春 1-10
『ミツキは生活に馴染んでいます。特段の問題は……ありません』
クリスの脳裏に、ミツキの脱走癖が一瞬よぎる。しかし、今ここで報告するほどの問題ではないと判断し、言葉をのみ込んだ。
電話の向こうから、低く落ち着いた声が響く。
『クリス。お前なら上手く手懐けられているだろう』
「ご期待に添えるよう、努力します」
軍人らしい、簡潔で無駄のない返答だった。だが、その言葉の裏には、ただの義務感だけでなく、クリスなりの矜持も滲んでいた。
『さて、わざわざ電話した用件だが……』
相手が少し間を置いたのを、クリスは聞き逃さなかった。ただの定例報告ではない。
『他国で魔法少女の“能力消失”が相次いでいる』
「……消失、ですか?」
クリスの眉がわずかに動く。魔力の衰えや暴走とは違う、意図的な“喪失”を思わせる表現だった。
『そうだ。向こうの国から協力要請が来ている。原因は不明だが、どうやら魔法少女たちの能力が何者かに奪われているらしい』
「奪われている……?」
『ああ。それもウチで言うところの特A級の魔法少女ばかりに現れていると言う。ミツキと同じランクだ。』
クリスは反復する。自然現象ではなく、何者かの意図が介在している可能性。軍人としての勘が、嫌な予感を訴えていた。
『それで、その魔法少女たちはどうなったのですか?』
クリスは珍しく自分が動揺していることに気がついた。それを悟った電話の相手は僅かな沈黙を置いてから話し始める。
『どうなった? ……変なことを聞くな。能力を失った魔法少女は“普通の少女”に戻ったそうだ』
「普通の少女に……」
『能力を消失した少女の殆どが記憶改竄が見られる。解明は困難だろうな。』
クリスの目が細まる。魔法少女の能力とは、単なる“力”ではない。それは彼女たちの存在そのものに関わるものだ。奪われた彼女たちは、本当に“普通”で済んでいるのか――?
電話越しの沈黙が、一瞬だけ重く垂れ込めた。
『まさか、クリス。A-607に情でも移ったんじゃないだろうな?』
『……!いえ、警護に必要な情報かと思いましたので』
『お前のことだから大丈夫だとは思うが。気をつけろ。あれは……人間じゃない。』
『……ええ。分かっています』
どうだかな。そう聞こえそうな含み笑いが細くを震わせた。
『まぁ、いい。気をつけろ。東欧からはじまり、中国、韓国と徐々に南下している。……偶然とは思えんからな』
『分かりました。一層の警護に励みます』
『また情報が入り次第連絡しよう。』
そこで通話は途切れた。
通話の途切れたスマホを下ろし、クリスはふっとため息を漏らした。
上層部の言葉を思い返すたび、微妙な不快感が胸の奥に引っかかる。合理的で無駄のない言葉のはずなのに、そこにはいつも、どこか冷たくて底知れない「割り切り」が含まれている。
(……まったく、イヤになっちゃうわね)
そんなことを考えながら眉間を揉んでいると、不意に視界の端で「何か」が動いた。
角の向こうから、妙に静かに、妙に不自然な歩調で――
ヌッ……
「きゃっ!?」
思わず身構えるクリスの前に、何の気なしに現れたのはセンセだった。
「……なんだお前、その反応」
「いやいやいや! そっちこそなんなのよ!?なんでそんなヌルッと出てくるの!?心臓に悪いんだけど!」
思わずスマホを握りしめるクリスに、センセはぼんやりした顔で首を傾げる。
「いや、普通に歩いてただけだけど」
「嘘つけ! 絶対なんか忍び足とかしてたでしょ!?」
「してねえよ……」
じと目で見下ろすセンセと、若干逆毛立ったクリスの視線が交錯する。
「……お前、ホラー映画とか苦手なタイプだろ」
「苦手じゃないし!?ていうか、そもそもそういう問題じゃないし!」
腕を組んでふんっとそっぽを向くクリスを見て、センセは小さく肩をすくめた。
「まあ、そういうことにしといてやるよ」
「ムカつくわねぇ、アンタほんっと……」
不快感とか不安とか、ついさっきまでの重苦しい感情がどこかへ吹き飛ぶのを感じながら、クリスは心の中で(……はぁ)ともう一度ため息をついた。
「まあ、そういうことにしといてやるよ」
「ムカつくわねぇ、アンタほんっと……」
腕を組みながら、クリスはふっと息を吐いた。
(……まさか、さっきの会話、聞かれてないわよね?)
一瞬、不安が脳裏をよぎる。魔法少女の能力消失、上層部の不穏なやり取り――もしセンセに聞かれていたら、余計な詮索をされるかもしれない。
だが、ちらりと視線を向けると、センセは相変わらずぼんやりとした顔で欠伸を噛み殺しながら歩いていた。
(……大丈夫なようね)
ちょっとホッとしつつも、どこか呆れた気持ちになりながら、クリスはスマホをポケットに滑り込ませた。
「そういえば……さっき、ミツキが外にランニングに行ったぞ」
センセの言葉に、クリスはピクリと眉を動かした。そして、次の瞬間には鋭く踵を返し、廊下を進もうとする。
「あの子ったら……!」
まるで駆け足でもするような勢いだったが、センセがそれを軽く制するように手を伸ばす。
「なぁもう少し、あの子に自由を与えてやってくれないか」
その言葉に、クリスの足が止まる。
廊下の薄明かりの下、彼女はゆっくりと振り返り、センセを見据えた。表情は冷静に整えられていたが、その瞳の奥には読めない感情が揺れている。
「……それは、センセのお願いでもできないわね」
静かな声だった。けれど、そこに滲んでいたのは拒絶というよりも、苦々しさに近い響きだった。
「あの子は、国の所有物なのよ」
乾いた事実を告げるような声音。しかし、その指先が無意識に握られていた。
クリスは自分でも気づかぬうちに、ミツキを”所有物”ではなく、“人間”として見始めている。そう認めてしまえば、今までの自分の立場も、信じてきた正しさも揺らいでしまう。
「それが……お前の本心か?」
センセの問いかけに、クリスは答えなかった。
ただ、ふっと目を逸らし、再び歩き出す。
だが、その背中からは、先ほどまでの迷いのなさが消えていた。




