四十七話 たった一言
どうしよう……!
どうしよう、どうしよう、どうしよう……!
少女・ヒスイは走りながら泣いていた。
あまりにも恐ろしい事態に、既に逃げ出したい気持ちで心はいっぱいだ。
こんなことになるなんて思わなかった。
もっと上手く事が運ぶんだと思ってた。
私はそうしたら、やっと解放されるんだと、そう思ってた。
思ってたのに……。
暫く走って、ヒスイはそっと足を止める。
いつの間にか降っていた雨が、彼女の髪を、衣服を、徐々に徐々にと濡らしていく。
「……もう、つかれた」
ポツリと零し、彼女は空を見上げた。
薄暗い、曇った空。そこから降る雨は、まるでそう、自身の心の中を表すよう。
ヒスイは懐を探り、そこから一つの、小さな刃物を取り出した。そして、ソレをそっと喉元へ。キラリと輝く鋭利なその刃先を突きつけ、目を閉じる。
「ヒスイはね! 将来素敵なお姫様になるの!」
思い出すのは、過去のこと。
ずっとずっと昔のこと。
まだきっと、正常であった頃のこと。
少女は優しい両親に囲まれながら、お姫様と王子様が仲睦まじく結ばれる絵本を読んでいた。その絵本はキラキラしてて、楽しいがいっぱいで、少女はいつもその絵本を読んでと強請った。
優しい両親は小さな少女を膝に抱え、笑顔で絵本を読んでくれた。少女はその時間が、とても、とても好きだった。
なのに、なのに、なのに──……
「信ずる者は救われる。さあ、わたくしの声に耳を傾けて。そうすれば、あなた方を縛る苦しみは無くなっていくことでしょう」
突如現れた教祖に、支配された家族。奪われた幸せは、もう二度と元には戻らない。
「……死こそ救い……死こそ救済……」
ぽつりぽつり。
紡ぐヒスイはその目尻に涙を溜める。
「死こそ、万物に与えられし極上の宝……」
グッと、少女は目を閉じる。
そして、力任せに刃物を動かそうとした、その時だ。
「おーおー、ガキがこんな所でいっちょ前に自殺行為か?」
ふと声がして目を開ければ、そこには短い茶の髪を持つ男性がひとり。オレンジと緑の混じる不思議な瞳をヒスイに向けながら、吸いかけのタバコを口にくわえて立っていた。
その頭の上には薄い水の色の髪を持つ球体人形が一体。カチカチと音をたてながら乗っかっている。
「……あなた、たちは……」
カラカラの声で問いかける。それに、カチリと音を鳴らし、人形が応えた。
「ワタクシは組織レヴェイユ特別班、隊長のリアミカ。こちらは副隊長のトモ様と申します」
「……レヴェイユ」
「組織レヴェイユ潜入班隊長、シー様より、同じく潜入班所属・ヒスイ様の御身を安全に保護せよと仰せつかっております。人違いでなければ、速やかに保護させてもらいたいのですが、よろしいでしょうか?」
淡々とした物言いの人形に、ヒスイはグッと奥歯を噛んだ。そして、握っていた刃物を突きつけるように、鋭い刃先をふたりに向ける。
「私が、私がどんな奴か知っててそんなこと言ってるわけ!? 何も知らないくせに、何も知らないくせに簡単に保護なんて言わないでよッ!!」
「何キレてんのこわ」
後ろ頭を器用に掻きながら、トモたる男は言葉を紡ぐ。
「てか、どんな奴かなんてどうでもいいだろ。シーの奴が俺らに頭下げてまでおたくの保護を願ったんだ。んなら、ダチとしてその願いを叶えてやるしかねえわけよ」
「口から出まかせを!! あの人がそんな事するはずない!! だってあの人は知ってたに決まってる!! 私がスパイだってこと!! 私がアジェラの幹部だってこと!! 知ってて、あの人は私を泳がせたんでしょ!?」
「いやそこら辺俺らはよく知らねえんだけどよ」
ボリボリと頭を掻きながら、トモは頭の上のリアミカに目を向ける。その視線を受けたリアミカはトモの頭からふわりと降りて地面の上へ。濡れたそこで軽やかにお辞儀をすると、「ヒスイ様の意思を最優先いたします」と静かに告げた。ヒスイは目を見開き、トモがあーあ、と言いたげな表情でよそを向く。
「ヒスイ様が拒否するのであれば、我々は無理にあなた様を保護することは致しません。しかし、あなた様がもし保護を願い出るのであれば、我々は速やかにあなた様を守る体制をとらせていただきます」
「なに、いって……」
「お決め下さい、ヒスイ様。救いを求める魚のまま泳ぎ続けるか、泳ぐのを止めて助けを求めるか……」
「……」
ヒスイは震える瞳でリアミカを、そしてトモを見た。浅く、何度も何度も、小さな呼吸を繰り返しながら。
助けて欲しい。
救済を。
救ってほしい。
万物に死を。
もう大丈夫だと、安心させてほしい。
死こそ救いであるからこそ。
もう良いんだと、止めてほしい。
世界に終焉を齎すべきだ。
入り混じるふたつの感情。交差する思い。
アジェラに縛られた哀れなる少女は、あまりにも悲痛な声をあげるとその場でドシャリと膝を着く。
「私は逃げられないっ、どうにもならないのっ! お父さんもお母さんも、もう戻らないのっ! みんなみんなおかしくなって、私ももう狂ってて、どうしようもないから、だから、だから──ッ」
「んじゃ助けてって言えばよくねえか?」
あっけらかんと告げたトモに、ヒスイは涙の滲む目を向けた。ややポカンと己を見る小さな少女に、トモはタバコを吹かしながら「自分じゃどうにも出来ねえんだろ?」と静かに問う。
「なら、助けてほしいって言えば良いじゃねえか。たったそれだけのことを言えばいいじゃねえか。それすらしねえでどうにもならない、は……ちとおかしいだろよ」
「……だっ、て……わたし……」
「あー、ウジウジうぜえな! だってもクソもねえんだよ! 助けてほしいなら助けてほしいって言え! 逆なら何も言うな! 見てるこっちがイライラしてくるわ!」
「……」
そっと俯くヒスイの耳に、静かな足音が背後より届いた。ゆっくりと振り返れば、そこには前髪の長い、ふわっとした黒髪の男性がひとり。傘を持って立っていた。
ヒスイの瞳に、思わず涙が溜まる。それを視界、傘を差し出した男は、座り込むヒスイの目線に合わせるように膝を折り、口元に笑みを浮かべた。そして、差し出したままの傘を彼女の手に取らせ、「まだ怖いか?」と一言。
「でも安心せえ。なんてったって、俺ら強いしな?」
「……おるうぇる、さ……」
「俺らがおる。レヴェイユがおる。ヒスイが望むなら、まだ俺らは仲間で味方や。怖いことなんてなーんもあらへんよ」
「……」
ボロボロと涙を流すヒスイ。彼女は開きっぱなしの傘を握りしめると、小さな声で「たすけてください」を口にした。震えるそれは、とてもとても辛そうだ。
「おん。任しとき」
言ってヒスイの頭を一度撫で、男・オルウェルはトモとリアミカの方へ。「ヒスイんことは任せてええんか?」と静かに訊ねる。
「俺は教祖に会えるかもしれねえならそっち行くぞ。アイツにはちいとばかし用があるんでな」
「さよか。ほなリアミカ、あと頼んでええか?」
「はい。構いません」
「おおきに」
告げたオルウェルは、腰元にある刃物の柄に片手を当てると、「行くで」とさっさか歩き出す。
それを追いかけるトモを見送り、リアミカはヒスイの傍へ。嘆く彼女に懐から取り出したハンカチを渡しながら、「我々は待機ですね」と、そう言った。




