3年生 その76 代理
76 代理
王都からの出陣を見送ったエリックは、公爵代理として活動していた。
出陣しなかった理由は、外部に実力を隠すためではなく、王都に公爵代理を務める者が求められたからだった。財務卿として、10月から始まる財務書類の受領及び納税に関する処理をする人間が王都に残らなければならなかった。公爵本人、次期公爵、弓術に優れて騎馬足の速い女性陣と、勝利ための優先順位を考慮して出陣メンバーを決めると、エリックが残留者として最適だと判断された。
「エリック様、アイリス嬢を待たせても良いのですか。」
「あと30分で終わるから、待っていてもらってくれ。」
「夕食の後に回すのでも構わないのではありませんか。私の方で問題点を書き出しておきますから。」
「セバスにも確認してもらうけど。最初は僕が読まないと。報告は僕宛に来ているのだから。」
どんな事でも婚約者を最優先してきた第2公子が、公爵代理としての仕事だけは最上位に置いている事を、祖父のような立場でもあるセバスチャンは喜んでいた。家族の中で末っ子の甘えん坊として行動してきた若者が、やはり成長している事を見るのは嬉しかった。いくつかの分野で教師役でもあった老紳士は、この天才を誤ることなく導く事ができた事に満足していた。
「畏まりました。アイリス嬢には、少し待っていただくようにとお伝えしておきます。」
公爵の執務室で1人になったエリックは、公爵領の各地から送られてきた報告書の処理に追われていた。財務官となったケルヴィン卿とその孫の2人が加わった公爵領の財務処理は格段に速くなったが、それ以上に新規提案が行われたため、最終判断を下す公爵代理の仕事は増えていた。エリック自身の事務処理能力も十分なレベルを有していたが、新規提案故に決断まで時間がかかる事があった。
新規提案のほとんどは、3人の財務官の意見がそれぞれに添えてあり、複数の試案が提示されていた。しかも、提示されるものは全て価値のある提案であり、考えれば考える程、甲乙付けがたいと判定するものばかりだった。他の情報を加えて検討すると、さらに差が無くなっていくようで、結論に達するまでには時間がかかった。
最終的には、印象の良い方を選んだとしか説明できない事案もあるが、その判断をする度に、公爵という立場の重さをエリックは実感していた。この決断で、公爵領の人々の人生が決まる事もあるのが分かっているだけに、何度も何度も同じ思考を繰り返していた。学ぶ事と、その学びを活かす事の間には、とてつもない差がある事を、第2公子は初めて知った。
11月1日、公爵邸に戦勝の報告が届いた。
「戦勝報告、ご苦労だった。休憩の準備をさせる。」
「いえ、このまま宰相と第1王子への報告に向かいます。」
「分かった。もう少し頑張ってくれ。」
「はっ、では、失礼します。」
玄関扉で報告と書簡を受けたエリックの側に、セバスチャンが立っていて、ペーパーナイフを手渡した。
「皆、無事だ。ランドルフ卿も無事。前哨戦は大勝利・・・。」
「拝見します。」
金髪青目の貴公子は少年の身長と顔立ちではあるが、書簡を見た瞬間に、戦士のそれに変わった事を感じた執事は、書簡に書いている内容の予想がついた。戦争で大勝利、という事は犠牲者が少なかったという事ではあるが、死者や重傷者が皆無なはずはなく、書簡には犠牲者の姓名が書いてあるはずだった。
「ユージンにギルドへ行ってもらってくれ。葬儀を含めて、仕切る事のできる人間を5名すぐに公爵邸に来させてくれ。それと、東地区の病院で15名を受け入れる体制の準備を依頼。それと、ランドルフ卿の無事を伝えるようにと。」
「畏まりました。」
「午後から5人の遺族の所へ行くから、その準備を。」
「ご自分で行かれるのですか。」
「11年前は、お母様が1人ずつ訪れたのだろう。」
「はい。ですが。」
「13歳の子供ではあるが、公爵代理の肩書を持っている第2公子なのだから。」
「承知しました。」
「執務室にいるから、手配後に来てくれ。」
この日、賠償金を公子エリックが直接届けた。国境の戦いに戦士を送り出した家族たちは、愛する人の死の可能性を考えてはいたが、無事生還する事を願っているため、不幸な事象を考えないようにする者が多かった。
出陣してから3週間、そろそろ戦闘が行われたであろうと考えている中、公爵邸の馬車と騎馬が王都内を走った。それは死神ではないが、死を告げる使者であると誰もが考えていた。そして、使者の馬車が出陣した騎士爵の屋敷の前で止まった時、多くの者が近親者の死を受け入れたくない気持ちに襲われた。
死を告げられた家族たちの反応は異なったが、最後にはエリックの来訪に礼を述べた。貴族社会だけでなく、庶民社会でも、慰めにしかならない事であっても、最大の礼を尽くす事が最大の慰めになるのは同じだった。国王と公爵が出陣している今、公爵代理であるエリックが王都の頂点にいる貴族であった。その人間が自宅を訪問するだけでなく、悔やみを述べた上で、死者が戦場で活躍した事を語り、その死に対して頭を下げながら敬意を払うという行為は、他国の貴族では考えられない事ではあるが、イシュア国の公爵家は当然の事と考えていて、その行動を躊躇う事はなかった。これを始めた公爵は人心掌握のために行った事かもしれないが、長い歴史の中で戦公爵の遺伝子の中に、戦闘によって死を得た戦士たちに最大限の敬意を払う事は刻み込まれていた。
公爵邸の大食堂に入ってきたエリックは、心のオアシスであるアイリスの姿を見つけると近づいていった。
「エリック様、お仕事は一段落しましたか?」
「ああ、一緒に昼食をお願いできるかい。」
「はい。」
柔らかい表情、垂れ目の優しい緑の眼差し、薄緑のほんわりとした髪を褒め称えて、出会った1年前に比べて母性溢れる女性に成長したとエリックは嬉しそうに語った。喜びながらも反応に困るアイリスと同様に、セバスチャンも苦笑いを浮かべるしかなかった。確かに、白いエプロンを纏った紺色のメイド服姿は、世話をやいてくれる何かを感じさせてはいるが、9歳の少女に母性という言葉が誉め言葉になるのかは老紳士にも理解できなかった。ただ、無条件で受け入れてくれるアイリスの笑顔の前では、公子の言葉に説得力がなくても問題はないのだろうとも、祖父代わりの家令は受け入れていた。幼いとはいえ、婚約者であり、2人の間で通じるものがあるのなら、周囲の者が気にすることもないのだろうと考えた。
「今日のシチューは、アイリスが味付けをしたの?」
「いいえ、今日はパン作りを教えてもらったんです。」
「このパンかい・・・。」
「どうですか?」
「こね方が足りないと思う。それに生地そのものに味を加えるのは美味しくならないよ。どうしても、味付けのパンにするなら、味付けした別料理を生地で包み込むようにした方がいいんだ。うーん、肉料理を乗せて食べるにしても、これだと小さすぎるな。」
「エリック様、美味しいではありませんか。」
涙目になっているアイリスに援護射撃をしたセバスチャンは、エリック公子のこの食に対するこだわりだけは理解できなかった。美味しい方がいいに決まっているが、公爵家では生きるための栄養を手にする事ができればよいという考え方が強く、極上の美味を求めている訳ではなかった。
「セバスさん、いいんです。エリック様のおっしゃる通りです。」
「いえ、本当に美味しいと思いますよ。エリック様は厳しすぎるのではありませんか。」
「セバス、邪魔はしないでくれ。僕たちは一生一緒に暮らすんだ。お互いの好みも違うし、考え方も違うんだ。そういった事をきちんと伝えあう事が大事なんだ。」
「はあ、なるほど。分かりました。」
52歳の老紳士はエリック公子が生まれた時から見守ってきて、たいていの事は理解しているつもりで、今までに予想外の事はほとんどなかった。だが、アイリスと言う少女が登場してからは、予想外の事が発生していた。それが公子の成長である事を願うばかりであった。
「エリック様、戦場より公爵様の書簡が届きました。」
大食堂に入ってきたユージンが第2報となる書簡を手に駆け寄ってきた。その笑顔から戦勝の報告である事は分かったが、食事中の全員が注目した。封を切っての1枚目に一番重要な事が書いてあった。
「戦争は勝利で終わった。公爵家の騎士団にさらなる犠牲者はなかった。」
大食堂では自由に会話する事もはしゃぐ事も許されてはいた。公爵邸で働く者達が節度を忘れる事はなかったが、勝利の報告には沸き上がった。親族や知り合いが出陣しているのだから、その生還に歓喜した。
公子も家族の生還に大きな声を出して喜びたかったが、2枚目、3枚目、4枚目に素早く目を通して、現状を把握する事を優先した。
「アイリス。」
「はい。」
「もう戦争する事はないが、軍を引くのは時間がかかる。国王陛下の護衛任務で、ランドルフ卿の帰還は年明けになるそうだ。」
「はい。それで、公爵家の皆様は?」
「年明けになればいいが。遅くなるかもしれない。ああ、問題が発生したのではなくて、モーズリー砦の守備隊の隊員達全員が騎士爵を賜り、公爵領の開拓地を拝領する事になった。兄さん達はその開拓地の指揮をする事になると思う。」
「寂しいですか?」
「ああ、いやいや、僕にはアイリスがいるから、寂しくなんかない。今後の事を色々考えていて・・・・・・。」
公子の言葉を聞いていた家令と御者は、子供らしい照れた顔を見守りながら、13歳の天才少年の頭脳の回転が少し遅くなった時の姿が、彼本来の姿であろうと考えた。その姿は、公爵家の幸せの姿そのものであり、今の公爵邸の幸福の象徴であった。




