接触:YU is Me! ②
とある日の午後、講義も終わり開いた講堂のドアから爽やかな春風が通り過ぎていった。
優は教科書やノートの入ったトートバッグを肩に担ぐと急ぎ足で大学の中庭へと足を向けた。
この時間は講義を終えた愛がそこで演奏している日だった――
段々と近づいてくるギターの音を耳で拾うと、優の心は春陽のように踊りだす。
(……あ、今日はあの曲かな?)
やがて葉桜の下を抜けると、その向こうにあるベンチの前に愛が立ってギターを構えているのが見えた。
初めて会った時より愛の奏でる音に立ち止まって耳を傾けている人がちらほら。そして――
優は愛の演奏の邪魔にならないように、なるべく愛の視界に入らないよう斜め前の位置から聴こえてくるその音に耳を預ける。
穏やかなリズム。優しい旋律。まるで、春の微睡みに誘うかのような。
愛の演奏はいつだって優をそんな気持ちにさせてくれるのだった。
(今日もすごく心地いいな……)
しばらく音を聴きながら風に吹かれていると、やがて演奏が終わり、愛が優の方を見た。愛からの声掛けはなく、代わりにニコッと一つ笑顔を咲かせてくれる。
この笑顔を見てようやく優は愛の方へ近づいて行ったのだった。
「こんにちは、国木田先輩。あの、今日は優しい曲でしたね」
優は少し緊張しながら、自分より少し背の低い、いつも身なりを気に掛け綺麗にしている一つ上の先輩に話しかける。
「やあ、相田ちゃん。聴いてくれてたんだ? ありがとう」
聴いてたことは気付いていただろうに、わざわざこういう言い方をしてくる愛を、優は憎からず思い始めていた。
「なんて曲ですか?」
「ん? 曲名は、特に無いかなあ?」
「え?」
「わたしが作った曲だからね。わたし、作曲も趣味」
そう言ってまたにこやかに笑ってみせる愛に優は驚きとも感心ともとれる顔で返す。
「作曲!? も、されるんですね……すごい…」
「ん?」
優の何気なしに口から溢れたその言葉に、愛が一瞬表情を困惑させた。
「何がすごいの?」
「え!? あ、その、演奏だけでなく自分で作曲までされてるのが」
「ああ、そういうこと」
愛はまた笑顔に戻ったが、その目の奥には何か別の感情が宿っているように見えた。
「……作れるって……“生み出せる”って、なんかすごく……うらやましいです」
「昔からやってきたから出来るってだけで、すごいことはないんだよ。例えばさ――」
そう前置きをして、愛は肩からギターを下ろし話し始める。
「相田ちゃんだって文字、書けるでしょ? それは小さい頃から書いてきたから。そしてそれを使って文章が書ける。それと同じこと」
「……はあ…」
愛の喩え話にピンとこなかったのか、優は曖昧な返事をした。
「その文章で物語を創ったり、詩を書いたりできること。これも割りと出来る人はいる。本当にすごいって人はね…あ!」
愛は何かを思い出したかのようにそこで言葉を区切り、優への質問へと切り替えた。
「相田ちゃん。本当にすごい人ってどんな人?」
優は一呼吸置いて考え、先の愛の語りから自分なりの解を導き出していた。
「…すごい人……。自分の能力で人を感動させられる人、ですか?」
愛は満足そうに微笑む。
「うん、そうだね。半分正解」
「…半分、ですか?」
愛は笑顔のまま優に向き直ると正面からじっとその真っ直ぐな瞳を見つめ返しながら自信に満ちた声で言う。
「そ。人を感動させられて半人前。自分も感動させられて一人前。自分で自分の音を好きだって言えたら、素敵だよね」
愛の煌めく瞳に吸い込まれるように、優はその眼差しから目を逸らすことができなかった。
「それが、国木田先輩が言う、すごい人……」
愛は目を少し細めて、視線を優から空に向けた。
「昔のわたしは、“誰かに褒められたい”って気持ちばっかりだったの。だから、褒められないと不安で、嫌になって、やめちゃいそうにもなった」
優は愛にも人並みの弱さのようなものがあったことを、この時初めて知った。
「今は、自分が心から良いって思えたら、それでいいって思えるようになった。そう感じるようになったのはまだ最近かな…。相田ちゃんはないの? そういう、自分を出せる趣味みたいなもの?」
愛のその言葉に優は視線を少し落とし、何やら無言で考えているようだった。愛はそんな優を見て口を挟むことなく、その沈黙を見守った。
「あたしは、趣味と言えば読書と音楽鑑賞くらいで…。小説も書いてみようと思ったけど、中々上手くいかなくて……」
「ふーん。本と音楽好きなんだ。サークルはどこか入るの? 新学期始まってそろそろ二週間だけど」
優は顔を上げ愛の顔を見ようとしたが、何故だか直視できず少し視線を逸らしながら答える。
「文芸部に、入ろうかなと…」
「へー。わたしは余り本は読まないかなあ。あ、楽譜は読むけどね?」
(あ……音楽の人なんだ、この人は…。あたしとは違う――)
優の愛を見つめる瞳の色に少しだけ灰色が掛かる。
(――この人は、自分の音に自信がある。“世界を変えられる”って、きっと信じてるんだ)
そして愛が話し終えた後も、しばらく二人の間に沈黙が流れた。
「そっかっ!」
やがてそう言って微笑みを戻した愛の頬にはほんのりと紅みがさしていた。
「さて、そろそろ次の講義行かなきゃだ。相田ちゃんはまだここにいる?」
「あ、いいえ! 帰ります」
「ん。じゃあねー!」
そう言うと愛は足早にいつものようにソフトケースを二つ重そうに担いで、講堂の方へと歩いて行ったのだった。
(すごい人、だな……)
一人になった優は改めてそう思った。
(そういうことが言える国木田先輩は、やっぱり、すごい人だ……。あんな風に、自分の音に誇りを持ってる。その音で、人に何かを届けようとしてる――)
下を向いていた優の視線が正面に定まる。
(……あたしの、熱くなれるもの……)
優は一人、音の無くなった中庭を後にした。周りの喧騒など、何も聴こえてはいないかのように。
ただ一つ、そこには新しい“音”が生まれていた。
先程愛が弾いていた曲を優は知らずに口ずさんでいたのだ。それは優自身も気が付かないほど、か細い、産声のようなハミングだった。
(国木田先輩の“音”が、今も耳から離れない――)




