EP1-4:アクアリウム
翌日、南梅原駅改札前。
約束の時間より少し早く着いた俺は辺りをキョロキョロと見ていた。すると誰かがこちらに小走りにやってくるのが見えた。
「ごめん、おまたせ!」
その子は俺に声を掛けて来たが、人違いではないかともう一度その子の顔をよく見る。
ん〜〜〜……
「…って、岸かッ!?」
「誰だと思ったのよ!?」
俺は思わず叫んでしまった。それもその筈、俺の前に現れた岸は制服ではなく私服姿だったのだ。
そして何より驚いたのはその私服姿の岸が、可愛かったのだ!
いつものように髪を縛っていなく、背中まで下ろした黒髪が陽の光で蒼くきらめく。白を基調としたワンピースは嫌味のないくらいの小さなフリルが所々にあしらわれており、清楚の中にも可愛さを取り入れている。そして肩には小さなポシェットを掛けていた。
「何よ……そんな驚くことないじゃない」
岸はそう言うと少し拗ねたような仕草を見せる。俺は慌てて取り繕った。
「いや! その……なんだ? 服、可愛いなと思ってさ」
俺がそう素直に言うと、岸は顔を赤くし、俯いてしまった。しかし直ぐに顔を上げると俺に言う。
「桃田君も私服姿初めて見たけど……似合ってるね」
今度は俺が照れてしまう番だった。俺は普段着のリンガーTシャツとラフな短パンだったのだが、気を遣ってくれたのか?
「そ、そうか? いや……その、なんだ、行くか!」
俺は気不味くなりそう言うと三角巾に掛けた左腕も大振りにスタスタと歩き出す。そんな俺に対して岸はまた小走りで付いてきた。
「ちょっと! 待ってよ桃田君!」
「…あ、悪い」
そんなやり取りをしながら俺達は駅の中に入っていった。
南梅原駅から電車で一駅の所にある水族館は土曜日ということもあってか家族連れやカップルなどでごった返していた。
俺と岸ははぐれないように水族館の順路を進む。
「あ、見て! ペンギン! 可愛い〜…」
岸が水槽の中にいるペンギンらを指差して言う。その無邪気な仕草が余りに可愛らしかったので俺は思わず見惚れてしまっていた。
普段こんなにハツラツとした表情の岸を見たことがなかったこともあり、ペンギンより何だか岸を見ている方が面白い気がした。
すると俺の視線に気付いたのか岸は恥ずかしそうに言ってくる。
「……もう、桃田君? 恥ずかしいからあんまりジロジロ見ないでよ」
「わ、悪い!……でもなんだ? お前、そういう顔もするんだな」
「え?」
俺は岸にそう指摘され、思わず思っていたことを口に出した。すると岸は顔を赤らめるとプイッと顔を背けてしまう。
まずい……怒らせちまったか?
俺が不安になっていると、岸は小声で何かを言ってきたが俺には聞き取れなかった。
「え? 何だって?」
「もう! ここには彼氏の修行に来たんでしょう!? だったら私のこと、岸とかお前じゃなくて名前で呼んでよ!」
岸は俺に顔を近付け、今度は大きな声でそう言った。
「え? いいのか?」
俺が素っ頓狂な顔で聞き返すと
「別にいいわよ…」
と、岸は少し唇を尖らせての小声でモゴモゴと言うのだった。
「じゃあ、爽風でいいか?」
俺がそう確認すると岸は一瞬背中をビクつかせた後、無言でコクリと小さく頷いた。俺は咳払いを一つすると、改めて言う。
「なら…さや、あ! さん付けの方が」
「爽風でいいわよ!」
岸は少し食い気味に俺の言葉を遮って言ってきたので俺は思わずたじろいでしまう。そしてそんな俺を見た岸はまたも顔を赤くした。
昼時になり、俺たちは真上に水槽が観えるフードコートで軽めの昼食を摂りながらお互いの話に花を咲かせていた。
「爽風は中学から水泳やってるんだな」
「うん。健康の為にね。し、司郎君は?」
何だかんだ言って、岸の方もまだ俺の名前呼びに慣れない様子だ。
「俺は、五歳から」
俺がそう言うと岸は少し驚いた顔をする。そして少し目を伏せて
「…腕の怪我、いいの?」
と、気を遣って聞いてきた。
「ああ……まあまあ、だな。夏大には出られないけど、また泳げるようになるのが今の目標なんだ」
俺は出来るだけ笑顔で、岸に気を遣わせないように明るく話を続けることにした。
「…春大、県予選で一位だったものね。本選に出られなくて残念だったね…」
岸もそれに気付いたのか、少し落ち着いた口調で言う。俺は更に明るく振舞うことにした。
「残念……は違うかな? 確かに本選に出られないのは残念だったけど、俺はあの結果に満足してるんだ」
「どういうこと?」
岸が首を傾げながら聞いてくる。俺はその妙に女の子らしい仕草にドキッとしながらも続けた。
「だってさ? 県予選で一位だったんだぜ? そんな俺が本選で二位以下になる訳ないだろ?」
「あ、そう考えるんだ…」
二人の間にどっと笑いが起きる。
岸はまだクスクスと笑っている。
何だか笑い方も控え目で女の子らしくて可愛いと俺は感じてしまう。
「ふふっ! 司郎君て面白いね」
「ん? そうか?」
岸がこんなに笑う姿も初めてだった俺は、ついつい岸に見惚れてしまう。俺はそんな浮ついた気持ちを悟られないよう、少し冷めたポテトを頬張り、コーラで喉の奥に流し込んだ。
岸は天井の水槽を優雅に泳ぐ魚たちを穏やかに見つめながら、続ける。
「知ってた? 春頃の司郎君、けっこう水泳部の女子の間で話題になってたんだよ?」
岸の突拍子もない告白に、俺は口に含んでいたコーラを危うく吹き出しそうになった。
「ああ? 誰が、なんだって!?」
岸は慌てる俺の顔を見ると、また小さく微笑んで続ける。
「あの頃の司郎君、進級したばかりで次期部長とまで言われてて勢いすごかったじゃない? 全員で優勝するぞーっていつも言ってて」
「ああ……そんな時もあったっけな…」
俺はまだ少し動揺していた。まさか誰かが俺のことをそんな風に見ていたなんて夢にも思わなかったからだ。そしてその事実は、何だか俺の心をざわつかせた。
そんな俺にお構いなしに、岸は続ける。
「やる気全開の司郎君はキラキラ輝いて見えてさ。この人は本当に水泳が好きなんだなー、素敵だなーって、よく話してたわ…友達が!」
「そ、そうか……」
流石に俺も照れて何も言えなくなってしまう。岸はそんな俺を見て悪戯っぽく笑うと、更に続けた。
「でもね? 怪我をして入院して……暫くしてから部活に出てきた司郎君にはもうその元気は無くなっちゃってて……」
岸は俺のことを責めるでもなく、ただ淡々と話す。俺はそんな岸の言葉に黙って耳を傾けていた。
「だから、ね。久し振りに司郎君を見た時にビックリした……なんか別人みたいになっちゃってて…」
「……そんなに酷かったか?」
俺が恐る恐る聞くと岸は目を閉じて首を横に振る。
「…あんなに泳ぐのが好きだった人が、急に泳げなくなっちゃったんだもの……もし私だったら、突然好きなものを取り上げられたら、やっぱりグレちゃうと思うし……」
「え? 俺、グレた?」
俺は思わず素っ頓狂な声を出してしまった。岸はそんな俺を見て
「だってほら、その金髪」
と、俺の頭を指さしてきた。俺は頭に手を当てると改めて自分の髪を脱色した時のことを思い出した。
「あ、ああ……これはなんか、頭の中が色んなことでこんがらがってて、自分でもどうすればいいのか分かんなくてよ……確かにちょっと、荒れてたかもな……」
俺が苦し紛れにそう説明すると岸はクスクスと笑う。そして俺の目を見つめて言うのだった。
「でも最近、久々に昔の司郎君に会えたようで嬉しかったんだ」
「ああ! その俺のことを話してたっていう友達がか!」
俺はピンと来て岸の言うその友達に想いを馳せた。すると今度は何故か岸がむせこんだ。
「…ふ、ふふっ……そうね。その友達も少しは安心してるんじゃないかしら……」
岸は何だかさっきより低い声色でハンカチで口元を拭いている。
「ならいいけどな。その友達にも心配かけて悪かったって言っておいてくれよ?」
「ふふっ、そうね。分かった」
岸はそう言うと少し顔を赤らめて咳払いするのだった。