5.Federica
人生には自分ではどうすることもできないことが降りかかる。誰かに言われなくてもこんなことしてちゃいけないことよく分かってる。でも出来ない時ってあるよね。結婚を機に彼の勤務地についていく為、仕事を辞める決意をし最後の出勤を終えた。これから幸せが待っていると思ったら、どん底の現実に直面した彩菜。本当はこんなはずじゃない。こんなことしている場合じゃないし、こんなことしてちゃいけない。どうにもこうにも現実に向き合い切れない彼女が逃げた先はイタリア。偶然の優しい出逢い・不思議な縁によって癒され、新たな一歩を踏み出す物語。
5.Federica
会って話すことなどない。言い訳する必要もない。私はただ一刻も早く帰国すればいいだけ。それなのにもやもやした気持ちを抱え、まるで決められた日課をこなすようにミケランジェロ広場の日本庭園にまた来てしまった。合わせる顔などないのに健人に会いたかった。自転車でふらっと現れそうなのにそんな気配すらない。その日もバスを降りてからチェントロを抜け急な坂道をのぼりここまでやって来た。いつも座っていたベンチには観光客のカップルらしき先客がいた。
折角ここまで来たので、ミケランジェロ広場のさらに高台、小高い丘に建つサン・ミニアート・アルモンテ教会まで足を伸ばすため、さらに坂を上った。長い階段を数段上ると、教会正面の白と緑の大理石で規則正しくデザインされた幾何学模様の端正なファサートが目に入ってくると鐘が響き始めた。この教会だけでなく、ミケランジェロ広場をフィレンツェの街の全部を優しく包み込んでいく。静かに教会の重い扉を開け、中に足を踏み入れると壁のフレスコ画に息を吞むほど美しかった。奥の小窓から外を覗き、新緑に囲まれたフィレンツェのパノラマを見ていたら、もっと広い世界、もっと遠くの行ったことないところへも行ってみたくなった。ミケランジェロ広場からほんの十分歩くだけなのに観光客が少ないのは勿体ないなと思う。様々なモザイクやフレスコ画、彫刻等ひと通り堪能すると、教会中央に並ぶ椅子に腰かけた。ほの暗い厳かな空気の中ひとり椅子に座ると、不思議と心細い寂しさが和らいでいく。私の少し前には地元の老婦人がもの悲しげに神に手を合わせ祈っている姿があった。悲しみなんかに浸りたくないのに感情がこみ上げてくる。もし神様がいるのなら、今の私にどんな言葉を告げるだろう。少しの罪悪感を抱えながらも助けを求めたくなる。泣いても誰にも気づかれない。頬の涙をぬぐい心の落ち着きを取り戻す。
外界へ一歩出ると夕陽が眩しい。来た道をゆっくり下っていく。ミケランジェロ広場から顔を出すダビデ像に気づくとノッテ・ビアンカで健人と本物のダビデ像を見たのが遠い夢のように思えた。さらに下っていくとアルノ川に面した大きな通りにでる。歩き疲れてもまだ帰りたくなくて、ポンテ・ヴェキオ近くのお気に入りのジェラッテリアに寄ることにした。その店は大通りから少し外れ、こじんまりした店のショーケースには蓋がしてあり中が分からない。材料はオーガニック、すべて天然素材で砂糖も使用しない徹底ぶりで手作りされていた。一口舐めただけで、素材そのものの美味しさが凝縮されているのがわかる。旬のフレーバーが多く新しい発見もある。目で確認できないから試食は必須だ。前に来た時、私が日本人だと分かると、頼んでもないのに胡麻や柚子だのを試食させてくれ感想をせがまれた。もちろん美味しかった。でも私の好みはイタリアのオーソドックスなピスタチオやアランチャ、リモーネだ。今日の私は特に甘いものを欲していた。色んなフレーバーのジェラードを開発し、和食材を日本人の私に喜んで貰えたら嬉しいに違いないとか、余計な考えが頭をもたげると更に選ぶ時間がかかってしまう。もたもたしていると交代のバイトの子が来て接客が入れ替わった。イタリアではどんな時も自分優先だ。お客様が神様だなんて接客業をしているイタリア人を目にしたことない。閉店間際に店内に一歩足を踏みいれようものなら露骨に嫌な顔をされ、レジでもたついていると舌打ちされたこともある。決断力ない日本人にイライラしているに違いない。入れ替わったバイトの子にとっとと注文しようと顔を上げるとどこかで見覚えのある大きな瞳をしていた。私服に着替えたさっきのバイトの子がこちらを見て
「チャオ、フェデリカ」
と軽く手を振り店をあとにした。
たった一度だけ、ほんの数分だったのにその大きな瞳が脳裏に焼きついていた。彼女も私と視線が合うとすぐ気づいたらしい。お互いわずかな動揺を隠しつつ、私はピスタチオとチョコレートをお願いした。レジで支払いを済ませると
「アナタハ ニホンジンデスカ?」
と彼女が片言の日本語で話し掛けてきた。
「ワタシ、ニホンゴ ベンキョウシテマス」
私はなんて応えたらいいか分からず、この前みたく受け取ったジェラートに口をつけられずに固まってしまった。すると、彼女は片言の日本語で続けた。
「ケント アナタハ トモダチ イッテマシタ」
私は拙いイタリア語で、私は健人の友達だと伝えた。
「なんだ、イタリア語分かるの?この前、リストランテで黙っていたからイタリア語が理解できなかったと思ってたの」
フェデリカの話すトスカーナ訛りのイタリア語は早口でそのスピードで私たちの距離をぐっと近づけてきた。
「少しだけなら.…」
彼女に圧倒されながら恐る恐るイタリア語で続けた。
「健人は私のフィダンザートなの。彼はパパの店、この前のお店ね、そこで働いていて、パパも私たちのことを認めてくれているの。健人はね、私を守るためにサッカーが出来なくなってしまったの。だからね、私はずっと彼の傍にいるって決めたの。私は彼を愛しているし、彼も同じよ。あの時、彼があなたを見かけた時、健人が初めて日本人の女性と何かあるって感じた。私は彼のことが好きなの。わかるでしょ、あなたに入る隙はないの。余計なコトしたら許さない。だって健人は私のフィダンザートなのよ。あなたにちゃんと伝えたから。知ったらもう分かるわよね」
恋する若い女の子が放つ独特の、気の強いイタリア女特有の、強烈過ぎるほどの独占欲と恐ろしいまでの嫉妬心を躊躇なく投げてきた。婚約者を他の誰かに奪われる気持ちは、他の誰よりも今の私が一番よく分かっている。健人とどうにかなろうなんて気持ちはない。ただ、ここで知り合った日本人の友達を嬉しく思っただけ。ただそれだけ。もうそんな機会すら望めないことを受け入れるしかない。誰かをこんなにも好きになり、なりふり構わず必死に、どんな手を使ってでも奪われまいとするマグマのような塊を見ず知らずの異邦人に思いっきりぶつけられるフェデリカが羨ましい。(私にもこんな強さがあったなら、孝を失わずにいられたのかもしれない、とふと頭をよぎった)
「心配いらないわ。彼とは日本人のただの友達。私、ここに日本人の友達が誰もいなくて、この前、偶然にね、通りすがりに困っているところを彼に助けてもらっただけなの」
「本当に?」
「本当よ。彼に会ったら、この前は親切にしてくれてありがとう、と伝えて」
「もう、二度と会うことはない?」
「ないはずよ」
「本当に信じていいのね?」
「本当よ。心配しないで」
カップを強く握りしめていたせいだろう、ジェラートがわずかに溶け始めていた。
「ボナペティート」
彼女は勝ち誇った笑みを浮かべ、一瞬でジェラッテリアのバイトの顔に戻り、次のお客へ注文を聞き始めていた。散々周りに甘えた上に、まだ健人に頼ろうとしていたから罰があたったのだ。この街にはたくさんジェラッテリアがあるけど、一番気に入っていたこのお店のジェラートはこれが最後になるかもしれない。ピスタチオとチョコレートのダブルは妙にほろ苦かった。ますます現実に還らないといけない。
自分自身にほとほと嫌気がさす。疲労困憊だったけど蛇口をひねり、バスタブにお湯を張る。汗ばんだ衣服を脱ぎ捨て裸になった。バスタブのお湯はまだ半分にもなっていなかったけれど、バスタブにまるく体を埋め、ザブンと湯船に頭をうずめ息を止めた。このまま息を止めたら死んでしまうのかなと頭によぎった瞬間、死ぬ前にピラミッドが見たいと不謹慎にも思い出すと急に行ってみたくなった。顔を出しゆっくりと足を延ばし、目を閉じた。イタリアにいるならエジプトまで遠くないよね、シャワーに切り替えて、髪を洗い、ラベンダーのバスソープを泡立て身体の隅々をいつもより丁寧に洗った。もう一度、頭から熱いシャワーを浴び直し、バスタブの栓を抜くと、香りが広がっていく。下着を着けずにバスローブだけでベッドに寝そべると足がジーンとする。エルボリステリアで見つけた爽やかなレモンの香りのするボディクリームを肘、膝、ふくらはぎ、足裏や足の指にマッサージしながらクリームを滑らせていく。これも還り支度だ。まずは自分を整える。ミケランジェロ広場にもしばらく足を運ぶこともないだろう。ちょっと気になってエジプトまで行けるかと調べながら知らぬ間に眠っていた。髪が濡れたままだったので寒くなり目が覚めた。面倒だったけどドライヤーで髪を乾かしていると、携帯電話が音を鳴らした。いつものようにパオロからだと携帯に手を伸ばした。
「プロント」
「あの、彩菜さん、健人です。遅い時間にすいません。今、大丈夫ですか」
「あ、健人。うん、大丈夫だけど」
「フェデリカからジェラッテリアで彩菜さんに会ったって聞いて…」
「うん。ごめんね。私、何も知らなくて。健人を振り回しちゃったね。もうすぐ帰国する予定なの。君に会えて良かった。色々とありがとう。元気でね」
「えっ。あの、ちょっと待って。まだ切らないでください」
「私、いい加減、帰らなきゃいけなかったの。もっと早くね。君とはもう会うことないって思ってたけど、お礼が伝えられてよかった」
「彩菜さん、余計なお世話かもしれないけど、あのイタリア人、気を付けた方がいいですよ」
「あのイタリア人?」
「リストランテによく来るんで、何度も見かけたことあるけど、いつも違う女と来る」
「知ってる」
「知ってて、付き合ってるんですか?」
「付き合ってはないと思う」
「どういう事っすか?」
「上手く説明できないけど、彼は私に同情してくれただけなの。仕事の上司って立場でもあったから、彼はただ私を見過ごせなかっただけ。私ね、彼の会社の日本支社で五年働いていたの。だからね、悪いのは彼じゃなく私。私が彼の優しさに甘えすぎてしまったの。長居し過ぎたの。観光ビザが切れる前に残りたいなら労働ビザへ変更もできるよって彼に言われハッとした。彼にこれ以上気を遣わせちゃいけない、甘えちゃいけないって。それなのに気づかないふりを続けてた。だからね、最後にピラミッド拝んでから帰ることにしたの」
「えっ、どういうことですか。突然、エジプトに行くってことですか?」
「そう、エジプトのピラミッド。ずっと見たかったから、せっかくだから最後にピラミッド拝んでから帰国しようと思って」
「僕も一緒に行きます」
「どうして?」
「ピラミッド、僕も見たいから」
「私ひとり、弾丸ゼロ泊で行くつもりなの。だから一人の方がいいのよ」
「エジプトまで弾丸ゼロ泊で行けるんですか?」
「そうなの、ちょっと調べてみたらね、ローマのフィウミチーノ空港から直行便だと、3,4時間で行けるの。だから弾丸ゼロ泊でピラミッドだけ見て帰って来るの。ついでにユーロ圏を一回出てパスポートにスタンプ貰えば、観光ビザの件も大丈夫なはずだから、多少の余裕も出来るかと思って。それでも一緒に行きたい?」
「彩菜さん、すごいっすね」
「何もすごくなんかないよ。現実から逃げ回るのをいい加減終わりにしないといけいだけ。私ね、ノッテ・ビアンカの時にも少し話したけど結婚が決まっていたの。この際、正直に話しちゃうと、君と初めて会った日、あの日は教会で挙式をする予定日だったの。君に声を掛けられて、教会の鐘の音が耳に入ってきた瞬間、ふっと思い出しだしたの。あ、今日だったって。式場も招待客もドレスも、新居も何もかも全部決まっていて、あとは当日を待って挙式を終えたらすぐ引っ越す予定だったの。それなのにさ、仕事を退職したその日に彼の浮気現場に出くわしちゃって。しかも浮気相手は私の妹だったの。あり得無いでしょ。やっとの思いで仕事を辞める決心して、彼の転勤で遠距離になるから彼のところへ行く決心したのにさ。浮気現場を目撃した瞬間、頭が真っ白になっちゃって、何もかも失った気分になって、何が起きているのかさえ分からなかった。現実を受け止めきれなかったの。それでね、そこから逃げるようにイタリアまで来ちゃったの。ホント突拍子ないよね。自分でも呆れちゃう。仕事で何度も来たことあるからって、こんなに遠くまで来ちゃうなんてね。パオロとは偶然空港で会って、誘われるままフィレンツェまでついてきて、そのまま彼のお世話になってるだけだから、付き合ってるとか、全くそんな関係じゃないの」
「そうだったんですね」
「うん。最低よね」
「最低なのは、彩菜さんじゃなく、男の方ですよ」
「そっかぁ。それもそうね」
「そうっすよ。なので、僕もエジプト一緒に行きます」
「どうして?一人でサクッと行って、その勢いで日本に帰るつもり」
「弾丸ゼロ泊なら、二日間あれば大丈夫ですよね?」
「多分。大丈夫だと思うけど。婚約者のフェデリカはいいの?」
「あの、僕、彼女のフィダンザートじゃないですから。向こうが勝手にそう言ってるだけで、僕ら、全然、付き合ってもないですから」
「そうなの?」
「あのですね…。この際、僕も正直に話をすると、僕は高校卒業と同時にサッカー留学でイタリアに来て、二年経っても芽が出なくって、でも諦めきれなくて、成人式で一時帰国した時に両親と大学卒業するまでの期間ならって滞在延長を許して貰ったんですよ。それでまたこっちに戻って、その年のテストをなんとかパスして。まぁ三軍なんですけど、契約してもらえたんですよ。契約してもらえると給料もらえるんで、めちゃくちゃ嬉しくて。サッカーで飯食えるって。皆にもお祝いしてもらって、マジ調子に乗ってたんすよ。僕のほうが最低ですよ。やっと掴んだチャンスを自分の手でぶっ潰したんだから。こっちでもサッカー一筋で食事制限はもちろんお酒も控えていたのに、その夜はつい羽目外して、仲間とサント・スピリトで夜遅くまで遊んじゃって。その時フェデリカも一緒で。彼女が変な奴らに絡まれてたから、止めに入った時にたまたま飲酒運転のバイクが突っ込んできて。だからフェデリカは何も悪くなくて、ただの交通事故だったんですよ。そもそも羽目外した僕が悪いんで。僕がその事故で脚を複雑骨折して手術することになってしまって。やっとチームと契約できたのに、一試合も出れず契約解除されちゃったんですよ。そのことでフェデリカがすごい責任感じちゃったみたいで。でも、あんな危ないとこで夜遊びした僕の自業自得なんで。それなのにフェデリカは僕の入院中、その後のリハビリも一年以上ずっと付き添ってくれて、彼女の家族も僕に好くしてくれて。退院してからもずるずると、僕が甘えてしまったから、フェデリカに勘違いされても仕方ないけど。でも、本当に違うんですよ」
「そうだったんだ。大変だったんだね」
「あの、僕、恥ずかしい話なんですけど、当時の僕は怪我だけじゃなく精神的にもかなり参ってしまい自暴自棄になってたんですよね。それを言い訳にしちゃいけないのに、フェデリカに甘えてたんですよね。迷惑ばっかかけて申し訳なかったし、今はすごく感謝してるんですけど、だからといって、彼女の気持ちを受け入れるのとはちょっと違うような気もして。だからって彼女の気持ちを無下にもできなくて。今の料理の仕事も嫌いじゃないけど、したくてやってるのともちょっと違って。はっきりしない自分が悪いんだけど、流れに任せたまま、帰国したくないだけで月日が流れてしまった部分も正直あって。今更何言ってんだって感じっすよね」
「そっかぁ」
でもさ、フェデリカが健人のことフィダンザートだって思ってるなら、私は健人と一緒には行けないし、健人も行かない方がいいと思う」
「いや。だから、婚約なんてしてないっすよ。イタリア人、付き合っているだけでも、皆フィダンザートって使うじゃないですか。そもそも付き合ってる感覚ないし」
「そうなんだ。本当のところ、健人はフェデリカのことどう思ってるの?」
「嫌いな訳じゃないけど…そもそもこれは恋愛とは違うんですよ。事故の前から知ってたけど、かわいい妹ぐらいにしか見てなかったし。フェデリカが好意を持ってくれていたのは気づいていたけど、僕は…。僕は、その気持ちに胡坐をかいてたってことっすね、きっと。現実を見ないようにやり過ごしてきただけで。今はもう、こうして日常生活が送れるようになったけど、それでも前みたいにサッカーはもう二度とできない現実を受け入れることが、どうしても、どうしてもできなくて。イタリアに居ればいつかまたサッカーできる日が来るかもしれないって幻想を捨てられずにいただけかもしれない。小さい頃からずっとサッカーが大好きで。サッカーしている時が何よりも楽しくて、僕の人生はサッカー一色だったから。イタリア来たら、今までよりもずっと練習はきついし、外国人選手に囲まれると尚更、言葉の壁以外にも、楽しいだけじゃ済まされないことも多かったけど、それでも、サッカーできることが本当に楽しくて嬉しくて毎日充実してた。全部、ただの言い訳でしかないよな。本当のところは、日本に戻って負けを認めるのが怖かっただけなのかもしれない。ただ逃げてただけだったんです」
「そっかぁ」
「はい。すいません、喋りすぎました」
「そんなことないよ。なんでもそんなにすぐ白黒つけられないんじゃないかな。それだけ好きでたくさん努力してイタリアまで来たんだったら尚更きっと。簡単に割り切れなくて当然だと思う。人間ってさ、頭で分かっていても出来ないこともあるじゃないかな?」
「彩菜さんもですよね」
「そうね。お互い、大変だったってことだよ」
「彩菜さんに簡単にまとめられちゃうと、そんなに大変じゃなかった感じがしてきました」
「そんなことないよ。本当にすっごく大変だったんだと思うよ。私だってこんなこと、自分が経験するなんて思ってもみなかった。きっとさ、時間と周りの人たちの優しさが、その痛みを和らげてくれたんじゃないのかな。辛い出来事だったからこそ時間もそれだけ必要だったんだと思うよ」
「僕も、こんなこと自分に降りかかってくるなんて夢にも思わなかった。小さい頃からワールドカップ出場を目指してたんで。信じられなかったし、病院を退院してからも受け入れ難くて、嘘であってほしいと、どれだけ祈ったことか」
「全部、幻だったら良かったのにね。お互い、切り替え下手だね」
「本当に。そんな出来事の話をどこかで聞いたことあるような気もするのに、自分事となるとまるでダメダメで。自分でも呆れるほどダメ人間だなって」
「健人。でもまだ何も終わってないよ。君の外側で何が起きても君の価値は何も変わらないよ。健人は健人だよ。現実にきちんと向き合って、受け入れられる日がきっと訪れるよ。すぐじゃないかもしれないけど、きっと来るからさ」
「彩菜さん、やっぱりエジプト行かせてください。お願いします。僕も一緒にピラミッド見たいです」
「まぁ、別に一緒に行くのが嫌なわけじゃないけど…。健人、あのね。一つだけいいかな。余計なお世話かもしれないけど…フェデリカのこと、本当にその気がないなら、きちんと伝えた方がいいと思う。だってフェデリカは君のこと真剣に想っているようにみえたんだ。曖昧な態度をとられ続けたら、惚れた弱みでほんのわずかな期待を抱えて、そのかすかな希望を大事に握りしめて自分からその手を離すことは難しいから。二人とも若いんだからさ、もっと素敵な恋愛ができる。お互いにとって他の相手に出逢うチャンスにもなる。フェデリカのことを真剣に愛してくれる人に巡り合う可能性を奪ってしまうことにもなりかねないじゃない。自分の気持ちを知りながら相手に伝えないのって優しさなんかじゃないと思う。ただ自分が傷つきたくないだけ。悪者になりたくないの。ズルいんだよ。だって好きじゃない相手とするのは恋愛じゃなくて、恋愛ごっこでしかないんだよ。せっかく自分に好意を持ってくれた相手に長引かせた分だけ深く傷付ける結果にしかならないと思う。恋愛って理屈じゃないじゃない。恋愛が理屈でうまくいくなら誰も悩んだりしないよ。健人、ちょっと辛いかもしれないし、フェデリカが受け入れてくれないかもしれない。でもさ、フェデリカに感謝を込めて真摯に気持ちを伝えることは、健人のできる最後の愛情だと思うんだよね。あ、ごめん、わたし、自分の事棚に上げて。また偉そうに語っちゃったね。まぁ、これはあくまでも私個人の意見だから。健人がこのままでいいならそれがいいと思う。君の人生は君の選択が一番だからさ。健人の選択を尊重する」
「はい、いえ、あの…本当にそうかもしれないですね」
「ごめんね。偉そうにもっともらしいこと言ったけど、正解なんて誰にも分からないと思う。ただわたしがそう思っただけ」
「僕も正直、フェデリカが僕に囚われているのが申し訳なくも感じていて。あれはただの事故だったし。フェデリカが責任感じることじゃないって何度か伝えたことはあっても彼女が聞く耳持たないから。そこから逃げていただけってことですよね」
「それなら余計、お互いの為にも一度ちゃんと向き合った方がいいのかもしれないね」
「そうですね。先延ばしにするのはそろそろ止めにします」
「それじゃあ、お互い現実に向き合うためにピラミッド拝みに行こうか」
「いいんですか?」
「弾丸ゼロ泊でいいなら?」
「もちろんです」
「じゃあ、お休み取れる日が決まったら教えて」
「わかりました」
「ガイド料は高いけど、航空券は一緒に手配するよ」
「彩菜さん、ありがとうございます、また連絡します!」
「じゃあ、おやすみ」
「おやすみなさい」
それから数日後、健人がフェデリカときちんと話をしたと報告がきた。その声が晴れ晴れしていたので早速エジプト行きの航空券を手配した。
読んでくださり、ありがとうございました。わたしが好きな国、イタリアを舞台に選んだ。わたしが生きていてもいいと気づけた街だったから。人生には自分ではどうにもならないことが、否応なく訪れる。そんな時、あまりその出来事にネガティブな意味をつけても、辛くなるのは誰でもない自分だ。いいことも悪いこともすべての出来事の意味づけは自分で決めている。そんな事に気づけたら、少しだけ生きていくのが楽になるんじゃないかな、と思った。「大丈夫、すべてはうまくいっている!」全くそう思えない日でもそう思って生きてける強さを持てたらと思って描いた作品。