冬 4-7
屋上へ続く階段を駆け上がる。壁に手をつくたび、指先が妙に冷たい。心臓の鼓動が痛いほど早いのに、体の奥はどこかひどく静かだった。
——センセがいる。きっと、いつものように。
そう思いながら、ドアノブを掴む。
けれど、指先が震えているのは、寒さのせいだけじゃなかった。
扉を押し開けると、灰色の冬空が目に飛び込んでくる。分厚い雲。沈んだ光。世界が息を詰めたような重苦しさ。
「……いたっ……?」
曇っているというのに、外の光を見た瞬間に目の奥がチカチカと痛む。息が上がる。肩が小刻みに震える。焦燥に追い立てられるように、屋上を見渡す。
「ミツキ、早かったね」
——いた。センセが。
けれど、今日は二人きりではなかった。
屋上の欄干に、教師たちが並んでいる。ずらりと。まるで、観客席に立ち尽くす亡霊のように。彼らの視線は、どこか遠くを彷徨っていて、そこに生気は感じられなかった。
「センセ……これは?」
「ミツキは気にしなくて、大丈夫」
センセの声は、いつもと変わらない。なのに、何かが違う。
センセの歩き方はいつものようにだらしなくも、面倒くさげでもなかった。足音が、異様に整っていた。規則正しいリズム。コツ、コツ、コツ、と、一歩ごとに地面を叩く音が、妙に耳に残る。
それが異常だと気づいた時には、もう目の前にいた。
「ああ、逃げないで。怖かったかな? ごめんね。大丈夫、だいじょうぶ」
センセが微笑む。けれど、その表情はどこか作り物めいていて、ミツキはぞくりとした。
違う。これはセンセじゃない。
「センセ……?」
センセがミツキの腕を掴む。その手が異様に温かく、そして強い。
「や、やめて……センセ……?」
びくともしない。センセは、こんな風に力強く人を掴むことなんてなかった。
そして、センセの手のひらが目の前に翳される。
その手のひら。無数のマメ。指の腹の硬さ。見覚えがあった。
クリスの手と、同じだ——。
その事実に気づいた瞬間、視界がぐにゃりと歪む。
——瞬きの合間に、世界が入れ替わった。
冬空が、どこまでも澄んだ青に変わっている。
欄干に並んでいた教師たちの姿は、影も形もなかった。
金属の味がするほど冷え切っていた風が、なぜか生ぬるくなっていた。
「……え?」
「ね? これなら怖くないでしょう?」
センセが、微笑んでいる。
「ウソ……だって、さっきまで……先生たちが……」
目の端がちらつく。何かが消えたはずなのに、それを考えようとすると、意識がふっと逸らされる。
「君のセンセはオレだよ」
その言葉を聞いた途端、全身の力が抜けた。
頭の中に霧がかかったような感覚。
何を考えればいいのか、分からない。
何が正しくて、何が間違いなのか。
……夢だったのか?
「……そっか」
ミツキは、自分にそう言い聞かせる。
ここはいつもの屋上。センセがいる。
それなら、怖がる必要なんてない。
「センセ……タバコ吸いすぎ。体に悪いんだから、もうやめなよ」
何気ない言葉を口にする。その瞬間、何かを取り戻した気がした。何もかも、元通りに——。
気づけば、センセの胸元を掴んでいた。
震えていたのは、指先だけじゃなかった。
「センセ」
まっすぐに見つめる。
「私……センセのことが、好き」
その言葉を口にした途端、胸が熱くなった。
「本当はずっと、ずっと言いたかったの。最初はただ……変なヤツだなって思ってた。でも、いつの間にか、センセがいないとつまんないって思うようになってて……」
言葉が止まらない。何かにすがりつくように、話し続ける。
「だから……」
その先を言おうとした時。センセの手が、ミツキの頬に触れた。
「ミツキ」
優しい。けれど、その声には——。
ミツキはゆっくりと、センセの顔を見上げる。
——そこにいるのは、本当に”センセ”なのだろうか。




