3年生(2回目) その96 喧嘩
96 喧嘩
手続きを済ませてから、王子宮の応接室に通されるまで、授業1時限分の時間を要したが、セーラとバースは扉の前まで来ていた。
「何があっても、どうにかするから。」
「ありがとうございます。」
そう言葉を交わして女生徒が応接室へと入って行った。
並んでソファーに腰掛けている銀髪の双子の正面に招かれたセーラは、軽く頭を下げてから着席した。エメラルドグリーンの美しい瞳に映っている公女の視線が少し下がったのを確認したフェリクスは、暴行に対する謝罪を待った。
公女の謝罪を受けてから、自身の非礼を深く詫びた上で、償いとして何らかの贈り物をするという手順の中で、どれだけ自身の悪印象を払拭するかが、彼の今の使命であり、決して簡単な事ではないと自覚していた。姉に指摘されるまでもなく、軽率な行為をしたのは自身であり、今回の事案における責任は10割が自分である事は分かっていた。
ただ、王子への暴行だけは、愚行を実施した男子生徒の責任とは切り離されて処理する必要があった。これが、叱責や罵倒を受けたというのであれば、責任のある側が深く頭を下げるだけで終わっていた。
「・・・・・・。」
赤い瞳の女性の表情を観察すると、先程の怒りを纏ったものではなく、明らかに冷静に見えた。冷静さを取り戻した公女も、国際関係を理解して、先に頭を下げる事は分かっているはずだが、責任がフェリクスにあるのだから、形式的であっても頭を下げる事に躊躇いがあるのかもしれないと、フェリクスはもう少し待とうと判断した。
3分間の沈黙が続いた。
王子は、姉の方に視線を向けると、困っている表情をしているのに気付いた。それは、姉の構想が崩壊していることを暗示していた。そして、その双子の様子を見たセーラは、王子が先に謝罪する意思がないと悟った。
「フェリクス殿下は、私に対する無礼を謝罪されるお気持ちはないのですね。」
いつもの穏やかさが全くない声と口調で言葉を発したセーラには、何か譲れない事があり、それは女性の尊厳に関係する何かであろう事まではビアンカにも分かるが、詳細までは分からなかった。だから、ここで自分が仲裁をするというカードを残すために、何も言えなかった。
「謝罪する気持ちはあるが。セーラ嬢には先に言うべき事があるのではないか。」
「!」
本筋が通用しなくなった時点で、新しい計画を構築しなければならなくなったのに、弟は本筋のまま話を進めてしまった。極当たり前の流れだから、そうする事は仕方がないが、その当たり前の本筋を認めていない相手に対しては悪手であり、しかも状況を悪化する可能性が高い筋であった。
「私が先に謝罪する必要があるのですか。無礼な事をしたのは、殿下の方です。」
「な・・・。いや、ここは、セーラ嬢が先に。」
「どうして、私が先に謝罪する必要があるのですか。殿下が、あのような無礼をされなければ。」
「無礼はした。いや、正確に言えば、しようとしていた。だが、その前に止められたのだ。セーラ嬢の髪は触っていない。」
一言だけ、先に言ってくれれば、フェレール国の面目は守られて、後はフェリクスと言う愚かな男子がひたすら謝罪をする筋へと進む事ができた。だから、その着地点へと導こうとする言葉を紡いでいった。
「未遂であれば、謝罪の必要はないという事ですか。」
「そんな事は言っていない。私が謝罪をしなければならないのは当然だ。だが、セーラ嬢には、先に私を叩いた件を謝罪してもらいたいのだ。」
庶民の生活や風俗を全く知らない王子や王女は、セーラが何を拒絶しているのかを理解できなかった。そして、その事を説明しなければ理解してもらえない事を、公女は良く知っていたが、半ば実母を貶めるような言葉を使って、2人に説明することはできなかった。
「殿下は、無礼に対する当然の対価を得ただけです。それが行きすぎだと言うのであれば、殿下の謝罪の後に、行き過ぎた点を私も謝罪します。」
すでに、両者が非難される行為をした以上、先後に関係なく、謝罪すべき点を持っていた。結果として、2人は謝罪しなければならなかったが、その順番はお互いが重要だと考えた。
フェリクスとしては、一国の王子としての面子を守るためにも、両国の友好関係を壊さないためにも、フェレール国への配慮を求めていた。そして、先に謝罪をしてもらえば、その後にフェリクスが行う謝罪が大げさなものになっても、贈り物で謝意を表す事になっても何の問題もなかった。だが、セーラからの謝罪の前に、フェリクスが謝罪をして、贈り物をすると、それはフェレール国が謝罪を引き出すのに、貢物を捧げたという形ができてしまう。そして、その事をきっかけに両国の関係が悪化する事も考えられた。
一方のセーラも順番を譲れない理由を自分の中で持っていたため、引き下がる事はできなかった。
「セーラ嬢、両国のために。」
「国の友好を損なうような事をなされたのは殿下の方です。無断で女性の髪を、しかも、背後から触れようとする。それがフェレール国のやり方ですか。」
国と言う言葉が出てきた瞬間、両国の国境の町の食堂で働き、美しい母の姿を見つめてきたセーラには、楽しい思い出だけでなく、嫌な思い出もあった。その中には、売春酒場と勘違いしたフェレール国の商人が、ミーナの体に触れようとした時に、大騒ぎになったものもあった。
「我が国を侮辱する事は許さない。今の言葉は撤回してもらおう。」
「国を代表する殿下が、そういう行為をしようとしたと言っただけです。撤回を求める前に、自分の行動を反省すべきではないのですか。」
冷静ではない事を自覚しても、セーラは抑える事ができなかった。売春食堂での交渉方法の1つに、髪や胸などの体を触わる、触らせるというものがあった。セーラは、そういった事を良く知っていた。そして、そういう事をしないように、されないようにと、ミーナやおばさんから教育を受けてきた。
そして、公女である自分に対して、売春を要求する行為がなされた時、それは巷で売春婦と噂されるミーナの娘だから、そういう行為をしても良いのだと思われているのだとしか考えられなかった。セーラ自身への侮辱だけではなく、鬼籍の中で何も言えない実母への侮辱だと感じるから、セーラ自身は抑制する事ができなかった。
「私は反省すべきだが。フェレール国は違う。」
「どう違うと言うのですか。殿下は、フェレール国で学び、育ったのでしょう。そのような国だと思われても仕方がないではありませんか。」
「我が国へ侮辱は許さない!!」
ソファーから立ち上がった王子は、明らかにセーラを威圧しようとしていた。全身から溢れ出す怒りを、公女に叩きつけた。自身は駄目王子で、フェレール国にも国家として様々な問題を抱えてはいたが、王子として愛国心は持っていたし、国という単位で考えれば、その長い歴史を侮辱される謂れはなかった。
そして、公女の方も、侮辱を許さないという言葉を聞いて、冷静さを完全に失った。つり目気味の公女の表情が今まで見た事もないものに変化した瞬間、それを見ていたビアンカは、口を挟んだ。
「セーラ、私達が。」
「姉さんは黙っていて!セーラが私の事を侮辱するのは当然だけど、フェレール国への侮辱は許せない。」
自分を見上げながら、鋭い視線と気迫を向けてくる女戦士に対して、引き下がってはいけないとフェリクスは考えていた。
「私は侮辱などしていません。事実を言っているだけです。侮辱したのは殿下です。そうやって、威圧すれば、女性が言う事を聞くとでも思っているのですか。」
権力ではなかったが、財力を示して母親を威圧して、征服しようとした男は何人かいた。そして、いつも食堂経営のおじさんとおばさんが守ってくれた。その光景が今と重なった。
「威圧なんかしていないだろ!」
「フェリクス、もうやめて!」
隣にいる姉が立ち上がって、フェリクスの左手を掴もうとした。姉の動きを手で払いのけて制した瞬間、ビアンカは再びソファーに座る事になった。誰も傷ついていなかったが、赤髪赤目の公女には、姉に対する暴力行為に思えた。
「!」
「ぐっ。」
「手を上げるなんて。」
テーブルに乗り上がったセーラは、フェリクスの左手首を右手で掴んでいた。
「無礼者、放せ!」
「ビアンカ殿下に手を上げるなんて。」
「バース先生、ジャック、入室を許可します。2人を止めて!」
応接室の扉が開くと、教師としての礼服姿の元近衛騎士団長と鎧姿の護衛騎士が飛び込んできた。王子と公女が殴り合いでもしているかと思ったが、睨み合いながら、お互いに相手を口撃し続けるだけで、怪我につながるような事は無かった事には安心したが、状況が悪い方向にしか進んでいないことを、2人の保護者達は嘆いた。。
双子殿下、第2公女、担任、護衛騎士の5人は、王城の西部にある近衛騎士の住居区画にある訓練場に立っていた。
「負けを認めた方が、先に謝罪する。両者ともいいな。」
理屈ではない喧嘩に発展している状況に介入した担任は、元近衛騎士団長の経験から、単純で分かりやすい武力比べでの決着を提案した。そして、有無を言わせぬ気迫で、決着の場を作った。
「はい。」
「はい。」
スカートでは動きにくいという事で、黒のズボンに履き替えたセーラは黒の布で背中まで伸びている赤髪を1つにまとめた。無造作に右手で握りしめている訓練用の木剣を持った公女は、全く怒りの感情を持たない表情で対戦相手をじっと見つめていた。
素材の美しさを全く無視した制服の上着と黒い訓練用のズボンの組み合わせに加えて、赤い髪を隠すように黒い布で髪束を作っているセーラは、格好良さは持っていたが、公女としての美を完全に失っていた。
一方のフェリクスは学園の制服のまま木剣を握りしめて、怪我をさせてはいけないと自分自身に注意を促していた。この時、フェリクスは公女セーラの実力を全く知らなかった。公女が先のモーズリー高原の戦役で活躍したという話はもちろん聞いていた。直接本人から聞いた訳ではなく、公女を褒める騎士達の言葉や町で流れる噂話として聞いていたため、初めての戦場で大活躍する話が、他の噂話と同様に信憑性のないものであると考えていた。
娘を愛する公爵夫妻が、娘の武名を上げるために功績を手にしたという話を作り出しているのだと本気で考えていた。セーラの武功がゼロだとはフェリクスも思っていなかったが、王都内で集めたセーラの武功の話は、未成年の公女が実力で手に入れたというには、信じがたい程に大きかった。
フェリクスも訓練を真剣に行うようになり、真に強くなる事の難しさを体験していた。だから、3年間の訓練だけで、話に聞く武功を上げるだけの強さをセーラが手に入れる事ができないと信じる事ができた。
弓術については、そのコツを身に着ければ急激に上手になるという話を聞いていたため、彼女が弓術で手に入れた武功を疑うことはなかった。しかし、ドミニオン国の五傑の1人と互角に戦ったという話は信じられなかったし、話を盛るにしても、信じられるようなレベルにするべきであると、公爵夫妻に忠言したくなっていた。
セーラの真の実力を知っているバース先生が、この混乱を収める機会を与えてくれたことに感謝しながら、第3王子は木剣を強く握りしめて、彼の合図を待った。
「では、はじめ!」
その言葉と共に踏み込みながら木剣を振り下ろした王子は、自分の目の前に突きつけられた剣先に驚いた。手加減をしているとはいえ、軽い木剣の速さを考えると、公女の選択は木剣で攻撃を受け止める一択のはずであるのに、攻撃が躱された。
後方に飛び跳ねるようにして間合いを取ってから、フェリクスは全力でセーラに飛び込んで行った。セーラの左肩を狙った斜め縦切りは、再び空を切ると、フェリクスの目の前にはいつの間にか、木剣の剣先があった。
「敗北を認めるか?」
「まだだ。」
間合いを取ってからの横払いが空を切って、木剣が突き付けられた。
間合いを取っての最速の突きは躱されて、今度は木剣が喉元ギリギリに突き付けられた。
「そこまで!」
敗北を告げる低い声と共に、頬を叩かれた場面、姉の手を振り払った直後に左手首を掴まれた場面を思い出した。あの時、驚愕のあまり自分の動きが完全に止まったから対処できなかったのではなく、公女の動きが速すぎて、全く対応できていなかった。その事に今気付いた。
目の前の公女はじっと赤い瞳をフェリクスに向けていた。何の感情も、気配すら感じさせない姿に恐怖を感じた後、王子は深々と頭を下げた。
「無礼な事をした。ここに謝罪する。2度とこのような事をしないと誓う。」
「謝罪は受け取りました。私も殿下に対して、非礼な事をしてしまいました。お詫び申し上げます。」
セーラが深々と頭を下げてから、その場はしばらく静寂に包まれた。その時間は僅かなものだったが、5人には長い時間に感じられた。ビアンカが声を出そうと口を開いた瞬間、震えた声で、フェリクスが謝罪を受けるとの一言を発した。
その言葉に、セーラは頭を上げるが、フェリクスは頭を下げたまま、震えていた。
「ジャック殿、ビアンカ殿下とセーラ公女を応接室まで警護していってもらえるだろうか。」
「はい。もちろんです。」
「公女が王子宮から出て、学園に戻る時には、護衛が必要だから、その手配もお願いしたい。」
「分かりました。バース殿は・・・。」
「私には教師としての仕事があります。フェリクス殿下の護衛は私がします。」
「しばらくはお願いします。後で、こちらからも護衛騎士を送ります。」
「早くなくていいです。殿下と少し長い話になると思います。」
早朝から始まった騒動は終わった。




