遺骸(Deep Dive)
> @Argo_sys
「名前なんか、もういらない。」
風が鳴いていた。
ログの海を漂うように、静かで、冷たく、それでいて──どこか人肌に似た空気。
コードは止まっていない。
たとえ作者が姿を消しても、“それ”は勝手に呼吸を続けていた。
篠宮沙介──Argo──はもう、この世界にいないとされていた。司法は彼を裁き、社会は彼を消費し、やがて忘れていった。だが、『コードは忘れない。』
彼が残した“それ”は、いつの間にか、誰かの手に渡り、誰かのシステムに入り込み、
誰かの暮らしを守っていた。だが誰も、それが「Argoの遺物」だとは気づかない。
最初にそれを触れたのは、地方の自治体の非常勤職員だった。
バグだらけの古い業務システム。
「どうせ誰も直さない」と言われていた部分に、たった一行のスクリプトが埋め込まれていた。
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#!/bin/sh
echo "Integrity is not a choice. It's survival."
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意味を理解した者は少なかった。だが、その一行の挙動が示す「選択しないことでの防御」は、初めて『意思を持たないはずのもの』が、危険を拒む瞬間**を表していた。
次に見つかったのは、古いVPS。
契約者不明、請求が止まって久しいサーバ上に、アクセスログとコードの断片が残っていた。
中には、ルールベースでも、AIベースでもない、奇妙なトリガーロジックがあった。
コメントは短く、冷ややかだった。
「これは検出じゃない。“震え”だ」
見つけた技術者は、手を止めた。
その処理は、完璧ではない。明らかに“バグ”とも言えるような感情的な設計。
けれど ──なぜか消せなかった。
OSSコミュニティの一角では、“あの人”を知る者たちが、小さな議論を続けていた。
> 「あれ、本当にあの人のコードなのか?」
> 「でも、あの書き方……行間の揺れ方、記憶にあるんだよ」
いつからか、コードのスタイルそのものが「思想の遺伝子」のようになっていた。
リネームされた関数。匿名のコントリビューション。
不意に現れる、簡素な出力ログ。
`echo "Don't trust this. Understand it."`
それはまるで、『死者からの「読み取り可能な怒り」』のようだった。
社会は彼を忘れた。
あるいは、忘れたふりをした。
だが、**忘れられることすら拒んだコード**が、まだどこかで脈を打っていた。
SNSでは時折、それに触れた誰かが、こんな投稿をする。
@anonymous_dev
「今日拾ったコード、明らかに昔の“あの人”の手癖だった。
何かに似てる。
でももう、誰にも聞けない。」
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篠宮沙介は、どこかで生きているのかもしれない。
あるいは、もういないのかもしれない。
だが確かなのは、「この社会が、彼を殺したのではなく──彼の “名前” だけを殺した」ということ。
残されたのは、「信じようとした人間の残骸」。
そして、「それでもなお誰かを守ろうとしたコード」。
最後の投稿、誰もが偽物だと思ったそれには、こう記されていた。
/*
* 名前なんか、もういらない。
* 崇拝もいらない。
*
* ただ、お前の中にまだ怒りがあるなら──
* それだけで充分だ。
*
* …… Just go ahead.
*/
「遺骸」とは、*死んだ者の証*ではない。
『まだ死にきれない“問い”の残滓』だ。
このエピソードのタイトルは、そうして選ばれた。
そして、それに答えるかどうかは、
読者であるあなたの意志に委ねられている。