3年生 その77 手配と業務
77 手配と業務
11月16日、王城から戦勝の報が公表されると、王都が祝意に包み込まれた。貴族達の社交シーズンの自粛が終了すると、王都は活気を取り戻した。それを悲しむ者はいなかったが、その陰で激務をこなす者達がいた。
「あの、その、エリック様。これを私が押すんですか。セバスさん。セバスさんが、した方が良いと・・・。」
「アイリス、書類に押すだけだから。」
「でも、この指輪は、公爵様からエリック様に預けられた物で。」
「うん。さっきも説明したように、アイリスは婚約者だから、僕の指示でそれを使う事ができるんだ。お願いだから。」
「は、はい。分かりました。」
方々から届けられる書簡を読んでは、各地への指示を決定して、その指示書を書き起こす仕事に追われているエリックは、セバスチャンに署名と押印の仕事を任せようとしたが、正式に公爵から権限を委譲されていないので、それはできないと言われてしまった。その代わりに、将来の家族であるアイリスになら、その任を命じて代行する事ができるとのアドバイスを受けて、それを実行していた。
「セバス、書庫から、公爵領の去年の財務書類の総覧を持ってきてくれ。あと、ユージンが戻ってきたら、執務室に来るように伝えて。」
「署名と押印が終わりました。」
「アイリス、その書類を、分類して、そこの小さな箱に入れておいて。」
「はい。来週の祝賀パーティーの書類。騎士団への褒賞の配布の書類。これは、公爵領への指示。」
声に出して確認しながら分類を進めるアイリスは、書類に書いてあった父ランドルフが受け取る褒章の額には驚いた。9歳の少女ではあるが、貨幣価値をあまり知らない深窓の令嬢ではなく、庶民上がりの騎士爵夫妻の娘は庶民の暮らしを良く知っていた。父が褒賞として受け取る金貨50枚は、庶民の平均年収で4年分に相当した。騎士爵の騎士団基本給与に換算しても2年分であった。
「エリック様、質問してもよろしいですか。」
「うん。大丈夫だけど。」
「先程の書類に、父の褒賞が金貨50枚とありましたが、本当ですか?」
「本当だけど、多過ぎて信じられないの?それとも少な過ぎて信じられないの?」
「多過ぎると思いました。本当にこんなに頂けるのですか?」
エリックは庶民の金銭感覚を良く理解しているし、王都で庶民と同じレベルの買い物をした経験も多かった。ただ、公爵家が動かす金銭の額や感覚も理解していた。実際に買う事はなかったが、公爵家の経済についても学んできているので、万単位の金貨を動かす事にも何の抵抗もなかった。
妻となるアイリスと全く同じ生活感にする必要がない事は理解しているが、食事の味に関しては同じ感覚が絶対に必要だと思っていた。そして、もう1つ、彼女の金銭感覚の上限を引き上げる事も必要だと考えた。エリックが公爵家を継ぐ訳ではないが、母エリスの持っている伯爵位を譲り受けて、公爵家の分家筋の貴族になるつもりだったから、妻が庶民だけの感覚しか持っていないというのは問題になると考えていた。
「うん。その50枚は、公爵家からの、直属の騎士団への報奨金なんだ。国王陛下が帰城された後にも、100枚ぐらいの褒賞が出ると思う。」
「合わせて、150枚!」
「それと、騎士団から武具を整えるためのお金も出ると思うから。少なくとも150枚だね。」
署名と押印に集中していたから、中身をほとんど見ていなかったが、改めて書類に書き込まれている数字をアイリスは見た。不慣れな算術で公爵家が支払う金額を頭の中で計算してみると、万という算術上でしか使う事がなかった単位を使う必要があった。公爵家の大きさを金銭と言う面で感じたのは、アイリスにとっては初めてであった。
「来週の兵士家族達のためのパーティーで金貨85枚・・・。騎士の皆様が帰還されたら、別にパーティーを行うんですよね。」
「公爵家主催の騎士団のパーティーは確実にするし、国王陛下も王城でパーティーを開催されると思う。大勝利だからね。」
公爵領への指示にも数字が記載されていて、4桁以上の数字しか書いていなかった。その金額に慣れることが、花嫁修業の1つになるとは思ってもみなかったアイリスも、エリックとの時間が増えた事を喜びながら、学校での勉学にも今以上の力を入れるようになった。公子の嫁になる事を覚悟した時に、様々な苦労や乗り越えるべき壁の存在を覚悟していたが、大金を動かし、大金を使う事も覚悟して臨まなければならないのだと知った。
イシュア暦367年11月末、公爵直属の騎士団が王都に帰還してくると、住民たちに歓声で迎えられた。翌日、公爵邸の巨大な玄関大広間で祝宴が行われた。公爵代理であるエリックと婚約者であるアイリスが、ホスト役となった。
「尊い犠牲に哀悼を・・・。皆の奮闘に謝意を・・・。勝利に乾杯。」
紺色の紳士礼服のエリックと、水色の簡素なドレスを身に纏った小さな淑女は、騎士団の隊長クラスの人々の輪に入った。公子エリックが、公爵家の中で一番人気があったのは、時々町を駆ける少年の姿が見られた事と、その実力が隠されているため、公爵家のマスコット的な存在だと見られていたからだった。そして、この日も主役になると思われていたが、戦勝祝宴の主役はアイリスだった。
淑女の礼は美しく、敬語もきちんと使い、騎士の名を1人1人覚えていた。少女から称賛を受けた騎士達は、その何倍もの賞賛を公子の婚約者に返していた。
「褒められるのを見るのは嬉しいが、人の婚約者に対して、馴れ馴れしいのではないか。」
「エリック様、嫉妬は男を下げますよ。」
「嫉妬ではない。」
「むきにならないでも良いのでは。それに、アイリス嬢は、皆に愛されていますから。」
「分かっている。だが、節度と言うものがあるだろう。節度と言うものが。騎士としての。」
「皆様。エリック様を虐めないでくださいませ。日々、皆様のために公務を果たしていますから。」
公爵直属の騎士団の中で、ランドルフ卿は平民上がりの屈強戦士と呼ばれていて、多くの騎士達、騎士候補の者達の目標であった。素朴な人柄も、数々の逸話も騎士達に好まれるものばかりで、愛娘アイリスの誕生直後からは、娘の可愛さ自慢を続ける戦士になった。公爵直属の騎士で、アイリスの顔を知らなくても、その名前と普段の様子を知らない者はいなかった。
直属騎士団でマスコットの地位を得ていたアイリスがエリックと婚約したと聞いた時、大々的なお祝いはしなかったが、酒場での挨拶が2人の婚約を祝うものにはなった。そんな騎士団の娘が、エリックの側に婚約者として、目の前で揃っている光景は、彼らを非常に喜ばせた。元々、公爵直属の騎士団は、公爵と一体化していると評価されていて、それは騎士達の誇りでもあった。そして、アイリスの存在によって、騎士団そのものが公爵家の家族になれたように感じる騎士たちは多く、アイリスという少女は彼らの喜びの象徴になっていた。
11月中に公爵領への指示書簡を送った事で、エリックの急ぎの仕事が終わっていた。12月に入ると、アイリスとゆっくりと過ぎる時間を楽しむ事ができるようになったが、もう1つ公爵代理としてなすべき仕事が残っていた。
「エリック様。」
「セバス、何か。」
「財務官官長のクーガー様が面談を求めて来訪いたしました。」
「クーガー卿が。分かった。2階の応接間に案内してくれ。アイリス、ごめん。大切な用事があると思うから、今日の授業はここまでにしておく。お昼は・・・。ごめん。」
「お気になさらないでください。昼食をいただいたら、今日は帰ります。」
「うん。ちゃんとユージンに送ってもらってね。」
「はい。」
婚約者を自室に残したまま、エリックは応接間へと向かった。財務卿の仕事は書類ばかりで、緊急を要するものはほとんどなかった。国境戦争の出陣に際しても、すでに予算に組み込んである予備費を使うだけで、新たな試算も承認も必要なかった。
戦勝により得られた賠償金の分配は、褒章の趣が強いため、国王が帰還してから、その意向によって作らなければならないのだから、現時点で財務省が処理するべき仕事はなかった。
「待たせました。クーガー卿。」
応接室のソファーから立ち上がった20代後半の男性は深々と一礼した。
「突然、申し訳ありませんでした。エリック様。」
茶色の紳士礼服を纏った財務官は、文官らしく身長も体格も大きなものではなかったが、13歳のエリックに比べると一回りだけ大きかった。威圧感は全くない温和な表情は、前財務卿の薫陶を受けたからか、不信感や拒絶感とは無縁のものだった。
「座ってください。」
「失礼します。」
白いシャツと青のズボンの少年ではあったが、公爵代理の経験を積んだからか、威風堂々とした態度に違和感はなかった。そもそも公爵に似ている公子なのだから、同じ印象を受けるのは当然ではあったが、クーガーは一瞬でエリック公子に飲み込まれていた。
「ご用件は何でしょうか。」
「は。エリック様に財務卿としての仕事をしていただくようにと、ケネット侯爵からの要望がありました。」
「どのような仕事を?」
「はい。侯爵領の決算書類の承認をするようにとのご要望です。」
「書類作成の支援要請ではなくて、承認を、求めてきたのか。」
「はい。」
「承認には、財務卿である公爵の承認が必要で。代理である私にも承認の権限があると、ケネット侯爵が主張した訳か。財務官承認はしたのか。」
「いえ、私の承認はまだです。書類を見ていません。ケネット侯爵は直接、エリック様に提出するとおっしゃっています。」
「はあ。いつも通りの口調に戻すけど、いいですか。」
「はい。意味が通じれば、言葉遣いは私は気にしません。エリック様が上司なのですから。」
「では、遠慮なく。で、これは、ケネット家からの嫌がらせと考えていいのかな?」
「嫌がらせ・・・。嫌がらせの可能性はありますね。ケネット侯爵の付き添いのように、他の3家の領主が同行していました。」
「まとめて書類を出す気なんだな。という事は、税金を安くするための交渉をするつもりだと見ていいのかな?」
「そう言う意図があるのは間違いないでしょう。そうでなければ、ただ書類を提出すればいいだけですから。詳しい話を聞き出そうにも、エリック様と交渉をするとだけ言ったまま、こちらの質問には全く答えてくれませんでした。」
財務官のリーダーであるクーガー官長は若いながらも優秀な行政官であり、前財務卿に育てられた才人であり、事務処理に関して言えば、トップの代替わりが起こってても、しっかりと組織を運営する事ができる実力者であった。だが、子爵家次男であるため、貴族階級的には各地の領主と互角の立場で話をするのは無理だった。
「もしかして、ケネット侯爵は、今も財務省にいるの?」
「はい。」
「そうか、待たせてもいいんだけど。今後の事があるからな。今から僕が行った方がいいと思う?」
「そうしていただければありがたく思います。向こうの話を聞かなければ、宰相にも相談する事ができません。」
「僕が行くと、話の流れによっては、ケネット侯爵家と対立する事にもなるけど。それでもいい?」
「はい。財務側から敵対する気はありませんが、向こうが敵対する気ならば、退くつもりはありません。財務を軽んじる事は、国を軽んじる事と同じです。」
13歳のひ弱で、学園の成績も優秀とは言えない公子相手であれば、どうにでもできるであろうと考える者がいるのは理解できた。どうにでもできる内容が、エリック個人の名声に関係する事限定であれば、どうにでもしてくれと無視する事ができたが、クーガー財務官が宣言したように、そこに国の威信を巻き込んでくるのであれば、軽んじられる訳にはいかなかった。
公爵代理エリックは全力で相手にするしかなかった。




