつりと言った。


 「気をつけないと、あなたも“声”をなくしますよ、女医殿」


 凌は、そっと口元に布を当て、煙から離れた。


 「そのつもりよ。だから今夜は、もう一人来てるの」


 「――え?」


 焚香倉の扉が開いた。


 現れたのは、内廷の医官頭いかんがしらと禁衛官たちだった。


 「この香炉と香灰、すでに“官毒”として押収の上、調査が入る。貴殿の関与も、正式に調べさせてもらう」


 そう言ったのは、あの寡黙な禁衛官――白露はくろだった。


 明季の顔から、初めて笑みが消えた。



 明季は連行されたが、最後に振り返って、こう言った。


 「声を封じれば、真実も死ぬ。だが、声はいつか戻る。……それが怖かった」


 その言葉を、凌は忘れない。


 花香妃の“声”は、まだ戻っていない。


 だがその沈黙の奥に、彼女が守ろうとしたものがある気がした。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ