EP2-6:ドンナホンネ
あおいは一人でプールサイドを歩きながら、纏まらない頭で何とはなしに考えていた。
(……あたし、桃田先輩に振り向いて欲しくてここまで付いて来たのに、やることなすこと先輩に迷惑掛けてばかり……それに引き換え、岸先輩は……)
そこまで考えて、あおいは唇を噛んだ。
(……敵わないなあ……)
あおいは爽風の他人を思い遣る優しさに心が絆されかけていた。
(あの二人の間に、今更私の付け入る隙なんて、ないのかな……それに、もう、岸先輩の悲しむ顔も見たくないし……)
「はあ……」
あおいは深い溜め息をつきながら、プールサイドのベンチへと腰を下ろし一人空を仰ぐ。
自分の曇り始めた今日の心模様とは裏腹に、そこには澄み渡る青が広がっていた。あおいは司郎と出会った頃のことを思い返していた。
高校に入学し、水泳部に入部届を出しに行った三ヶ月前――
水泳部入部希望の中学から一緒の友達と二人で部室棟まで来たあおいたちはその部室の多さから道に迷ってしまっていた。そんな時背後から声が掛けられた。
「ん? どうした? 迷子か?」
そこにいたのは学ランの前ボタンを開けラフに着ている背の高い男子だった。
少し目尻が垂れて黒髪の短髪をツンツンに散らした人当たり良さそうな顔。
だが、あおいは迷子という言葉に少しカチンときてつい反対の反応をしてしまう。
「いえ、迷ってません。水泳部の部室に行くとこなんで」
少し吊り目がちの瞳を更に尖らせあおいはピシャリと言い放つ。隣の友人があわあわとそのあおいの態度に少し取り乱す。
「水泳部!? なんだ新入部員か! なら一緒に行こうぜ!」
その男子生徒はあおいの態度に顔色一つ変えず相変わらずの人懐こそうな笑顔を向ける。
あおいは予想外の彼の言葉に少し警戒しながらも、先へと歩き出したその背中に小走りに付いていくことにした。
「俺は二年の桃田。お前らは?」
桃田というその男子が振り返り後に付いて来たあおいたちに声を掛ける。あおいは友人と顔を見合わせた後、仕方なさげに答えた。
「…一年の鬼頭です」
「あ! 同じく一年の佐久間です!」
「鬼頭と佐久間ね。中学も水泳やってたの?」
桃田と言った一つ上の男子生徒は前を向き歩きながら声を掛けてくる。
「わ、私は本格的にやったことはなくて、あ! でもあおいちゃんは中学でもすごかったんですよ!?」
友人のその言葉に余計なことを言うなと言わんばかりにあおいはすかさず口を挟んだ。
「由紀ちゃん! ……こほん。あたしは、中学でも水泳やってました…」
一つ咳払いをして、片目を瞑りながらあおいは小さく答える。その言葉に気をよくしたのか桃田は満面の笑みを二人に向ける。
「そっか! 水泳はどんな泳ぎ方しても楽しいよな! 速い遅い、上手い下手とか、関係なくさ! これからも楽しんでな!?」
その笑顔にあおいの方が何故か照れてしまう。自分の頬が赤くなっていることに気付けないほど、今のあおいには余裕がなくなっていた。
「ここが水泳部の女子棟! プールは室内のデカいのが一つ。レーンを分けて男子と女子、合同で使ってる。城之内部長いっかな?」
桃田こと司郎が、一つの部室の前で止まりこちらに振り向く。
「ここまでで大丈夫です。あ、あの……」
あおいが上目遣いに口籠っていると隣の由紀が先に礼を述べた。
「ありがとう御座いました、桃田先輩!」
その勢いに釣られてあおいも素直に言葉が出てしまう。
「ありがとう、御座いました!」
「おう! じゃ、俺こっちだから。反対側が男子棟ね?」
そう言いながら司郎は笑顔で片手を軽く振り、男子水泳部の部室へと消えていった。
「親切な先輩だったね、あおいちゃん」
由紀が隣で瞳を輝かせながら部室へと消えた先輩の背中の残像を追っている。
「…う、うん……」
未だ自分の心に芽生え始めた感情には気付かずあおいも由紀と同じように男子水泳部の部室のドアを少し高鳴る胸に手を当て見つめていた――
(…それから、先輩を見かける度、話をする度、その朗らかな人柄に触れて、あたしの心は……)
空に想いを馳せていたそんなあおいに後ろから声をかける人物がいた。
「あおいさーん!」
聞き覚えのある声にあおいが振り向くと、そこには息を弾ませ駆け寄る爽風の姿があった。
「岸先輩ッ!? どうして?」
「追いかけて来ちゃった。迷惑だった?」
あおいの座るベンチの前で爽風は息を整えながら答える。
あおいは戸惑いながらも小さく首を振った。
「……いえ、全然」
あおいの言葉に安堵した爽風が優しい顔であおいに微笑みかける。
「よかった」
あおいも爽風に微笑み返すが、その笑顔がどこかぎこちない。
「あおいさん、隣座っていい?」
爽風がそう尋ねると、あおいは無言でベンチの片側に寄る。
爽風はあおいの隣に腰掛けると、少しの沈黙の後あおいが口を開く。
「あの……岸先輩」
「なあに?」
あおいは爽風に向き直り、真剣な眼差しで見つめると意を決したように口を開いた。
「……桃田先輩のこと……どう想ってるんですか?」
爽風はそんな質問が来ることは分かっていたかのように、穏やかな顔であおいに微笑みかける。
「司郎くんのこと?」
「……はい」
あおいは爽風から視線を外さずゆっくりと頷く。
そんなあおいを微笑ましく思いながらも爽風は真剣な表情で口を開いた。
「好きよ。一人の、男性として…」
あおいの胸がズキンと痛む。だが爽風の眼差しはあおいを捉えて離さない。
「……そう、ですか……」
あおいは俯き加減に視線を落とし、小さく呟く。そして、隣の爽風にすら聴き取れないくらい小さな声で
「……あたしも、好きなんです……」
と呟いた。
「そうね……」
爽風はそんなあおいを優しげな眼差しで見つめながら相槌を打つ。
そんな視線に耐えられず、あおいは俯き加減にもう一度小さく呟く。
「岸先輩が桃田先輩のことを想っているように……」
「……うん」
爽風は穏やかな顔であおいの言葉に頷き返すと、今度は爽風が口を開く。
「私は司郎くんのことが好きだけど……あおいさんの気持ちも分かるわ」
あおいがゆっくりと爽風に顔を向け、少し上体を起こした。
「え?」
不安気に訊くあおいに優しく笑いかける。
「うん」
あおいは少し安心して顔を俯かせた後、爽風を見据えた。爽風はそれを穏やかな笑みを湛えた顔で返す。
「あおいさん、私達ってお互いに司郎くんのことを見てきて、憧れて、考えるようになって……同じだと思うの。ただ司郎くんが先に私に気付いてくれたってだけで……」
あおいは爽風のその言葉に、司郎が爽風に告白した時のことを思い出していた。
「もし、司郎くんが先にあおいさんと出会ってたら、あおいさんが司郎くんの彼女になってたと思う」
あおいは爽風の言葉を黙って聴いている。
「彼、自分では気付いていないようだけど、物凄く鈍感で単純でしょ? あおいさんみたいな可愛くてスタイルのいい子にアプローチされたらイチコロだと思うの」
爽風は少しおどけた様子で笑って見せる。
「そんなこと……」
あおいは爽風の言葉に少し照れて俯く。
「だから、ごめんなさいあおいさん。あなたの気持ちが分かってて尚、私は今の自分と先に出会ってくれた偶然に感謝してしまうの……こんなことをあなたに向かって、言ってしまうの……」
気付くと爽風の顔には苦悶の表情が浮かんでいた。
「…いえ、岸先輩は何も悪くないです」
あおいは爽風に向き直り、ハッキリと爽風を見据える。
「あたし、今日、岸先輩から桃田先輩を横取りしたくて、付いて来たんです……でも…」
あおいは爽風から視線を外し、プールサイドを行き交う人々を眺める。そして少しの沈黙の後あおいが口を開く。
「……あたしじゃ……桃田先輩の横に立つには相応しくないなって……」
爽風はそんなあおいを黙って見つめている。
「岸先輩みたいに、優しくないし、気が利かないし、胸が大きいだけで寸胴だし……」
あおいは自嘲気味に笑いながら爽風に語りかける。
「……」
「桃田先輩の今憧れてる人に遠く及んでいないのが自分でも分かります。今日一緒に遊んで改めて実感しました」
爽風はあおいを真剣な眼差しで見つめながら黙って聞いている。
「岸先輩……桃田先輩のこと、大好きなんですよね……?」
あおいが爽風を見据えながら訊く。
「うん……」
爽風は、あおいの問いに対して小さく頷いて肯定した。
「…先輩の、どんなところが好きなんですか?」
あおいの問い掛けに爽風は少し頬を赤らめながら答えた。
「…優しいところ…」
「はい。他には?」
「素直なところ」
「はい。知ってます」
「純粋なところ」
「純粋、ですか……」
「うん。ちょっと天然入ってるでしょ? だから、そういうところも可愛いの…」
あおいは爽風の言葉に少し引っ掛かるものを感じたが、あまり深く考えないように努めた。
「それと、困ってる人を見過ごせないところ。裏表がないところ。嘘が苦手なところ。身長が高いところ。体つきがガッチリしてるところ。顔も格好いい。でも笑うと可愛いところ。笑顔が爽やかで素敵なところ。あと――」
爽風の止まらない惚気に少し毒気を当てられたあおいは
「分かりましたから! もう十分です!」
と爽風に制止を促す。爽風は最後にあおいに向かって微笑みこう付け足す。
「――真っ直ぐなところ」
あおいは優しく苦笑してみせ
「あはは! 岸先輩、筋金入りの先輩オタクですね!」
と爽風に返す。爽風はそんなあおいを見てクスッと笑いながら答える。
「うん。そうなのかも」
あおいの胸がズキンと痛む。だが、爽風の心からの言葉だと分かるからこそ、あおいも自然と笑顔になる。
「…岸先輩」
「なあに?」
「岸先輩が桃田先輩のこと大好きだっていう気持ち、伝わりました。正直、あたしはそこまで恋愛について深く考えていなかったかも知れません……」
あおいが爽風に向き直り、真剣な眼差しで見つめる。
「だから、桃田先輩には岸先輩が――」
「あおいさん」
あおいが爽風の言葉を遮って話し出す。
「私、思うんだけど、好きという気持ちにわざわざ優劣を付ける必要はないと思うの……私は今まで男の子とお付き合いしたことないし、好きになったことも初めてで、まだまだ手探り状態……こんな私に、誰かの好意を退けてまで司郎くんを好きって言っていいのか、正直分からない……」
あおいは爽風の告白に驚きながらも黙って耳を傾ける。
「でも、今の私のこの気持ちは紛れもなく司郎くんが好きと言ってるの。この先付き合っていく間にどんな心変わりがあるか分からない……そのことを考えると、とても怖いし、不安になる……」
爽風の眼差しが熱を帯びる。
「だから、あおいさんの司郎くんを好きだという気持ちも一緒に預かって、私はこれからも司郎くんを好きでいようと思うの」
あおいは爽風の言葉に衝撃を受けていた。
「それって結局、“私が一番彼のことを好きですー、誰にも渡しませーん”って言ってるのと同じ、ですよね?」
爽風はそんなあおいを少し照れた微笑みで見つめ返し、優しい口調で言う。
「そう、なのかな…」
その爽風のはにかんだ幸せそうな表情から、あおいはそれ以上何も言うことが出来なくなっていた。