春 1-6
バスが軽井沢の駅前を通り過ぎたのは、ちょうど朝の9時ごろだった。
車窓から見える風景が、さっきまでの都会とはまるで違う。アスファルトの道はやがて木漏れ日の中へと続き、広がる緑が眩しいほどだ。
「わぁ……空気、違う」
窓際の席で、リサが小さく呟いた。
普段はあまり自己主張をしないが、こういうときは感想をぽつりと漏らす。
「そうだな。都会の空気とは全然違う」
オレが相槌を打つと、リサはうっすらと微笑んだ。
道の両脇には新緑の木々が生い茂り、その葉の隙間から朝の光がちらちらと差し込む。5月の軽井沢は、まさに新緑の季節。芽吹いたばかりの葉は柔らかく、空気は澄んでいて、深く息を吸うだけで体の中が洗われるようだった。
「森の匂い、する……」
ミツキが小さく呟く。
オレは少し意外に思いながらも、「いい匂いだよな」と頷いた。
あいつがこういう自然を楽しむタイプだったとは知らなかった。
やがてバスは登山口近くの駐車場へと滑り込む。
「よし、ここからは歩きだぞー!」
ドアが開くと、車内に溜まっていた空気がふわっと抜け、かわりに森の匂いが濃くなる。みんなが次々とバスを降り、簡単に準備体操を済ませると、いよいよハイキングの開始だ。
◇◆◇◆
登山道の入り口に立った瞬間、コウリがすでに険しい顔をしていた。
「……ほんとに歩くのか」
「当たり前だろ。ハイキングなんだから」
オレが軽く背中を叩くと、コウリは明らかに嫌そうな顔をする。
「……引き返すなら、今のうち……」
「バカ言うな。歩くぞ」
しぶしぶと足を踏み出し、コウリはゆっくりと登り始める。木々の間を抜ける細い山道を、みんなで歩いていく。
「……」
リサは静かに、景色を見ながら歩いていた。
たまに手を伸ばし、葉にそっと触れている。
「こういうの、好きなのか?」
オレが聞くと、リサは一瞬驚いたようにこちらを見た。
「……うん。なんか、落ち着く」
短くそう言って、また歩き出す。
ミツキは少し後ろを歩きながら、登山道の脇に広がる緑を眺めている。
足元の小さな野草、頭上に広がる若葉、風が吹くたびにサラサラと揺れる枝。
「こういうの、初めて?」
オレが聞くと、ミツキは少しだけ考えてから「かもね」と返した。
向こうの国では、山歩きなんてする暇もなかっただろう。研究所と戦場の往復。自然を楽しむなんて、そんな感覚もなかったのかもしれない。
「まぁ、悪くねぇだろ」
オレが言うと、ミツキは小さく笑った。
……と、そんなふうに話している間にも、コウリの様子がどんどんおかしくなっていく。
「……ゼエ、ゼエ……」
「おい、大丈夫か?」
「ムリ……無理だ……! 限界……!」
まだ半分も歩いていないのに、コウリは額に汗を浮かべ、今にも倒れそうだった。
「お前……魔法少女だろ!」
「うるさいっ!ボクはそもそも後方専門なんだ!!ミツキやリサみたいなのと一緒にするな!」
「コウリちゃん……!がんばって!」
オレは呆れた声を上げるが、リサに支えられたコウリはそれどころではない。
「マジで……帰りたい……」
「ほら、あとちょっとだから頑張れ。山頂着いたら、メシがあるぞ」
「メシ……」
オレが励ますと、コウリは死にそうな顔をしながら、それでも一歩ずつ進んだ。
◇◆◇◆
「つ、着いた……」
山頂に着いたとき、コウリは地面に崩れ落ちた。
「もう……帰りはバスで……」
「帰りも歩きだ」
「死ぬ……」
完全に使い果たしたコウリを横目に、みんなは開けた景色に見入っていた。
遠くには浅間山の雄大な姿が広がり、その裾野に広がる緑が目に鮮やかだった。少し先の岩場に腰を下ろし、みんなで休憩することにする。
「さて、お待ちかねの昼飯だ!」
オレは背負ってきたリュックを開け、タッパーを取り出した。
「センセ……それ……?」
コウリが虚ろな目で見つめる。
「おにぎり弁当な」
タッパーの中には、ぎっしりと詰まったおにぎりが並んでいる。梅干し、昆布、ツナマヨ、焼きたらこ……バリエーションは豊富だ。
「……美味しそう」
リサがぽつりと言い、そっと手を伸ばす。
「好きなの選んでいいぞ」
リサは遠慮がちに、おそるおそる梅干しのおにぎりを取る。ミツキも特に何も言わずにおにぎりを選び、一口かじった。
「……悪くない」
「だろ? やっぱ飯は自分で作るのが一番うまいんだよ」
オレが自慢げに言うと、クリスが肩をすくめた。
「まぁ、食べられるレベルならいいんじゃない?」
「クリス。おまえは食うなよ」
「あら〜やだセンセ。冗談よ〜」
「ねぇ、ボク、さっきまで死にかけてたんだけど……」
コウリが幽霊みたいな顔で訴える。
「ほらっ。歩いたご褒美だ、しっかり食え」
「……もう動けない……」
コウリは泣きそうな顔をしながら、それでもおにぎりを手に取った。
風は涼しく、空は高い。
ミツキはふと、視線を遠くへ向けた。
(こういう時間……悪くないかもな)
そんなことを思いながら、また一口、おにぎりをかじった。