接触:YU is Me! ③
気付くと、優は講義が終わった後、中庭の広場、それも決まって真ん中のベンチにいる人物を探すのが日課になっていた。
日に日に愛の音の周りにはその演奏を静かに聴く学生が増えてきていた。
そしていつも通り、優が愛の演奏を斜め前から聴いていたある日。それは起きた――
「どう? 今日もベース肩にかけてみる?」
「あ、はい」
優は愛のいつも持参するもう一つのソフトケースからベースを慣れた手付きで取り出すと、そっと自分の肩にストラップを下ろす。
初めは驚いたその重量感も、今では少しだけ心地よく思えるようになってきていた。
相変わらず楽器は演奏出来ない。教わってもいない。
だけど優はこうして肩からベースを下げていると、不思議と愛の音を更に近くに感じられるような気がして好きだった。
愛が次の曲を弾き始める。いつ見ても慣れた手付きで優を圧倒する。
その弦を滑る指先は時に荒々しくもあり、時に優雅でもあった。目の前で刹那に移ろうその情景が優には堪らなく輝いて見えていた。
「自分は何もできない…」
ふと、優の口から自嘲気味に溢れた言葉を愛は聞き逃さなかった。愛は演奏を止め、隣の優の顔を何事かと平静のまま見やった。
「あたし、小説も中途半端。音楽だって聴くだけ。結局、先輩みたいに“弾ける”わけでもないし――」
愛がゆっくりと優に体を向ける。
「そう思うなら、やらなきゃいいんじゃない?」
「っ!」
「楽しくないのに、無理して続けてもさ。ね?」
優は愛のその言葉に耳を疑った。そして理解する。
(…ああ、やっぱり違うんだ……。あたしと、この人じゃ……)
優はベースを元のソフトケースに丁寧に戻すと、愛の顔を見ずに立ち上がった。
「あ、あたし……もう帰ります。今日もありがとうございました」
そう言って優は愛に軽く頭を下げると踵を返した。
その背中を愛の言葉が追いかける。
「相田ちゃんはさ、まだ“楽しい”を知らないだけだよ」
「え?」
“楽しい”を知らないだけ――その言葉に、優の足が止まったが、振り向くことはしなかった。いや、出来なかったのだ。
「わたしだって最初はそうだったよ? 自分の演奏を聴いてくれる人がいたから続けられたの。だから相田ちゃんもいつかきっと――」
遠くなる愛の声を背中に、優は一度も振り返ることなく、その場から逃げるように家路についたのだった。
優は自宅に帰ると直ぐに自分の部屋へと隠れるように駆け込んだ。
優の部屋には数々の書籍と音楽CDが所狭しと並んでいた。
小説、文芸書、辞典、数多の種類の本に加え、『Volcanic Napalm』、『ANGRA』、『Dragon Force』など、音楽はハードでメタルなものを好むようだった。
「はあっ、はあ……っ」
後ろ手にドアを閉めると、その扉に背をもたれさせながら激しい呼吸を繰り返した。
(なんであたし、逃げてるの……?)
優は愛と出会ってからというものの、自分が自分ではないような感覚に陥っていた。
それはまるで、自分の中にもう一人知らない誰かがいるかのような――そんな感覚だ。
そしてそれが“楽しい”を知りたいという自分の心だと理解するまでにそう時間はかからなかった。
しかし、それを理解すればするほど、もう一人の自分はどんどんと身を退いていき、やがては心の奥に引っ込んでしまう。
一度は小説を書いてみたいと思い筆を執った自分。それがまだ書ける力量ではないと思い知らされた自分。
そして、また現実から逃げ出した自分――
(なんで……っ!)
優はそんな自分に苛立ちを覚えていた。
そしてそれは愛に対しても同様で、自分の中に生まれた新しい“楽しい”に気付かせてくれた人なのに、今はそれが疎ましく思えてならなくなっていたのだ。
しかしそれを自覚した今だからこそわかることもあった――そう、自分はただ単に逃げて来たのだと。
「あたしは……羨ましかったんだ……」
優の脳裏に愛の弾くあの曲が浮かぶ。優の指先が、そっと宙を撫でた。まるで、そこに見えないベースがあるかのように。
「国木田先輩みたいに、ただ、奏でてみたかった……。自分の“音”を……っ!」
気付くと優の吊り目がちの大きな瞳からは大粒の涙が零れていた。
「でも……もう……」
そうして優は一人、暗がりの部屋の中、静かに泣き崩れたのだった。
その日以来、優は愛を避け始めた。
中庭を通る時は顔を下げ、極力愛と目を合わせないよう素通りした。
その日の講義が終わると、速やかに荷物を纏めて家に帰ってしまった。
ベッドに横たわっても、耳の奥ではあのギターの旋律が、薄明かりのようにかすかに揺れていた。
それはもう“音”ではなく、“痕跡”だった。
けれどそれは、優の指先のどこかをじんわりと疼かせていた。
「はあ……」
優は自室のベッドで横にはなっていたものの、目を瞑るに閉じれずにいた。
そんな時、ふと床に転がる一冊の本が目に入る。先日図書館で借りてきた『はじめての作詞』。
すると心の奥で何かが疼くような感覚を覚えて思わず目線を逸らした。
(……そんな本も、借りてたな)
それは心のどこかに、“創りたい”という気持ちが残っていたことの証明に他ならなくて――
(けど、あたしはもう……国木田先輩にも、突き放されたし……)
そう言いかけて、もう一度その本を見やる。
優は徐ろに立ち上がり、その本を拾い上げるとベッドに戻り枕元に置いて再び横になる。そしてサイドテーブルの明かりを少し落とした。
部屋が静かに暗転する。
隙間なく置かれた本棚はこの書庫の主を取り囲むようにそびえ立ち、まるでこれから始まる闇の儀式に参列した巡礼者のようだった。
優の右手が宙に伸びて闇を掴む。
「……この暗闇の先」
まるで自分に語りかけるように優は言う。いや、最早自分に言い聞かせているのかもしれない。
「そこに届ける言葉を持ってますか?」
優は暗闇を、そっと指先でなぞる。
「それは」
指先の見えない“何か”が微かに震える。そして、その指先が触れたのは『小説』ではなく――
『作詞』だった。
「っ!」
瞬間、優の脳裏にあの愛の演奏が蘇る。
(ああ……)
“楽しい”ってこういうことなんだ。
そう悟るには充分過ぎるほどの記憶だった。
(あたしは、国木田先輩のギターを聴いた時みたいに……自分の“音”を奏でたいんだ!)
ペン立てに挿さったシャープペンを、優は無意識に手に取っていた。
気付けば、手が勝手に机の隅にあったメモ帳を開いていた。そこにまず書いたのは曲のタイトルでも、感情でもなく、ただ一つの言葉だった。
『音』。
(“あなたの音”が、“あたしの音”に成っていく――)
『音、深く静かに沈んでいく光の届かぬ底から支えるもの――』
その一行から始まったのは、誰にも聴かれていない彼女だけの音――
そこから、言葉が連なり始めた。
(……うん。自分の音は、自分で作るんだ………書きたかったんだ、あたし。あたしの好きだった“音”に、あたしだけの“ことば”を)
独り言のように心の中、そう呟いた優は“音”に導かれるままにペンを走らせ続けた。
幾日も、幾日も――




