第13話:声なき命、香に囚わる
花香妃の間では、異常が起きていた。
「妃さまが……声を出そうとしても、喉から音が出ないのです」
震える声で報告に来たのは、妃付きの近侍女官だった。
医師団は急いで駆けつけたが、花香妃の症状は極めて特異だった。熱もなく、咳もない。だが確かに、彼女の美しい喉元はひくひくと動くばかりで、音は出ない。
「恐れながら、お加減は……?」
凌は問いかける。花香妃はゆるく首を振る。焦点の合わない目が、揺れる。
――症状はあの香房の使用人とまったく同じ。これは偶然ではない。
「昨夜、焚かれた香をすぐに確認させてください」
女官たちが目を見合わせた。
「……妃さまは、お気に入りの“花霧香”をずっとお使いでした。昨日は、特別な晩と申されて……香量を倍に増やしておられたとか」
香量を倍? それは無謀すぎる。香というのは適量をわずかに超えるだけで、神経に過剰な刺激を与えることもある。しかも“花霧香”は、もともと甘みと渋みのバランスを精密にとった香――そこに誰かが異物を混ぜれば、毒を隠すにはもってこいだ。
「香炉を、こちらに持ち帰らせて」
凌が命じると、女官たちは慌てて顔を伏せた。だが、そのとき花香妃がわずかに手を上げる。
震える指先が、そっと「はい」と告げていた。
“持っていけ”――妃の意思だった。
香炉の底には、まだわずかに香の灰が残っていた。
冷静に灰を掬い、嗅ぎ分ける。
甘さの奥に、ごくごく薄い柑橘系の苦み。これは……サフロール系ではなく、ネオスチルベン誘導体の香りだ。喉頭麻痺を誘う新型の香気毒。人体への持続性が強く、いったん吸入すれば一昼夜、発声が不能になることもある。
「新しい毒……やっぱり、誰かが香に仕込んでる」
香炉の作りも調べた。真鍮と翡翠を組み合わせた精巧な構造。注目すべきは、内部の受け皿に小さな二重底があったこと。普通なら灰は下に落ちるだけのはずが、そこに粉末が先に入れてあれば、焚くたびに毒成分がじわじわ放出される。
「これ、最初から“毒を仕込むため”に作られてる……」
誰がこんな香炉を?
凌はある人物の顔を思い出した――学士・明季。彼の家は香炉職人の一族と関係があると聞いたことがあった。
その夜、凌はこっそりと香司院を訪れた。
香司院――後宮に香を納める職人と調合師たちの中枢であり、通常の女官では踏み込めない領域。
「失礼します」
細い回廊を抜け、焚香倉に入ると、そこには数十本の香油瓶と香灰の山。だが凌は知っていた。ここには“表”の香しか置かれていない。
本物の毒香は、もっと深い場所――。
「そのあたりでやめておかれるのが、よろしいかと」
背後から声がした。
振り向くと、そこには明季がいた。相変わらず、笑っていた。
「妃の病状は、どうでしたか?」
「……あなたが、やったのね」
「証拠が?」
「香炉の構造、毒の香灰、使用された成分。全部一致してる。あなたの家は香炉作りの工房とつながってるって話も、聞いた」
「私の家柄と、香炉と、花香妃の病。その間に因果関係があると?」
明季は微笑を崩さずに言う。
「香とは“空気の毒”です。誰が吸っているかも、誰が撒いたかも、誰もわからない。――それがいい」
そのときだった。
背後から、煙の匂いが漂った。焚香倉の奥から、ほんのわずかに立ち昇る白煙。明季がぽつりと言った。
「気をつけないと、あなたも“声”をなくしますよ、女医殿」
凌は、そっと口元に布を当て、煙から離れた。
「そのつもりよ。だから今夜は、もう一人来てるの」
「――え?」
焚香倉の扉が開いた。
現れたのは、内廷の医官頭と禁衛官たちだった。
「この香炉と香灰、すでに“官毒”として押収の上、調査が入る。貴殿の関与も、正式に調べさせてもらう」
そう言ったのは、あの寡黙な禁衛官――白露だった。
明季の顔から、初めて笑みが消えた。
明季は連行されたが、最後に振り返って、こう言った。
「声を封じれば、真実も死ぬ。だが、声はいつか戻る。……それが怖かった」
その言葉を、凌は忘れない。
花香妃の“声”は、まだ戻っていない。
だがその沈黙の奥に、彼女が守ろうとしたものがある気がした。




