第11話:香の帳と耳のない猫
夜が更け、薬館に香炉の煙がゆっくりと立ちのぼる。凌は香を焚いていた。
火を落とした室内、鼻孔に淡く甘い香りが広がる。――ただの趣味ではない。香の中には、ごく微量の重金属を検出する試薬を含んでいた。
「……この香に反応があれば、犯人は衣だけじゃなく、香にも毒を仕込んでたってこと」
銀糸の毒殺未遂事件から一日。凌は気づいていた。この計画、あまりにも“未遂”としては未完成だった。確実性に欠けている。
――あんな凝った仕掛けをするなら、第二第三の手があって然るべき。
香炉に垂らした紙が、ほのかに黄味を帯びる。
「やっぱり。これ、鉄イオンかクロム……。まさか香木にまで細工してるとはね」
香は皇后の寝所にも供される。毒の衣に加え、香で気道を攻める……それなら、より確実に“事故死”を演出できる。
凌は舌打ちした。
「犯人、よほど皇后様を……」
そのときだった。窓の外から、小さな物音がした。ぱさり、と何かが落ちる。
気配に気づいて駆け寄ると、窓辺に一匹の猫が座っていた。痩せた灰猫。だが、何かが変だ。
「……耳が、ない?」
近づいて観察すると、左右の耳が切り落とされていた。しかも、綺麗に。
「――誰かが、意図的に?」
猫の首には細い紐が巻かれていた。結び目の内側には、小さな筒――巻き紙が忍ばせてある。
凌はそれを慎重に広げた。そこには震える筆致で、たったひとつの言葉が書かれていた。
《香は囮。真の毒は耳。》
思わず息を呑んだ。猫の耳に塗られたもの……それを誰かが触れたなら?
凌は急いで猫の耳の切り口に綿を当て、薄く削ぎ取った組織を試薬にかけた。反応は遅かったが、確実だった。
「……ダイオキシン類。脂溶性の神経毒……!」
普通に摂取するより、皮膚から吸収させた方が効率的なこの毒。もし皇后が、可愛がっていた猫の耳をなでていたら――そこから汗腺、毛穴を通じて確実に体内へ侵入していた。
「“耳をなくした猫”を送り込んだのは、私への警告か、それとも手口の暴露か」
その猫はしばらく凌の足元で丸まり、夜が明けると静かにいなくなった。
数日後、香房の若い女官・紅霞が行方不明となった。
彼女は“銀の糸”を納品した織師の娘であり、香炉に用いる香原料の精製も任されていた。
凌の胸に、一つの仮説が浮かんだ。
――彼女が香の細工を手伝わされたか、あるいは口封じに?
香房の部屋を訪れた凌は、机の裏に隠された書簡を見つける。
『私は知らなかった。香が、あんなものになるなんて……。あの人は「香は煙幕、耳を使え」と言った。でも誰にも言えなかった。猫に、頼るしかなかった――』
つまり、あの猫は彼女が最後に残した伝言だった。
「紅霞……あんた、本当に知らなかったのかしら」
その言葉に、薬館の棚の隅で風鈴が小さく鳴った。
夜、凌は中庭でぽつりと独り言を呟く。
「香と猫。どちらも“香気”にまつわるけど、犯人の狙いは嗅覚を鈍らせることだったのかもしれない」
脳に作用する毒。香は感覚をぼやかせ、猫の毒でとどめを刺す。
そうすれば、死因も混乱する。嗅覚、皮膚、衣服、香煙――“香の帳”がすべてを覆い隠す。
そのとき、彼女の背後に影が立った。
「女医殿、今宵は猫の話とは、風雅でございますな」
声の主は、宮中に新しく出仕した学士・明季という男。医書の収蔵庫で何度か顔を合わせていた。
「……あなた、猫の耳を見たことがある?」
「ええ。片耳のない猫を拾い、しばらく育てていたことがありますよ。もっとも、耳が“落ちた”のは毒草を舐めた後でしたが」
凌は目を細めた。明季の目が、薄闇の中で光る。
――この男、ただの学士じゃない。
事件の輪郭が見え始める。そして、その輪の中心にいるのは誰なのか。
次の毒はどこに潜むのか。
“香”と“耳”と“猫”。
この後宮は、思った以上に静かに、だが確実に腐りかけているのは確かだ。
書き溜めた話を放出したので、一度完結済みにしておきます。
また明日以降更新していきます。




