接触:YU is Me! ①
ベランダ越しの風がカーテンをふわりと揺らし、レースの影が床に揺れている。
空は曇天。窓を開け放ったままのせいか、どこか遠くで車のクラクションが反響して、日常の続きを鳴らしている。
――そんな音すら、今のあたしには関係がない。
ベッドに横たわるあたしは、スマホを握りしめたまま天井を見つめていた。クッションに沈んだ後頭部のあたりが少し湿っていて、さっきまで眠れずに何度も寝返りを打っていたのがわかる。
小さな珈琲の空き缶が机の端にいくつも転がっている。カフェインと眠気のせめぎ合いの痕跡。
「小説、進まないな…」
誰にともなくつぶやいたその声は、乾いた喉を滑るようにして空気に消えた。
机の上に取り残されたノートだけが、その身を風に預けて頁をただめくらせていた。
四月の午後。
春の陽光に煙る大学のキャンパスでは、どこか浮ついた空気が流れていた。
桜は既に散り、舗道に残る花弁も少し乾いて、歩くたびにさらりと風に舞った。
人の波から少し外れた中庭の一角――そこに、彼女の音はあった。
小柄だが均整の取れた身体に、ベージュのカバーオールを羽織った女性が、携帯用アンプに繋いだエレキギターを掻き鳴らしている。
髪はくしゃりと後ろに結ばれ、弦を押さえる左手は迷いなく、潔い。
立ち止まって聴く者は多くない。皆、ちらりと視線を投げては通り過ぎていく。
だがその音は、風よりも強く、言葉よりも雄弁だった。
そして、その音に――一人だけ、完全に足を止めた者がいた。
「………………っ」
彼女の名は相田優。
黒髪を後ろで一つ結びにした姿からも見て取れるように、真面目で、静かで、目立たず、けれど心に燻る文学の火の粉を棲まわせている、そんな少女。
白いライダースにチャコールグレーのスキニージーンズ。胸元には、今日から通うことになった大学の校章。肩には小説と入学式でもらった資料を入れたトートバッグ。
けれど今、彼女の世界にはただ、音しか存在していなかった。
(……生のギターの音って、こんなに……刺さるんだ)
細い指が弦を弾くたび、優の胸に“熱いもの”がぶつかってくる。
それは轟音でも絶叫でもなく、むしろ静かな衝撃。
まるで自分のなかの何かを、丁寧に、強引に――こじ開けられるような感覚だった。
やがて曲が終わり、ギターを弾いていた女性がふと顔を上げる。
黒目がちな瞳と、浅く笑った唇。
その目が、まっすぐに、優を見ていた。
「……おねーさん。音、届いた?」
言葉にされて初めて、優は自分がずっと立ち尽くしていたことに気がついた。
「……っ、あ…はい。あの、すみません……。すごく、良かったです……」
しどろもどろになりながら、どうにかそう伝えると、ギターの女性はくしゃりと笑った。
「ふふっ、ありがと。わたし、国木田愛。あなたは?」
「あ、相田優です。あの、新入生です」
「へえ。相田ちゃん、聴いてくれてありがとねー」
愛と名乗った女性は、ギターを抱えたまま芝生に腰を下ろすと、そこにある小さなペットボトルの紅茶をひとくち啜る。
「ねえ、相田ちゃん。さっき、目……すごい顔してたよ」
「…え?」
「まるで、音を噛み締めてたみたいな顔。ああいう顔、好きだな。……こっちも、音を出した甲斐があるってもんだし」
優は一瞬で耳まで赤くなった。
なぜなら、そんな風に見られていたとは露にも思っていなかったのだから。
「すみません、顔、うるさくして…」
そう言って目を伏せると、愛は笑いながらこう言った。
「何言ってんの。わたしのギターを一番よく聴いてくれた人が、ここにいるってだけで、嬉しいよ」
そして――唐突に。
愛は背後に置いてあったもう一つのソフトケースをごそごそと開き、そこからエレキベースを取り出して、優の前に差し出した。
「はい、持って」
「え、え? これっ? ベース?」
「そ。触ったことないでしょ? だから触るの。音ってのは、鳴らしたくなった時が“始まり”なんだから」
(え! え? 触っていいのかな? 壊しちゃったらどうしよう――)
愛に言われるがままに恐る恐るベースを構える優。そのぎこちない姿を、愛は楽しそうに見ている。
「こうやって持って……あ、ネックのここ持つんだよ」
言われるままに持ったベースを肩から当てると、ずしりとした重みが伝わってきた。
(うわ……!)
初めて感じる本物の“楽器”の感触に、優は思わず息を飲む。
(ベースの弦って……こんなに太いんだ。思ったより弾力がある…)
そんな様を見ながら愛が悪戯っぽく笑った。
「好きに触ってみて? 飽きたらそのまま置いてもらっていいし」
そして愛はおもむろに立ち上がり、ギターを構える。
「相田ちゃん、入学おめでとう。大学生活楽しんでね。入学祝いに一曲贈ろー」
そう言いながら、愛はアンプの電源を切り、ピックを使わずに指で弦を弾き始めた。
それは、さっきと同じ曲。
けれど今度は、優のためだけに奏でられる旋律だった。
先ほどの静かで情熱的な曲調から、もっとおおらかで――そう。風のように広がっていく音色がそこにはあった。
それはまさに“春”の陽気さであり、風の心地良さでもあって。
その音色を聴くうち、優の指は無意識にベースの弦に触れていた。
(…あたし、ベースなんて弾いたこともないし、弾けないのに……)
優は愛が爪弾く爽やかだけど素肌に絡みつくような音色にうっとり聴き入り、そっと、指を弦に滑らせていく。
その指先は、まるで愛が弾くギターの弦と共鳴したがっているかのように、出ない音を刻んでいた。
やがて、曲は終わり、愛が優に微笑みかける。
「どうだった? わたしの“音”」
「……すごく……綺麗でした……」
そう答える優の瞳は星が瞬いているかのようにキラキラしていた。
そんな優を見て、愛は小さく微笑む。
「そう思ってくれたなら、それはきっと相田ちゃんが奏でた音だよ。わたしは音を贈っただけ。それをどう感じ取れるかは、その人次第だからね」
愛はそう言うと優に向け軽くウィンクを飛ばす。
「……ありがとう、ございました。その……コレ、弾けなくてすみません…」
「あはっ、いいよそんなの。よかったらまた聴きにきてよ。講義ないときはここで弾いてると思うからさ」
冗談めかしてそう言うと愛はすっと立ち上がり、ギターとベースの入った二つのソフトケースを重たそうに背負って歩き出した。
優が呆気に取られてその姿を見つめていると――ふと愛の歩みが止まる。
そして首だけ振り返りながらこう言った。
「ねえ相田ちゃん。楽しめるもの、ちゃんと見つけるんだよ? ここで」
そんな言葉を残し、今度こそ愛は去っていったのだった。
「……国木田、先輩…」
(…あたしは、あの“音”に、なんて返したらよかったのかな?)
呟く優の顔には、夏隣の日差しのように優しい笑顔が浮かんでいた。




