EP1-1:クモリキンパツ
水飛沫があがり、夏の陽に照らされた水滴の一つ一つが、まるで硝子細工のような透明できらびやかな彩色を乱反射させる。
情緒豊かな人が見たら「綺麗だ」と感動でもしようなものだが、俺の目にはその輝きは届かず、心すら揺さぶられることもなかった。
プールサイドで左肩から三角巾を垂らし座り込んでいる俺には、部活の喧騒すら、どこか遠くで起きている出来事のように思えてくる。
見上げる空は雲一つなく澄み渡っていて見事な快晴だ。だけど何故だか今の俺にはそんな青空さえ憎らしく思えてきてしまう始末。
要するに俺は、どう足掻いてもまだまだ未熟なガキなのだ。
午後五時のチャイムが部活終了の合図を報せてくれる。
俺は左腕を庇うようにゆっくりと左脚に体重を預けながら立ち上がる。
続々とプールに入っていた奴らが上がってきて、俺の前を通り過ぎる度に声を掛けていく。それを俺は適当に「おつかれー」と返していく。
「よう司郎! 今日の帰りどこか寄ってくか?」
中学からの友人、芳樹が屈託のない笑顔で声を掛けてきた。
「……いや、今日はやめておく。期末の勉強もあるしな」
俺は少し考えた後、そう答えた。
芳樹はそんな俺の返答に少し不満げな表情を浮かべるが、すぐにいつもの笑顔に戻り、「そうか、じゃあまたな」とだけ言って他の奴らと一緒に更衣室へと向かっていった。
そんな芳樹の背中を見ながら、俺は小さく溜息を吐く。
悪いな芳樹。今日もどうしてもそんな気分にはなれないんだ…
俺はテーピングで固められた左腕へ視線を落とし、プールの出口へと向かい歩き始めた。
その途中で、女子部員の集団とすれ違う。その際、一瞬だが動揺して道を開けようと右に重心を移動したのが悪かった。
俺は体勢を崩し、左腕を庇うようにして右膝からプールサイドに崩れ落ちた。
「大丈夫桃田!?」
「怪我しなかった?」
「いや、もう怪我してるっしょ!」
「それな〜。早くよくなってね?」
俺は「わりー、大丈夫」と言いながら直ぐに起き上がろうとした。そうこうしている内に女子の集団は賑やかな声と共に更衣室へと姿を消した。
笑われても誂われても、今の俺じゃ仕方がない、と自分に言い聞かし右腕に力を込め床を押し立ち上がろうとする。
すると突然、俺の目の前に誰かの手が差し出された。
「はい」
水着姿の女子が俺に目線を合わせるように、膝を屈んで手を差し伸べてくれている。
水泳帽を浅めに被った、目の細い女子―― 同じクラスの、岸だ。
背は低いが落ち着いた声色のせいか、他の女子よりは少し大人びている印象を受ける。
俺は戸惑いながら岸のその手を取り、礼を言う。
「ありがとな、岸」
しかし彼女は何も言わず、俺を起こすとそのまま足早に去っていった。
俺はその背中を少し目で追った後、視線を自分の手元へと戻す。そして少しの間、呆然とその場に立ち尽くしていた。
何やってんだろうな、俺……
よれた左腕の三角巾を直し、俺は一人のそのそと出口へと歩いていくのだった。
俺の名前は桃田司郎。
高校二年、水泳部所属……一応。
中学からスポーツ推薦でこの高校に入ったが、今年の春大後に左腕の靭帯を断裂した。
医者からは半年は安静と言われ、今はリハビリをしながら日々過ぎゆく時間を苦痛に思う毎日だ。
そんな俺が部活に顔を出し続けているのには理由があった。
俺にはどうしてももう一度成し遂げたいことがある。それは、大会での記録更新とか、そんな高尚なものじゃない。
俺はただ、もう一度泳げるようになりたかった。
少しでもプールから遠ざかってしまえば、俺はもう二度と泳げなくなる、そんな気がしていた。
だから変な目で見られようが、何と言われようが、俺は毎日プールサイドから皆の練習風景を眺めていた。
そこが、俺の居場所だと言わんばかりに。
だけど次第に、水飛沫の輝きを見ても感動出来ないほどに、俺の視界と心から、色は失われかけていた……
次の日も俺はプールサイドに居座り、部活が終わる時間まで空虚な一時を過ごす。
「なあ桃田、前にも言ったが、しっかり休んでリハビリに専念するのもいいんじゃないか?」
顧問のバッシーが既に聞き飽きた言葉を俺に投げ掛けてくる。そんな時の俺の返しもいつも決まっていた。
「どうも板橋先生。でもリハならちゃんとやってますよ。通院回数も減って自宅療養っす」
素っ気ない俺の返しに、バッシーもそれ以上声を掛けられなくなってしまう。
生徒思いの良い先生なんだと思う。素直に言えないのは俺がガキなだけなんで済みません。俺は心の中でバッシーに申し訳ないと頭を下げた。
チャイムが鳴り、今日も一人、また一人と部員が去っていく。
部員達が居なくなったプールサイドで俺は未だ立ち上る水飛沫を何とは無しに眺めていた。
「おーい! 岸! 終わりだ、支度して帰れー」
バッシーが未だ泳いでいた人物、岸に向かって声を掛ける。
それが聞こえたのか、水面から顔を出した岸は
「あと一本だけ! お願いします!」
と、珍しく大きな声で言ってきた。
普段からボソボソっと喋る印象のあった岸が割りと張りのある声を出している。
そんなに泳ぎたいのか……
俺はそこでようやく岸に視線を合わせた。最近では誰が泳いでいてもほとんど気に留めなくなってしまっていたから、こうして誰かの泳ぎを注視するのは久し振りかも知れない。
岸がスタート台に上がり、構えを取る。その顔は真剣ではあったが、どこか違和感を覚えた。何故そう感じたのかは分からなかったが――
岸が飛び込み、クロールを泳ぎ始めた。
やはり何かが違う……何が?
その違和感の答えが直ぐには出せず、俺は岸の動きを目で追いながら考えた。
表情……
岸が息継ぎをする時に一瞬見せる顔が、俺には何故か悲しげに見えた。呼吸苦による苦しい顔とはまた違う。まるであれは……
岸がゴールする。そこでようやく俺は岸の表情の意味に一つの憶測が立った。
こいつ……泣いてんのか?
岸の全身は水に濡れていた。今まで泳いでいたのだから当たり前だ。顔だって濡れている。
それなのに、なんで俺は“泣いている”と思ったのだろう?
ただ泳いでいただけの岸に感じた違和感。真相は定かではないが、俺は何故か胸の奥を抉られたような感覚を覚えた。
何故だ……
俺は思わずプールサイドから降りて岸の元へと歩み寄る。しかし何を言うのかなんて決めていない。
そうこうしているうちにバッシーがこちらに気付き声を掛けてきた。
「よーし、一本終了だ。帰るぞー!」
その声で我に返ったように岸が慌てて顔を拭い、俺と目を合わせないまま無言で更衣室へと向かっていった。
俺は、何を言おうとしたんだ?
岸に感じた違和感の答えが出せないまま、俺もまた自分のロッカーへと向かったのだった。
更衣室へ行っても、着替えをする必要のない俺は自分の荷物だけ持って外へ出る。
夏至を過ぎ、陽も段々と短くなってきてはいたがまだまだ明るい。灯り始めた周囲の街灯からは虫の声が聞こえてくる。
そんな時、突然後ろから足音が聞こえた。
振り向くと、そこには岸が一人歩いて来ていた。
部活の時とは違って背中まで下ろしたまだ少し濡れた黒髪が妙に艶っぽく見えてしまう。
その細い身体を薄い夏服と短いスカートが覆っているだけのクラスメイトがそこにいる。
俺の心臓がドキリと跳ねる。
しかしそんな動揺を表に出すまいと、俺は平静を装った。
「よう。岸も帰りか?」
岸は無言のままだった。俺は構わず続ける。
突然話し掛けて、驚かせてしまっただろうか?
そんな心配を余所に岸は俯いたまま俺の前を歩いている。
暫く続いた無言の時間の後、ついに意を決したように岸が口を開く。
その横顔は何か決意に満ちていた。そして、絞り出すように次の言葉を吐き出したのだった。
それは俺にとって予想だにしない言葉だった……
「その金髪、似合ってないよ」