EP4-1:ソノノコリガ
プールサイドに似つかわしくない白い布地が風に吹かれて、純白のシーツのように舞い踊る。その白さは空の青に映え、煌めく夏の陽射しを反射して一層輝いている。
その輝きの中心に、女はいた。
その白い布地はシーツではなく、白衣。
少し大きめの白衣を長身の女が着ていた為、まるでシーツを羽織っているかのように見えたのだ。
白衣の女はプールサイドに降りて膝を折り、何やら水面を観ていた。
すると、手に持った試験管でプールの水を掬い取り、目の前に翳す。長い前髪の間から切れ長の凛々しい瞳を覗かせ、その容器の中身をじっと眺めている。大きな不純物が混入していないことを確認すると、白衣の女は試験管に蓋をし、その場から立ち上がった。
「花崎先生ー! いつもお世話になりますー!」
水泳部顧問の板橋先生からその女に向け声が掛かる。女が若かったからだろうか、彼の声は幾分声量が大きく弾んでいた。
「いえ。お邪魔しました。では、また来月」
白衣の女はプールサイドから立ち去る間際に、肩越しに振り返り軽く会釈をする。その時だった――
突如水泳部員たちから歓声が沸いた。何事かと女はその歓声が上がる方に目を向ける。
そこでは何やら青春真っ只中なことが今まさに起きているようだった。
「付き合ってくれ、岸! 他の誰でもない、俺とッ!」
そんな男子の発言にまた周りからワッと歓声が上がる。
女子部員たちが黄色い声に包まれる中、一人の女子部員が潤んだ瞳で笑顔を作りそれに応えた。
「こちらこそ……よろしくお願いします」
「………」
女はその光景を暫し呆けて観ていてハッと我に返ると、素早くまた前に向き直りその場を後にした。
その白衣の女――名前を花崎鳩子と言う。年歳は二十五歳。
ここ、県立澄水高校の養護教諭をしていて、先程は月に一度行うプールの水質検査の検体を取りに来ていたところだった。
一七〇センチは超える長身で細身。手脚もスラリと長く、まるでスーパーモデルのような体型をしていた。そんな恵まれた体型を隠すかのように少し大きめの白衣を纏い、長い前髪で隠れた目元と合わさり神秘的な印象を見る者に与える。
性格は温和で誰にでも穏やかに接するが、必要以上に話そうとせず基本的に口数は少ない。
そんな彼女を一言で言い表すならば“クールビューティー”という表現が一番しっくり来るだろう。
保健室へと戻り、鳩子は先程検体を入れた試験管を発泡スチロール製の検体箱の中へと慎重に保管する。これで後は宅配に任せて検査結果を待つだけだ。
そこでふと、鳩子は先程プールサイドで起こっていた事態を思い出し動作を止めた。
(…確かにあれ、告白してたよね……しかも、相手もオーケーしてた。青春、だなぁ……)
鳩子は窓の外の空に大きく描かれた入道雲に目を向けると、先程引き連れてきたばかりのノスタルジックな感覚に想いを馳せるのであった。
――数日後。
一仕事終えた午後、鳩子はコーヒーでも淹れようと電気ケトルでお湯を沸かす。
(ん?)
ふと、廊下から何やら騒がしい声が聴こえてきた。
「花崎せんせー! いますかー!?」
そんな声と共に保健室の扉が勢いよく開いた。
上半身裸で水着姿のまま入ってきたのは眩しい夏の陽射しのような金色に頭髪を染めた水泳部の男子部員。傍らにもう一人、体操着姿の男子部員を右手で担ぎ連れてきている。
「どうしたの?」
鳩子は彼のその姿に一瞬驚くも、前髪の下の表情は見せず司郎に問う。
「こいつ、熱中症みたいで、診てもらえますか!」
金髪の生徒が右手で担いでいた男子部員をそっとベッドへ座らせる。どうやら突然体に変調をきたした生徒のようだ。
「ねえ、君。 症状を言える?」
鳩子が男子生徒に近付き容体を診ようと屈み込む。鳩子は幾つか問答を繰り返し確認する。
「…そう。先程君が言ったように、おそらく熱中症。涼しくして水分を摂って、少し休んで」
「そうなんスね!」
鳩子は金髪の方に振り向きそう言うと、男子生徒に飲ませる為の水を汲みに水道へと足を向けた。
「いくら室内のプールとは言え、この暑さ。小まめな水分補給と休憩は必要。板橋先生にも後で言っておく」
鳩子は落ち着いた声でそう言いながら、コップに水を汲み男子生徒に飲ませベッドに横にさせる。
その手際の良さを見て金髪の生徒は「さすが保健室の先生だ!」と一人感心しているようだった。
「さて」
再び鳩子は金髪の生徒に向き直り、彼の頭から爪先までを一瞥する。それから横を向き、一つ小さな溜息をついた。
「…運ばれて来た彼、体操着に着替えて来てるのに……どうして君は、水着のまま?」
金髪の生徒はようやく今の自分の姿に気付いたかのように
「あッ! こいつが倒れたって言うから焦って、もう着替えなくてもいいかなって! ハハ…!」
と、頭の後ろを掻きながら屈託のない笑顔を鳩子に向ける。
「…せめてタオルぐらいは掛けてきたら?」
そう言って鳩子が保健室内にある椅子を運び彼に手渡した。そして自分は彼が運んできたもう一人の男子部員の額にそっと濡れタオルを被せる。
その時、先程スイッチを入れていた電気ケトルが甲高い声で沸騰したことを告げた。
「君も、何か飲む?」
「あ、ハイ!」
金髪の生徒は笑顔で答え、鳩子と共に保健室のテーブルへと移動する。
「花崎先生は何飲むんですか?」
「コーヒー。君も、同じでいい?」
「あ、ミルクと砂糖があると嬉しいス!」
「ん」
鳩子は慣れた手付きでインスタントコーヒーを淹れ、自分と彼のカップにそれぞれコーヒーフレッシュ、彼のものにだけスティックシュガーを添えて出す。
「どうぞ」
そして淹れたばかりのコーヒーを金髪の生徒に手渡し、その向かいの椅子へと腰かけた。
「あざす! ………」
鳩子からカップを受け取るも、彼は黙って鳩子を見ていた。その視線に気付き鳩子が問う。
「? なぁに?」
「あ、いや! 大人の人ってみんなコーヒーはブラックで飲むもんかと思ってたんで! 花崎先生はミルク入れるんスね」
「ああ、うん」
「なんか意外っス!」
「そう? 胃の粘膜を保護する為に、私は入れるようにしてる。一日に何度も飲むなら尚更、ね。本当は牛乳がいいんだけど、学校だから、ね」
鳩子はコーヒーカップをテーブルに置くと、また席を立ち金髪の彼にもタオルを持ってきた。
「やっぱり、君もタオルを羽織っておいて」
金髪の生徒はそのタオルを受け取り今一納得がいかない様子だ。
「俺なら別に寒くないっスけど?」
「いや……私が目のやり場に、困る…」
彼から視線を逸らし、はにかむ鳩子に、彼は自分の水着姿を顧みた。
「あ! そ、そっスね!」
そこでようやく彼も納得がいったようだ。少し頬を赤らめ受け取ったタオルを肩から掛ける。
「ハハ! すいません」
「い、いや…」
横を向いて少し頬を朱に染めながら鳩子はそう呟いた。
そんな鳩子を金髪の生徒は物珍しそうな顔で見つめながら口を開いた。
「意外っスね。先生ってもっとこう、お堅い感じの人かと思ってました!」
彼が歯を見せながら笑顔で言った。
「そう…」
コーヒーカップを両手で持ち、鳩子は少し寂しげな表情を見せた。その反応に彼は少し戸惑う。
「あ! いやッ! 悪い意味じゃなくて、俺はただ……」
「……」
鳩子は何かを言い掛けている彼の言葉をそっと待つ。その返答が例え自分が望んだものではないと分かっていたとしても――
「年上の人にこんなこと言うのは失礼かもしれないスけど、なんか先生、可愛いっスね!」
金髪の生徒は屈託のない笑顔で、鳩子の目を真っ直ぐ見てそう言った。
「ッ!?」
鳩子は彼のその言葉に思わず固まってしまっう。
「いや、可愛いってのも変か……先生、身長高くて細くて、顔もシュッとしててスゲーかっこいいじゃないスか? それなのに俺に気さくにコーヒー淹れてくれたり、裸で照れたり――」
「もう、充分!」
鳩子は手で制すように彼の言葉を遮った。その頬はやはりほんのり紅く染まっている。表情は長い前髪に隠れて読み取れない。
そんな鳩子を見て彼は少し顔を近付けた。
「すいません、俺、調子に乗って!」
「ッ!」
直ぐ近くから聞こえたその声に鳩子の頬が一層朱に染まる。
その時、ベッドで横になっていた水泳部員がゆっくりと起き上がった。
「うーん……だいぶ善くなりました。すみませんでした…」
まだ朧気な頭を抱えながら水泳部員が鳩子に礼を言った。その声を耳にするなり鳩子は金髪の生徒の側から飛んで離れ、起きた生徒の前まで急ぎ足で向かう。
「おそらく熱中症。今日は部活は早退し、休養。体調が優れなかったら、行き付けの内科に掛かって」
「分かりました。先輩もすみませんでした」
「いや、俺のことは気にすんな。体調が戻ったのならよかった! じゃあ荷物取りに戻るか」
男子水泳部員二人が会話している中、鳩子は少し距離を置いてその会話を聞いていた。
そして金髪の生徒もコーヒーを一気に飲み干し水泳部員と一緒に部室へと戻って行く。
「先生! コーヒーごちそうさまっしたッ! 美味かったっス!」
彼は振り向き元気よく鳩子に人懐こい笑顔を向ける。それを受け鳩子も普段余り変わることのない口角が少し緩み、過ぎ去るその背中に向け一つ呟いた。
「うん…」
一人になった後、鳩子はまた一つ溜息をついた。そして先程彼が座っていた椅子へゆっくりと腰掛けると、少しだけ塩素の香りがした。
(……可愛い、か…)
先程の彼の言葉を思い出しながら鳩子はその平坦な胸に手を当てた。その胸が今何故か徐々に高鳴ってきている。
そして――
(わ、私が、か、か! か、かかかか可愛いィッ!? そんなこと、今まで言われたことなんてないよッ! いつもは“かいわれ”とか“竹やり”とか“ナナフシ”とか言われてきたのにッ! こ、こんな私の何処を見て可愛いなんて言ってくれたんだろう!? う、嬉しいけど、ダメッ! 彼は生徒で私は先生ッ!? あ! そう言えば名前も聴いてない! 私が極度の口下手なばっかりにぃ〜ッ!)
鳩子は歓喜と後悔が入り混じった感情を心の中で爆発させ、一人保健室で身悶えた。
――花崎鳩子。
高校養護教諭の二十五歳。寡黙なクールビューティーとは所詮他人から見た表面の姿。
その実態は極度の引っ込み思案で口下手。自分の容姿に自信が持てず、その負い目がネガティブに働き、常に前髪で顔を隠し人と深く関わらず過ごしてきた、なんとも冴えないアラサー女だった。




