表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
11/35

第11話:香の帳と耳のない猫

 夜が更け、薬館に香炉の煙がゆっくりと立ちのぼる。りょうは香を焚いていた。


 火を落とした室内、鼻孔に淡く甘い香りが広がる。――ただの趣味ではない。香の中には、ごく微量の重金属を検出する試薬を含んでいた。


「……この香に反応があれば、犯人は衣だけじゃなく、香にも毒を仕込んでたってこと」


 銀糸の毒殺未遂事件から一日。凌は気づいていた。この計画、あまりにも“未遂”としては未完成だった。確実性に欠けている。


 ――あんな凝った仕掛けをするなら、第二第三の手があって然るべき。


 香炉に垂らした紙が、ほのかに黄味を帯びる。


「やっぱり。これ、鉄イオンかクロム……。まさか香木にまで細工してるとはね」


 香は皇后の寝所にも供される。毒の衣に加え、香で気道を攻める……それなら、より確実に“事故死”を演出できる。


 凌は舌打ちした。


「犯人、よほど皇后様を……」


 そのときだった。窓の外から、小さな物音がした。ぱさり、と何かが落ちる。


 気配に気づいて駆け寄ると、窓辺に一匹の猫が座っていた。痩せた灰猫。だが、何かが変だ。


 「……耳が、ない?」


 近づいて観察すると、左右の耳が切り落とされていた。しかも、綺麗に。


 「――誰かが、意図的に?」


 猫の首には細い紐が巻かれていた。結び目の内側には、小さな筒――巻き紙が忍ばせてある。


 凌はそれを慎重に広げた。そこには震える筆致で、たったひとつの言葉が書かれていた。


《香は囮。真の毒は耳。》


 思わず息を呑んだ。猫の耳に塗られたもの……それを誰かが触れたなら?


 凌は急いで猫の耳の切り口に綿を当て、薄く削ぎ取った組織を試薬にかけた。反応は遅かったが、確実だった。


 「……ダイオキシン類。脂溶性の神経毒……!」


 普通に摂取するより、皮膚から吸収させた方が効率的なこの毒。もし皇后が、可愛がっていた猫の耳をなでていたら――そこから汗腺、毛穴を通じて確実に体内へ侵入していた。


 「“耳をなくした猫”を送り込んだのは、私への警告か、それとも手口の暴露か」


 その猫はしばらく凌の足元で丸まり、夜が明けると静かにいなくなった。



 数日後、香房こうぼうの若い女官・紅霞こうかが行方不明となった。


 彼女は“銀の糸”を納品した織師の娘であり、香炉に用いる香原料の精製も任されていた。


 凌の胸に、一つの仮説が浮かんだ。


 ――彼女が香の細工を手伝わされたか、あるいは口封じに?


 香房の部屋を訪れた凌は、机の裏に隠された書簡を見つける。


 『私は知らなかった。香が、あんなものになるなんて……。あの人は「香は煙幕、耳を使え」と言った。でも誰にも言えなかった。猫に、頼るしかなかった――』


 つまり、あの猫は彼女が最後に残した伝言だった。


 「紅霞……あんた、本当に知らなかったのかしら」


 その言葉に、薬館の棚の隅で風鈴が小さく鳴った。



 夜、凌は中庭でぽつりと独り言を呟く。


 「香と猫。どちらも“香気”にまつわるけど、犯人の狙いは嗅覚を鈍らせることだったのかもしれない」


 脳に作用する毒。香は感覚をぼやかせ、猫の毒でとどめを刺す。


 そうすれば、死因も混乱する。嗅覚、皮膚、衣服、香煙――“香のとばり”がすべてを覆い隠す。


 そのとき、彼女の背後に影が立った。


 「女医殿、今宵は猫の話とは、風雅でございますな」


 声の主は、宮中に新しく出仕した学士・明季めいきという男。医書の収蔵庫で何度か顔を合わせていた。


 「……あなた、猫の耳を見たことがある?」


 「ええ。片耳のない猫を拾い、しばらく育てていたことがありますよ。もっとも、耳が“落ちた”のは毒草を舐めた後でしたが」


 凌は目を細めた。明季の目が、薄闇の中で光る。


 ――この男、ただの学士じゃない。


 事件の輪郭が見え始める。そして、その輪の中心にいるのは誰なのか。


 次の毒はどこに潜むのか。


 “香”と“耳”と“猫”。


 この後宮は、思った以上に静かに、だが確実に腐りかけているのは確かだ。

書き溜めた話を放出したので、一度完結済みにしておきます。

また明日以降更新していきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ