EP3-7:シスターズアゲイン
――爽風と友加里が中庭へと到着する数分前。
「え!? ヘアバンドですか?」
爽風が友加里の言葉に思わず驚きの声を上げる。
「そう。あの子、自分が可愛くてモテること十分自覚しててね、普段は変な男が寄って来ないように自分の可愛さに封印掛けてるの……」
「可愛さに、封印……? それって……?」
爽風の疑問の声に友加里は深い溜息を吐くと答えた。
「……あの子、自分が何をどうすれば可愛くなれるか十分把握してるの。だから、それを隠すこともお手の物ってわけ……あの子がヘアバンドを外したら要注意よ!」
――そして今、司郎の目の前で季美はヘアバンドを外して見せた。その意味は友加里が言った通りのものだろう。
今まで額を出し、幼さを演出していたヘアバンドはもう無い。季美は靡く前髪を夜風に任せる。
横に流れた髪を掻き上げて耳に掛けると更に妖艶さが増した。
普段眠たそうに半分閉じていた瞳は獲物を捕らえた肉食獣のようにハッキリと開き、目の前の司郎を射抜く。
季美は先程とは明らかに違い、愛の戦場を生き抜いた歴戦の女戦士のような妖しい色香を纏っていた。
女性ホルモン、オキシトシンが脳内にドーパミン、セロトニン、エンドルフィンと言った女性の美を司る脳内麻薬の分泌を促す。
季美が一つ仕草を変える度に女性ホルモンは過剰に分泌され、季美を見る見る艶めかしい存在へと変貌させていく。その姿は“可愛い”と形容するより“愛したい”と表現したくなる程、男の劣情を駆り立てる。
例えそれが、実の弟を前にしたとしても――
季美に対峙する司郎は彼女から立ち昇るむせ込むような雰囲気に異変を察していた。
「しろちゃん、わたしね? お姉ちゃんとしてじゃなくて、しろちゃんのこと……」
真剣な表情でそう告げる季美を真っ直ぐ見据える司郎が口を開く。
「待て季美ねえ。それ以上は口にするな。季美ねえが俺のこと大切に想ってくれてるのは分かる……友加ねえとはちょっと違う感じだよな? でもな――」
そして司郎は深く息を吐きながら眉間にしわを寄せ悲痛な眼差しで続ける。
「俺は季美ねえのことは何処まで行っても姉ちゃんとしか思えない。だって姉弟だからな!」
物陰で隠れて聴いていた友加里の胸が二人を想うとズキと痛んだが、いつまでも“発情モード”の妹をこのままにしてはおけないと、友加里は季美に向かいその場を飛び出していた。
季美は司郎の言葉が理解出来ていないのか、その顔に妖しい笑みを湛えて司郎に言う。
「姉弟とか、やめたい……しろちゃんより素敵な男の子なんていない…! わたしは、しろちゃんのこと、女として――」
そこまで口を開いた季美と司郎の間に友加里が割って飛び込んできた。
「バカ季美ッ! それを言って満足か!? チロの今の顔が見えてるかッ!? チロの気持ちを考えたのかあッ!!」
季美の両肩に掴みかかり友加里は勢いのまま橋の上から季美共々池に落ちた。
「ッ!? 友加里さんッ! 季美さんッ!!」
突然飛び出し、季美と共に池に飛び込んだ友加里を見て爽風は驚きを隠せず叫んだ。
池は幸いにも浅く、二人はずぶ濡れになりながらもゆっくりと立ち上がった。
「……友加ちゃん……」
季美が濡れそぼった髪を耳に掛け、友加里を睨みつける。
「……頭冷やしな、季美……私達は姉弟だ。越えちゃいけない一線があるだろう?」
濡れた髪から水滴を落としながら、友加里も季美を睨み返して言った。
「気持ち伝えてスッキリした? それで満足? チロの気持ちも考えないで!」
普段からしっかりした表情と口調が印象的だった友加里だが、今はそれにも拍車が掛かり迫力を増していた。その姿はまさしく、妹のしてしまった悪さを叱る姉そのものだった。
そんな二人の様子に爽風はハラハラしながらも、目を逸らしちゃいけないと、しっかり目を開き見守る。
先程まで月を映していた水面は二人の心持ちのように荒れ、波打つ。
「友加ちゃんにぃ……最初から全部持ってる友加ちゃんに、わたしの気持ちなんか分かるわけないよッ!」
今度は季美が友加里に食ってかかる。しかし、友加里は動じた様子もなく言い返す。
「ああッ! 分からないし分かりたくもないね! 人を傷付けてまで手に入れようとするあんたの身勝手さを私は怒ってるんだッ! 自分が可愛いのをいい事に人を見下すな!」
そんな二人の口論を爽風と司郎が橋の上から無言で眺めていた。司郎は口を真一文字に食いしばって、やはり爽風と同じように姉達から目を逸らそうとはしない。
「わたしは、誰も見下してなんかないッ!」
季美は普段からは想像も付かないような大声で叫びながら友加里の肩を掴む。その腕を友加里がしっかりと掴み返す。
「ハッ! よく言える! あんたはチロを見下したんだよ! チロにとってあんたが姉であるように、あんたにとってもチロは弟なんだ! そんなチロに、その辺の男たちに使うような色気で迫ったんだッ!」
「ううぅッ!」
季美はその友加里の言葉に衝撃を受けたように目を見開く。そしてそのまま膝から崩れ落ちた。
「……っ……うっ……うぅ……うええ……ッ!」
季美は泣きながらその場にへたり込んだ。そんな季美を素早く抱きとめると友加里は囁くように言った。
「………なんで、言ったんだよ、バカ……」
友加里が自らも瞳を潤ませながらそう呟くと、季美は泣きながら語る。
「友加ちゃんは、美人だよ……頭も良くて、スタイルも良くて……それに引き換え、わたしには何にもない……頑張ってお洒落もコスメも覚えて可愛くなれるよう努力した……けど! 本当に見て欲しい人には気にしてもらえなくて…」
そんな季美を、友加里は強くしっかりと抱きしめた。
「季美は、可愛いわよ……私なんかよりずっとね…」
「……ううっ!」
季美は泣きながら友加里の体にしがみ付いた。
「わたし、本当は昔、昔ね? しろちゃんのこと嫌いだった!」
「…………」
友加里は優しく季美を抱き返してあげながら黙って彼女の言葉の続きを待った。
「だって! しろちゃんが生まれてから友加ちゃんしろちゃんばかり可愛がって、わたしのことなんて忘れちゃったみたいに見えて! だからまたわたしを見て欲しくて! もっと可愛くなればまた振り向いてもらえるかもと思って!」
「そっか……」
友加里は優しく相槌を打ちながら季美の頭を撫でる。そして目を瞑り、奥歯を食いしばった。
ここまで季美を人の愛に飢えさせてしまった要因が自分にあったことを初めて知り、その可能性を微塵も考えなかった自分を恥じ、心の底から悔やんだ。
そんな二人の様子に爽風も目頭が熱くなるのを感じたがぐっと堪えていた。そして爽風は静かにその場を離れるのだった。
これ以上は今の自分が聴いていいことじゃない、と自分に言い聞かせて。
「……しろちゃんが生まれて来るまでは、わたしのこと可愛い可愛いっていつも頭撫でてくれてたのに……しろちゃんに、友加ちゃん取られちゃった気がして……ほんとはこんなこと、思っちゃいけないのに! 言っちゃいけないのに! ううッ!」
季美は泣きながらそう告白する。そんな季美を優しく抱きしめながら友加里は首を横に振った。
「いいんだよ……何だって言っていい。だって私はあんたのお姉ちゃんなんだから」
そして友加里は季美の肩を掴み身を離すと、諭すように言った。
「季美。確かにチロが生まれてからは私の標的はチロに移って行ってたのかも知れない。それに関しては今更ながら謝らせて欲しい。淋しい思いさせて、ごめんなさい」
「……うッ!」
季美の目の前で頭を下げる姉の姿とその言葉に季美は居た堪れなくなりまた泣き出す。そんな妹の姿に姉である彼女は少し困った顔をしながらも優しく諭すように言葉を紡ぐ。
「季美。私がこの世に生まれてから初めて愛した人は誰だか分かる?」
「…………ママと、パパ?」
「そう。じゃあ、その次に愛した人は?」
季美は少し目を伏して姉の問いに答えた。
「……しろちゃん」
友加里は妹の言葉に目を瞑り頭を左右にゆっくりと振る。
「いいえ、違うわ。あなたよ、季美」
「わたし?」
「そう。私はね、あなたが母さんのお腹に宿った時、本当に嬉しかったの」
友加里は優しく微笑みながら妹を諭すように続けた。
「だって、あなたは私の初めての姉妹だったんだもの……私の可愛い妹が生まれて来るって分かって、居ても立っても居られなくなった! あなたにも覚えがあるはずよね?」
「……ッ!」
季美の瞳からは大粒の涙がとめどなく流れ落ちる。そんな妹を姉はそっと抱き寄せたのだった。
「チロのことは大好き。だけど季美のことも大好きよ。勿論、今でもね……」
――季美の、長年溜め込んでいた感情のダムが決壊した。
「…おねえちゃあん〜〜〜…ッ!! わたしも、しろちゃんのこと、好き、大好き! 気付くとあの頃お姉ちゃんがわたしにくれた思いと同じようにしろちゃんを大好きになってた! でも、ずっと心の奥によく分からない寂しさが引っ掛かってて……愛されてないんじゃないかって不安になって……ッ! この不安を消したくてしろちゃんを愛したの……でも結局わたしが愛そうとしてたのはわたし自身でッ! ごめんなさい、ごめんなさいお姉ちゃん! ごめんなさいしろちゃんッ!!」
姉に抱き付き思いの丈を吐き出しながら泣きじゃくる妹の頭を優しく撫でてあげながら友加里は続ける。
「お姉ちゃん失格ね。大切な妹をこんなに泣かせちゃって…」
「うぅぅ……ッ!」
「……ごめんね、季美……」
そんな姉の言葉に季美は無言で首を横に振って応えるのだった。
そんな二人を照らした月が静かに水面に揺れていた。
友加里は胸の中で泣きじゃくる妹を優しく抱きしめながら橋の上の弟に視線を向ける。
司郎は真っ直ぐこちらを見つめていて、無言で右手のサムズアップを勢いよく友加里に向けて見せた。
それを見て友加里は今回の姉弟の拗れた愛情に一つの終止符が着いたのだと悟った。
友加里は水面に映った月に気付くと夜空を見上げ、自ら月を仰いだ。そして口を弧にして一つ呟く。
「フッ……眼鏡濡れて見えねぇー…」




