秋 3-14
夜の街は、まるで別の生き物のように蠢いていた。
ビルの谷間に貼りついたネオンが、夜空にまで滲み、そこら中に乱雑な光の影を落としている。タクシーのクラクション、酔客の笑い声、どこかで割れる瓶の音。喧騒に混ざるのは、絶え間なく入れ替わる人々の波だった。
クリスは考えがまとまらないまま、漫画喫茶を出た。
湿った空気が頬にまとわりつく。冬の夜にも関わらず、この繁華街には寒さを感じさせない熱気が漂っていた。客引きの男女が通行人に絡み、見知らぬ人間同士が安っぽい音楽に揺れながら、刹那的な時間を楽しんでいる。
そんな中で、無遠慮な視線を感じた。
それは、ただの興味本位の目線ではない。じっとこちらを観察するような――まるで、獲物を値踏みするような眼差し。
視線の主を探すと、雑踏の中に一際目立つ男が立っていた。
「オイ、あんた」
男はクリスを真っ直ぐに見据え、口を開いた。
「USBの中身は見たんだろうな?」
その瞬間、クリスの体は反射的に反応していた。
一歩距離を取り、コートの内側に手を滑り込ませる。指先が、ひんやりとしたテイザーガンのグリップに触れる。
(どういうつもり?)
警戒するクリスに対し、男はすぐに両手を上げ、ひらひらと振ってみせた。
「オイオイ!やめろよ。こんな街中で非常識だな。落ち着け、オレは……味方だ。」
おおっ。エイガで見た台詞を言えるなんて感激だな、と男はふざけた。敵意がないことを知らせるための動作がクリスを一層苛立たせた。
「人の家のポストに勝手に見知らぬものを入れるような人間に言われたくないわね」
冷たく言い放つクリスに、男は苦笑するように肩をすくめた。
「それは確かに、そうだな」
よく見れば、体の線は細く、青年と言った方がしっくりくる年頃だった。だが、真冬だというのにサンダルを履いている。そのちぐはぐな姿が、どこか現実感を欠いて見えた。
――妙な男だ。
青年はクリスが撃たないと見て、ポケットに手を突っ込んだままだるそうに息を吐く。敵意は感じられない。あるのは、倦怠感と、いい加減な義務感。
「オレは忠告しに来てやったんだ」
「忠告?」
クリスは眉をひそめた。
青年は頭を掻きながら、ゆっくりと足を踏み出す。無造作な動きとは裏腹に、その足取りには迷いがなかった。
クリスは指に力を込める。
テイザーガンを抜くべきか――。
だが、青年は構わずにクリスの横まで来ると、ふっと笑い、口の横に手を添えた。まるで秘密を囁くように、低い声で呟く。
「……“イワミタケト”には気をつけろ」
――イワミタケト?
クリスの背筋に、微かな悪寒が走る。
「……人の名前?なんなの?」
クリスは青年の言葉を反芻しながら問いかけた。
だが、次の瞬間、青年は心底嫌そうな顔をして、大げさに肩をすくめる。
「ゲーッ! まじかよ。終わってんな」
唇を歪めたその表情は、驚きよりも呆れに近い。
「じゃあ、いいわ。オレは言われた通りにしたからな。あとはそっちでなんとかがんばれよ」
そして、興味を失ったかのように、青年はくるりと背を向けた。そのまま無造作に歩き出し、ネオンの光が滲む雑踏の中へと足を踏み入れる。
「ちょ……ちょっと待ちなさいよ!」
クリスが慌てて呼び止めるが、青年は振り返ることもなく、片手だけを軽く上げて応じた。
「そんな状態ならもういいわ。まぁ、オレは言われた通りに、ちゃんと言ったからな」
その言葉を最後に、青年の姿は夜の街に溶け込むように消えていった。
“イワミタケト”
聞いたこともない名前が、夜の喧騒の中でゆっくりと響きを持ち始める。
立ち止まったまま、クリスは拳を握る。吹き抜ける夜風が、ネオンの光を揺らしていった。
秋編終了




