EP4-7:ミツメルサキハ
八月も下旬に入り、学生達は夏休みを謳歌しているのだろう。
養護教諭である鳩子も今日も今日とて自宅でのんびりと夏休みを謳歌していた。
今日も特に予定もなく、エアコンの効いた自室でお気に入りのドラマをぼーっと鑑賞しているところだ。
そんな時、階下から母親の声が掛かる。
「はーちゃーん。ちょっとお使い頼まれてもらっていーい?」
その声は明るくも少し申し訳なさそうな調子だ。
「んー」と、間の抜けた返事を返す鳩子。だがその声は満更でもなさそうな声だった。そしてテレビを消して一階へと降りていく。
階下に降りると母親がキッチンで何やら料理の下拵えをしているようだったが、そんな母親に鳩子は尋ねた。
「何? お使い」
母親は料理の手を止めずに笑顔で答えた。
「それなんだけど、ちょっと良いお肉手に入ったから焼肉しようと思って! そしたら焼肉のタレが無かったのよね。はーちゃんの好きなのでいいからお使い頼める?」
「うん。お夕飯?」
「そ。熱いから帽子かぶって行きなさいね」
鳩子は壁時計を見る。時刻はまだ十三時。時計を見つめたまま少し考え込む。
「…図書館、寄って来ようかな。お夕飯までには帰るね」
鳩子はそう言うと玄関先にあった白い鍔広帽を手に取り、家を後にした。
先に近所のスーパーマーケットで焼肉のタレを吟味し、鳩子は悩みに悩んだ末、結局甘口と辛口両方のタレを購入した。
(パパは辛口好きだし、私は、甘口がいいな… 二つ買っちゃったけど、いいよね)
鳩子は少食と言うだけで別に食べるのが嫌いと言う訳ではないし、むしろ焼き肉は好きな方だった。
(ふふ……お夕飯、楽しみ)
鳩子は夕飯の焼き肉に想いを馳せて少し顔をほころばせた。
スーパーマーケットで買い物を済ませた後は、そのまま近くの市立図書館へ足を運んだ。
図書館に足を踏み入れるのは久し振りな気がするが、夏休みだからか子供連れの親子や学生の姿が多く見られた。
そんな光景を目にしながら鳩子は思った。
(みんな勉強したり遊んだり、思い思いの夏を過ごしてるんだろうな……)
鳩子は弱目に効いたエアコンの心地良さに眠気を覚え、欠伸を噛み殺した。
それから館内の本棚を見て回るが、特に読みたい本も見つからずに結局そのまま図書館を後にしようとした時だった。
「せんせ……鳩子さん?」
背後から自分の名前を呼ばれ、鳩子は驚きながら振り返る。そこには意外な人物が立っていた。
「……岸さん」
「あ、やっぱり鳩子さん! こんにちは」
爽風は嬉しそうな表情でそう言って、ペコリと軽くお辞儀をする。
鳩子は突然の邂逅に少し驚いたが、すぐに笑顔を作って応じる。
「こんにちは。岸さんも本読みに来たの?」
「はい! あ、でも今日はちょっと調べものがあって……先生は?」
爽風に問われて鳩子は少し恥ずかしそうに答えた。
「……私も本を読みに来たんだけど……特に読みたい本が無くて……」
それを聞いて爽風がクスッと笑う。そして少しいたずらな顔で続ける。
「先生でもそんなことあるんですね」
鳩子はその言い方が少し引っかかったが、素直に言葉を返した。
「……私も、人間だから。あと、外じゃ“先生”禁止」
「ふふ。ごめんなさい。鳩子さん、帰るところですよね? よかったら一緒に帰りませんか?」
爽風の言葉に鳩子は一瞬驚いたが、すぐに笑顔で応えた。
「うん。一緒に帰ろ」
二人はそのまま図書館を出て、帰路に着いた。
「今日も暑いですね」
爽風が手で顔を扇ぎながらそうぼやいた。鳩子はそんな爽風に優しく返す。
「うん。私、暑いのも寒いのも、苦手…」
「あはは。私も寒いのは苦手です」
「暑いのは、平気なの?」
「まあ。私、水泳部なんで、割りと夏は好きなんです」
爽風は右手で力こぶを作る真似をしておどけてみせた。
「ふふ。そうなんだ」
鳩子は爽風の仕草が可笑しくて、思わず笑みを漏らす。
そんな他愛も無い会話をしているうちに、二人の目の前にファミレスの看板が見えた。
「あ、鳩子さん、もしよかったら――」
爽風はそう言うと突然くるっと身を翻らせた。そして鳩子の方に向き直り少し照れ臭そうに微笑みながら言葉を繋げる。
「少し涼んで行きませんか?」
鳩子も笑顔で爽風に応えた。
「うん。私もそう思ってた」
そんな訳で二人は意気揚々とファミレスに寄ることにしたのだった。
「岸さんは、もう夏休みの宿題は全部終わったの?」
鳩子がコーヒーカップをソーサーに置き、爽風に訊いた。
二人は店の窓際のテーブル席に着いて、二人でドリンクバーを注文して飲みながら夏休みの雑談に興じていた。
「はい。七月中に終わらせちゃいました」
爽風は胸を張ってそう答えたが、すぐに少し苦笑し付け加える。
「…私、宿題とかは早めに終わらせちゃいたい性格なんで……あ、でも割りと最近まで宿題のお手伝いはしてたんですけど」
それを聞いて鳩子は少し驚いた表情で返す。
「え? お手伝い? お友達の?」
そんな鳩子に爽風は視線を横に泳がせ恥ずかしげに答える。
「あ、えと……その、か、彼の、です……」
「あ。ああ〜…」
鳩子は一瞬考えた後、納得がいったように深く頷いた。
「岸さんくらい可愛かったら、そりゃあ、彼氏の一人や二人くらい、いるよね」
「ひ、一人しかいませんよッ!?」
鳩子の冗談に爽風が顔を真っ赤にして反論する。鳩子はそんな爽風の反応が可笑しくてクスクスと笑いを漏らした。
「ふふ。そうだね。言葉の綾。ごめんね」
「もお〜、からかわないでくださいよぉ…」
爽風は頬を赤らめたまま不服そうに唇を尖らせて上目遣いで鳩子を睨む。
そんな可愛らしい様子を見て鳩子がまた笑うと爽風もつられたように笑顔になった。そして二人して笑い合うのだった。
「その彼氏君とは、まだ付き合い始めたばかりなんだね」
「そうなんです。夏休み入る前に色々あって、何だか流れで告白されて、流れで付き合うことになって……」
二人は恋バナに花を咲かせている。
「でも、岸さんはお付き合いすることになって、良かったんだよね?」
鳩子の嫌味のない無垢な物言いに、爽風は何でも素直に答えてしまっている自分を少し不思議に感じていた。
「はい! とても!」
爽風が屈託の無い笑顔でそう答えると、鳩子も自然と笑みがこぼれた。
「ふふ……なら、良かったね」
そんな鳩子を見て、爽風の笑顔もより明るく華やいだものになった。
「あ、でも私、お付き合いするって言っても、まだ何をしたらいいのか分からなくって。一緒にお出掛けとかは割りと行ったりするんですけど…」
爽風はそう言うと少し不安げな表情になった。そんな爽風に、鳩子は優しく言葉をかける。
「そっか。この夏はどんなところに行ったの?」
「あ、はい。彼の二人のお姉さんたちと四人で一泊旅行に行ったりしました」
突然爽風の口から出た斜め上の返答に、鳩子は思わず目を丸くして驚いてしまった。
「え? お姉さんたちと一緒に? すごい……進んでる、ね」
爽風はそんな鳩子に少し慌てた様子で返す。
「あっ! えっと、はい……お二人ともとても個性的な方たちなんですけど、一緒に旅行に行けて本当に良かったって思ってます。彼のことだけでなく、彼を取り巻くご家族のことが知れましたし、何より、お姉さんたち、良い人で……」
爽風はそこまで言うと言葉を詰まらせてしまった。少し潤んだ瞳になってはいるが、その顔は笑顔だった。
そんな爽風に、鳩子は優しく声をかけた。
「そっか。お姉さんたちと仲良くなれて、良かったね」
「……はい……ありがとう、ございます……」
爽風は目の端に浮かんだ雫をそっと指先で拭った。そんな様子を見て、鳩子は思わず微笑みが零れるのだった。
「彼、なんて名前? 差し支えなければ、訊いてもいい? 私の知ってる子かなあ…」
「桃田司郎くんって言って、同じ二年で、クラスメイトで、水泳部です」
鳩子の唐突な問い掛けに爽風は何気なしに答える。それを受けた鳩子は
「ふ〜ん。共通点、多いんだ。嬉しいね?」
と、相変わらず緩く返す。そして何か思い出したかのように
「そう、水泳部と言えば!」
と、珍しく少し大きい声で爽風に話し掛けた。
「どうしました?」
「最近ね、保健室に金髪の水泳部の男子がよく体調悪い子を連れてきてるの」
「……金髪…はあ…」
爽風はそれを聞いて思い当たる人物は一人しかいないことを知っていた。
「面白い子でね。人のことばかり心配して、自分は水着姿のまま慌てて来ちゃったり。知ってる?」
「はあ、まあ。知ってると言えば知ってますね…」
爽風は水着のまま保健室に行ってしまうような人を自分の彼氏と思われたくないと、呆れ半分で適当な返事をしてしまう。
「その子、私のことを見てね、変なことを言うの。まったく、困る」
鳩子の表情と口調が先までと違うことに爽風は気付いた。ハキハキと喋れているし、少し頬を染めて話すその顔は、まるで――
「今度その子から相談があるって言われちゃってて、告白とかされちゃったらどうしようって思ってる自分がちょっといたりして、自分でも引いてるというか……ハッ!」
鳩子はいつの間にか自分だけマシンガントークをしてしまっていたことに気付き、気まずい顔のままゆっくりと爽風の顔を覗き込んだ。
だが、爽風の顔は笑顔――
ではあったが、これは、苦笑?
鳩子は爽風にこんな表情をさせてしまった自分を恥じると共に、瞬時にその理由を考え込む。そして――
「ご、ごめんなさい岸さん! 私ばかり変な話しちゃって!」
鳩子はテーブルに両手を添えて大きく爽風に頭を下げた。さすがに爽風もそれには驚き
「え? え! 大丈夫ですよ! は、鳩子さん、全然面白い話でしたから、顔上げてください!」
と、慌てて鳩子の肩を掴んでフォローする。鳩子は情けないまでに肩を落としながら爽風にまた「ごめん…」と言ったのだった。
その後、暫くまたガールズトークに花を咲かせ、二人は店を出た。
ファミレスの扉を開け、先に出た爽風の背中に鳩子の情けない声が掛かる。
「岸さん、ダメだよ。お会計、私が払う。お手洗い行ってる間に払うの、なし!」
そんな鳩子に爽風はピシャリと言い放つ。
「いいえ。この前鳩子さんにご馳走になってるんです。このくらいは払わせて下さい。ドリンクバーだけですし」
「でもぉ……大人の私が出さないなんて…」
それを聞いた爽風はクルと鳩子に向き直り、真剣な顔付きで捲し立てた。
「ダメですよ鳩子さん! そういう時だけ大人ぶらないで下さい。私たちは学校では確かに先生と生徒ですけど、外で会ったら友達ですよね? だから、基本割り勘で行きましょう! じゃないと今後、鳩子さんに声掛けづらくなっちゃいます」
爽風は言い終わると、顔を綻ばせて微笑んだ。そんな爽風に鳩子も観念したように言葉を返す。
「……うん……分かった……今日は、ご馳走様、です…」
「はい! ありがとうございます! それと、私のことも爽風って呼んでもらえると嬉しいです!」
爽風が嬉しそうにそう言うと、鳩子は少し恥ずかしそうにしながらコクンと頷いた。
「うん……あ、えっと……爽風、ちゃん。ありがとう…」
そんなやり取りに二人は自然と笑顔になるのだった。




