春 1-9
目を閉じると、すぐに闇が広がった。
耳元で鋭い風の音が鳴り、視界が歪んでゆく。オレは立ち尽くしていた。周囲は深い森の中、太陽の光が届かないような場所だった。
足元には血の匂いが漂っていた。冷たい風に乗って、かすかな銃声と思しき音が遠くから聞こえる。いや、銃声ではない。もっと高く鋭い音、斬撃が交錯する音。足元に落ちた無数の死体が、まだ動いているように見える。
“ああ……またか…”
オレは、自分の手が震えているのを感じた。武器を持っているのに、手が重い。すぐに使おうとする力が湧かない。それどころか、足元の死体がまるで自分を引き寄せるかのように引きずられる感覚がする。
「助けてくれ」
突然、後ろから声がした。振り返ると、そこに倒れてたまま、こちらに腕を伸ばす男がいた。彼の目は、オレを訴えるように見つめている。
その瞳に映ったのは、オレが犯した無数の罪の影。どうしてもその目を見たくなくて、オレは目を逸らす。
でも、後ろでまた足音が近づいてくる。早く逃げろ。動け。動けよ。
だが、オレの体は動かない。視界はどんどん歪んで、血の匂いが鼻をつく。耳元で笑い声が聞こえた。それはオレのものではない。
『うひひ…覚えてるか?』
その声は、まるで耳の奥で鳴っているようだ。振り返ると、そこには血まみれのあの男が立っていた。目を見開いて、歯をむき出しにしながらオレを見ている。
『お前はまだ、足りないんだろ?忘れているように見せかけているだけさ。本当のお前は……』
その言葉がオレを突き刺す。頭の中がぐるぐると回り、視界がさらに歪んでいく。ふと気づけば、オレの周りには無数の目が集まっていた。
「センセ……助けて」
オレに助けを呼ぶ声がもう一度耳に届く。リサの声にもコウリの声にも、ミツキの声にも聞こえる。
だが、何もできない。自分の体はどこか遠くにあって、声も届かない。目の前の男がまた一歩近づいてきたとき、オレは自分の手が握られていることに気づいた。
その手が、ぐっと力を込めて、オレを引き寄せた。ぐるりと回転した景色が、ゆっくりと元の形に戻っていく。足元が震えているのを感じ、オレは力を振り絞って立ち上がろうとする。
「……夢、か…」
目を開ける。目の前には天井が見える。見慣れない宿泊宿の天井だった。息が荒く、顔に伝わる冷たい汗を手で拭う。
夜明け前の5月の空気は肌寒く、やっと冷静を取り戻す。夢から覚めた自分に、少しだけホッとした気持ちが流れた。しかし、その胸の奥にはまだ、不安と恐れが残っている。
この夢を見るのは初めてじゃなかった。何度も繰り返し見る夢。オレはどこか知らない場所で武器を持って戦っている。誰かを助けようと、守ろうとしているのだが、それは叶わない。
大抵はおかしな人間に話しかけられて目を覚ますのだが、今回の夢では初めて「センセ」と呼びかけられたな。まるで夢が現実に合わせて変化しているようで、オレはゾッとした。
息を整えながら、天井を見上げる。静かな闇の中に、まだ悪夢の感触がじっとりと張りついているような気がした。オレはゆっくりと上体を起こし、額の汗を拭った。
外はまだ夜明け前。窓の外には、黒々とした森が広がっている。木々の隙間から、わずかに白んだ空が覗いていた。冷えた空気が部屋の隅々まで染み渡り、深呼吸すると肺の奥まで冷たさが染み込んでいく。
もう眠れそうになかった。今日の準備でもしておくか……
そう思いながら、寝床からそっと身を起こす。足元の冷たさに肩をすくめつつ、欠伸を噛み殺しながら部屋を出た。
廊下に出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。薄暗い光の中、静まり返った宿舎の廊下を歩く。と、その時――
「げっ……やば」
どこかからそんな小さな声が漏れた。振り向くと、そこに立っていたのはミツキだった。
薄手のジャージ姿にスニーカー。肩で息をしながら、バツの悪そうな顔をしている。教師としては、勝手に部屋から抜け出したことを叱らなくてはならないのだろうが……正直、今はそういう気分じゃなかった。
「ミツキ。お前、朝から何してるんだ? クリスとトーマスはどうした?」
オレが尋ねると、ミツキはわずかに目を逸らしながら答えた。
「えっと、日課のランニングでもと思って……トーマスは仮眠。クリスは今、偉い人と緊急の電話してるみたい」
「ほーん……」
ランニングが本当なのかどうかは疑わしかったが、オレは追及するほどやぶさかではなかった。この子にも1人の時間が必要なのだろう。
「……怒んないの?」
ミツキが不思議そうに尋ねる。
「怒んないよ。オレはお前を信頼してるからな」
そう言うと、ミツキは驚いたように目を瞬かせた後、ほんの少しだけ口元を緩めた。
「へぇ、センセって意外と甘いんだな」
「教師の仕事は怒ることだけじゃねぇよ」
オレが肩をすくめると、ミツキはフッと気の抜けた笑みを浮かべた。その顔を見て、オレはふと、さっきの悪夢を思い出した。
――守らなくてはならない。
その思いが、あの夢の中のオレを動かしていたのかもしれない。
「……お前、朝飯の時間には戻ってこいよ」
軽くそう言い残し、オレは歩き出した。背後でミツキが小さく「はーい」と返事をする。
――空は、さっきより少しだけ明るくなっていた。