第1話:灰汁と硝子と洗濯布
(あの洗剤、アルカリが強すぎるな)
昼下がりの洗濯場。
後宮の裏庭にある石畳の水場で、少女は一枚の布を持ち上げ、滴を指先に落としていた。
顔立ちはどこにでもいる十七の娘。だがその目は少し変わっている。明るすぎる茶と琥珀のあいだ。辺境の薬師の娘に相応しい、不思議な瞳色だった。
名はレイ。
もとは西方の“灰の丘”と呼ばれる地で、薬草と死体と向き合う静かな暮らしをしていた。
(木灰の処理が甘い……いや、これは……硝石? いや違う、重金属の沈殿か。鉛……)
ごくわずかに布の縁が茶色く変色していた。多くの者は気づかない。けれどそれが、毒である可能性を示していた。
「ねえ、レイ、その籠もう洗い終わった?」
年上の女官が声をかけてきた。洗濯物を並べた竹籠の持ち主は、下級の妃嬪。寝所に呼ばれたこともない、美貌だけを期待されて送られてきた娘だ。
「終わりました、戻します」
「ありがとね。……ほんと、アンタって変わってるわ。毒とか、薬とか……洗濯場にそんなの要る?」
「ええ。どこにでも毒は潜んでいますから」
レイはにこりともせずに返した。
別に皮肉ではない。純然たる事実である。洗濯物、化粧品、香、そして水──すべてが“毒”の原因になり得る。後宮とは、そういう場所だった。
──三ヶ月前。
薬草を採りに森に出た帰り道、彼女は攫われた。
「変わった目してるなあ。おまけに細っこい」
「女官の数が足りねえんだ。手土産にちょうどいい」
そんな理由で後宮送りが決まるとは思っていなかった。
だが、運命とは雑で、理不尽で、滑稽だ。
その代わり、毎月決まった給金が出る。寝床と食事はある。逃げる隙はないが、観察には事欠かない。
(人間って、面白いなあ)
彼女にとって、後宮は研究室であり実験場だった。
その日、彼女が戻した洗濯籠の主──下妃“梅香”が倒れた。
症状は、嘔吐、頭痛、手足の痙攣。侍医は「体調不良による過呼吸と判断します」と述べたが、レイには明確だった。
(……鉛中毒の典型症状。あの布に残ってた成分と一致する)
化粧品、香、飲料水、食器──鉛はいたるところに潜む。
とくに最近流行の「白粉」は危険だった。鉛白を原料としたそれは、顔色を美しく見せる代償に、ゆっくりと身体を蝕む。
「やっぱり……この妃様の化粧、鉛白が多すぎる」
手鏡の裏に塗られていた粉を、指で少しこそげ取る。湿らせた紙にのせると、色が灰色に変わった。
そこへ、ひとりの宦官が部屋へ入ってきた。
「きみ、何をしている」
「観察です」
宦官はしばらくレイを見つめると、思案深げに口を開いた。
「妃の症状、侍医が誤診したと考えているのか?」
「ええ。鉛白による中毒症状。それを“持病”と誤魔化す理由があるなら、それは──」
「誰かが意図的に、妃に毒を盛ったということか?」
「盛ったか、盛らせたか。それはまだ、分かりません」
宦官は微かに目を細めた。
「名を」
「レイ。辺境薬館の鑑定士でした、昔は」
「気に入った」
彼は笑わなかったが、口元だけがかすかに緩んだ。
「以後、君には、少し面倒な役目を頼む。妃の身辺調査──いや、“裏調査”と言った方が正しいか」
「え、それ、正式な仕事なんですか?」
「非公式だ。だが、君には向いている」
(やっぱり、変な方向に転がっていったなあ)
そう思いながらも、レイは頷いた。
──毒ではない毒。
──病ではない病。
それを見分けるのが、自分の仕事だったから。
その夜、彼女はひとり、薬草を煎じながら考えていた。
(鉛白にしては、症状の進行が早すぎる。つまり、別の因子が……混ざっていた?)
背筋が、ふ、と冷たくなる。
これは単なる事故じゃない。もっと根が深い。
毒と嘘が絡んだ、後宮の底に眠る“本物の事件”。
そして、これが──すべての始まりだった。