2年生 その46 財務卿
46 財務卿
緑のワンピース姿のセーラは公爵の執務室の扉を開けると、黒のズボンと白い長そでシャツの父親に向かって頭を大きく下げた。
「失礼します。」
「ソファーの方へ。」
両手と胸で包み込むように持っている提案書を見てから、ソファーへと歩き出したセーラは緊張していた。姉弟は一緒に笑い、楽しみを共有してくれている事から、家族としての親しみを持つ事ができた。母親は最初の出会いも泣いていて、その後も度々泣いていた。最近は泣き出すのを我慢しているから泣く事は無いが、泣き出しそうな表情を見せる事は多く、セーラの中では守るべき存在のような感覚を持っていた。母親ではあるが、姉のような、時には妹のような不思議な感覚を抱いていたが、公爵夫人に対しても家族という認識を持つ事ができた。
しかし、父親と呼んではいても、公爵は未だに公爵だった。父親としてよりも、大英雄、イシュア国民全ての恩人としての認識が強く、それが消える事はなかった。
「あの、お父様。お願いしたい事があります。」
「なんだい。」
弟達が教えてくれたように、父親が嬉しそうにしてくれているが、それが本当の表情であるのか、作られた表情であるのかがセーラには分からなかった。
「学園で今、生徒会と言う企画を考えていて・・・。」
声が上ずっていた。
「その手に持っているのが、企画の内容なのかい。」
「はい。」
「見せてくれるかい。」
「・・・はい。」
手渡した時に震えていたセーラは、拒否される事に恐怖を感じている自分に気付いた。今までに一度も、自分が希望したことを拒否された事は無かった。それは、ドレスの購入だったり、手紙を送る事だったりと、拒否される可能性が極めて低い内容だったからで、戸惑う事はあっても、恐れる事は無かった。しかし、今回のように拒否されるかもしれない案件は今までは無かった。正確には、セーラはそういう要望を父親にはしないようにと避けていた。
無条件で愛し愛されるという幼い頃の過程を経ていない2人の親子関係には脆さがあり、些細なことで壊れてしまう危惧があった。そして、セーラが公爵家の人間と関係を作る際に必ずプラスになっていたミーナという存在が、この父娘の間にだけは、プラスにはならなかった。マイナス成分が多い、不確定要素になっていた。
提案書を1枚1枚丁寧だが、素早く読んだ父親は、娘の筆跡の美しさに感心していた。それはミーナと言う女性が、この子を大切に育てた証であり、本来は父親として喜ばしい事ではあるが、苦々しい思いも心の中に漂っていた。あの夜のミーナを傷つけた過ちは間違いなく愚行であり、その後の対応は卑劣でしかなかったが、あの時の自分の行為が無ければ、セーラと言う娘を得る事ができなかった。
「この内容なら、学園長は賛成するだろう。ただ、予算を付けてもらう必要がある。」
「はい。学園長は、宰相閣下には許諾を得たのですが、財務卿の許諾を得るには至らずに、今は実行できないと。」
途中で言葉を止めたセーラは、先に学園生徒会の利点を説明する過程を忘れてしまい、いきなり、財務卿への説得に力を貸して欲しい事を伝えてしまった。拒絶される可能性が少なくなるように考えていた手順が、頭の中から消えてしまっていた。
「分かった。財務卿と私が話をしてみよう。」
「あ、ありがとうございます。」
恐怖に近い何かに怯えている表情が消え去り、笑顔を取り戻した娘は美しかった。ただ、父親に対して頼みごとをする事に恐怖を感じている娘に対して、これまでの自分が間違っていた事を理解した。適度な距離を取りながら、嫌われる事がないようにしていた事は、距離を詰めて好かれるように行動しない事を意味していた。セーラやミーナに対しての罪は消えないと考えながら、その事を糾弾されるのを恐れて、自ら娘と距離を取っていた事の愚かさを公爵は知った。
自分が恐れている以上に、娘は怖がっていて、自分の居場所をかけて注意深く話をしていた。そんな事をさせていた自分の不甲斐なさは理解できても、最善と思える選択肢が未だ分からなかった。距離を取ってはいけない事が認識できても、距離を詰めた後、何をすれば良いのかは未だ不明だった。
「今日は予定があるかい。」
「アイリスが来るので、一緒に遊ぶかもしれませんが、予定そのものはありません。」
「そうか。では、財務卿に一緒に会いに行こう。」
「え。」
「もちろん、使いを出して、向こうの予定を聞いてからにはなるが。」
「私がご一緒しても良いのですか。」
「提案書は良くできているが、説明できる者が一緒の方が良いだろう。自分で書いたものだから、その内容も理解できているだろう。財務卿が内容について質問する事があれば、答えなければならないからな。」
「分かりました。」
「では、使いを出して時間が決まったら、礼服で出かけるから、衣装を選んでおきなさい。」
財務省の自宅を訪問する事が決まったセーラが、衣装選びをしているのを聞きつけた公爵夫人は、いつもの泣きそうな声で、自分も一緒に行きたいと言い出した。
財務卿メルヴィン・ロナガンは、子爵家の52歳の家長だが、家督は息子に譲っているため子爵ではなかった。自家にも公平である事を示すためというだけでなく、自身で領地経営をする余裕がないため、完全に自分と子爵領を切り離していた。派閥は中立派で、個人資産のほとんど持たない老官僚は、野心と無縁の人物であったが、公爵以上に恐れられていて、政治的な影響力は大きかった。
「とても良い方だが、ほとんどの貴族からは恐れられている方だ。」
「嫌われているのではなくて、恐れられているのですか。」
公爵家の馬車で移動中に、青の騎士礼服の美丈夫は、緑を基調とした豪華な印象を与えるドレスの娘に講義をしていた。
「税を徴収する役目において、一切の妥協がない。災害によって苦しい領地からは支払い延期を認めるが、時間がかかっても納めさせている。税を誤魔化そうとしても、隠しきれた者は誰もいない。だから、財務卿には駆け引きのような事は通用しない。正直に、思ったままを言った方がいい。」
「はい。」
ロナガン財務卿は、行政方法に関する研究をした方ではないから、行政分野の教科書に記載されていることはないだろうが、歴史教科書には必ず記載される方で、歴史上もっとも不正を許さなかった財務卿と言う評価を後世に伝えられる人物であると、セーラは学園で習っていた。
授業内でいくつかのエピソードを聞いたことがあった。セーラが特に覚えていたのは、賄賂は必ず受け取って、全額を国庫に寄付する形で処理して、税に関する便宜は一切図らないという話だった。寄付金に対する行政府からの礼状を受け取った貴族達は、見本となる貴族として祭り上げられて、名誉を守ってもらう代わりに、便宜を図ってもらえないのに多額の支出をしなければならなくなった。財務卿は、税金を厳しく取り立てている訳でもないのに、脱税をする貴族を0にしていた。
紺色のドレスの夫人に続いて馬車を降りたセーラが目にした館は、騎士爵級の屋敷よりも二回り小さい建物であった。そして、6人掛けの食卓テーブルが真ん中においてある案内された部屋も、貴族にしては小さく質素なものだった。形式上、引退した当主であっても、イシュア国の財務を預かる人間とは思えない程に、質素な建物に住んでいた。
扉が開くと、細身の老官僚が優しさしか感じさせない温和な表情を見せながら、挨拶をした。
「公爵、公爵夫人、久しぶりじゃ。相変わらず、美男美女で羨ましいのぉ。おお、セーラ嬢じゃな。」
「はい。セーラ・オズボーンです。本日は、お忙しいのに、時間を取っていただき、ありがとうございます。」
「いや、忙しくはないぞ。自宅でのんびりしていただけじゃ。さあ、椅子に掛けて、公式な場ではないのだ。礼儀とか気にせんでもらいたい。わしも、この通り、よれよれのシャツと動きやすいズボン姿だからの。」
公爵、公女、公爵夫人が並んで座り、その正面に腰かけた財務卿は、セーラから資料を受け取った。
「これは、昨日、学園長が持ってきたものと同じかな。」
「はい。同じものです。」
「では、受け取るだけで、中身は読まなくても良いかな。」
「はい。ご質問があれば、可能な限りお答えします。」
「分かった。中身は知っとる。良い提案だと思う。公爵も良い提案だと思ったから、財務卿であるわしへの直談判に力添えを、と考えたのだろうが。国の発展のためだと考えて、わしを説得したいのか。」
「セーラが頑張っているのを応援したいと考えたからです。」
「お父様。」
国の発展、学生の将来の2つの軸に、具体的な良点を加えながら説得する予定だったセーラは戸惑った。父親が娘のためと言う感情で動いた事は単純に嬉しかったが、それでは歴史上の人物になるはずの財務卿を説得できるとは思えなかった。
「セーラ嬢、そんなに困らんでよろしい。公爵の正直な回答に、わしは満足している。前向きに検討したいと思っている。」
「え。」
公爵家の力を前面に出しての交渉でも、成立させるのは難しいと判断していたセーラにとっては、国の予算を付けてもらう話なのに、父親から娘への思いが語られる事は不適切だと思えたし、それを受けた財務卿が満足であると発言している事が全く理解できなかった。
「驚く事はないじゃろう。素晴らしい提案だとわしも思う。まあ、せっかく訪問してくれたのじゃ、質問ぐらいした方がいいじゃろう。で、質問なんだが、この提案が国に利益をもたらすのはいつ頃になると思うかの。」
「2年ぐらいで目に見える成果は出ると思います。」
「要求している予算の額を超えるような利益が出るのには、どのくらいの時間がかかると思うかの。」
やってみなければ成果は分からないが、初期投資分の金額を回収するまでには時間がかかるのは間違いなかった。しかも、金銭ではない価値を算定するのは難しく、単純なお金の出し入れの話になると、将来に対する投資の話を説得するのは難しかった。
「10年はかかると思います。でも、それは色々な事は全てうまくいった時の話で、頂く事になる予算を超えるような利益を出す事はとても難しいと思います。」
「正直に言ってくれてありがとうの。まあ、予算を超える利益を出すのは無理じゃな。そもそもこの提案は、人を育てるための投資であって、お金を稼ぐものではないからな。わしはこの提案に予算を付ける事には賛成なんじゃ。」
「ですが、学園長がこの提案を提出して時には、賛同していただけなかったと。そう学園長からお聞きしました。」
学園長が説得に失敗したから、公爵家の力を借りて、ここに自分が来ているはずなのにと考えている中、財務卿が説明を始めた。
「この提案は、子供達の未来に投資するというものであって、その事に大人たちがどれだけ真剣にお金を出し続けるかと言うのが重要なんじゃ。利益が出る訳ではなく、多くの大人が納得できる成果を出すには、10年ぐらいかかるかもしれん。その間、お金を出し続ける大人が必要なのじゃ。公爵のような若くて、子供達のためにお金を出し続ける意思を持った大人がな。子供達が学園を卒業するまで公爵がお金を出す事に賛同するのは間違いない。だが、その後にお金を出す保証はない。学園等の提案を受けなかったのも、やつが高齢だからだ。学園長の交代だってありうる。」
「???」
「まあ、要するに、これから10年以上、この学園生徒会を応援し続ける意思と能力を持った人間からの提案でない限り、受け付けるつもりはないという事で。応援し続ける事ができる人間が、わしの所に来るのを待っていたのじゃ。」
「私が応援する事を約束すれば、この提案に予算を付けてくれるという事ですか。」
「そうじゃ。」
「公爵家が、この企画の資金援助をすればよい言う事ですか。」
「いや、それは違う。この提案は、イシュア国のためのものである以上、全額、国の予算で賄うべきで、特定の貴族が金を出すような事があってはならない。」
「では、私が応援すると言うのは、どう言う事なのですか。」
「公爵が娘の提案した企画が成功する事を望んでいるのだから、その成果が出るまでは応援するつもりである。という事を確認したいのじゃが。」
「もちろん、応援するつもりです。ですが、具体的に何をすれば良いのですか。それをお聞きしたいのです。メルヴィン卿。」
「では、具体的な話をしようかの。財務卿には、金銭面についての強大な権限があるが、宰相と国王陛下には、緊急指令によって、財務卿の決定を覆す事ができる。まあ、無いとは思うが、その場合には、貴族代表の公爵家として、財務卿の指示をしてもらいたいというのが1つじゃ。」
「その事については分かりした。陛下も宰相も反対するとは思いませんが、その場合には説得しましょう。で、他にもあるようですが。」
「うむ。提案に賛同する代わりに、わしの願いを1つ叶えてもらいたいのじゃ。」
「「何でしょう。財務卿。」
「私には孫が2人いてな。男子と女子なんだが、それが年頃でな。」
「まさか、セーラとの婚約を条件にするつもりなのですか!」
笑顔だった表情が怒りに満ちたものに変わっただけでなく、威圧感を前面に押し出してきた公爵夫人に、老官僚は慌てた。
「違う違う。すまなんだ、セーラ嬢との婚約とかの話ではなくてな、とにかく、な。」
「婚約ではないというのなら何なのですか。」
「お母様、その、落ち着いてください。」
「落ち着いています。セーラの結婚という大切な話なのです。冷静です。」
「ああ、先に要望を言う。孫の事は、理由の方なんじゃ。とりあえず、要望というのは、公爵に財務卿になってもらいたいんじゃ。」
内容の衝撃さに3人はしばらく無言のまま固まった。落ち着いたわけではないが、考えがまとまった順に話し始めた。
「メルヴィン卿が財務卿をやめるという事ですか?」
「そうじゃ、公爵に任せて、退職したいのじゃ。この願いを聞いてくれんかの。」
「理由の方を聞かせてください。」
「うむ、孫2人の事じゃ。成人は未だじゃが、婚約をしてもいい年頃でな。息子も頑張っているのだが。わしが恐れられていてな。他の貴族達には縁談の話を聞いてもらえんのだ。いや、聞いてもらえるには聞いてもらえるが、ただ聞くだけでの。皆、遠慮するという形で、孫たちは会う機会もないのじゃ。男子の方は跡取りだから未だ良いのだが、孫娘の方は今16歳で、どうしたものかと悩んでいるのじゃ。」
「なるほど、理由は分かりました。それであれば・・・。辞任を申し出ても、宰相や国王陛下から引き留められたのではないのですか。」
「そうじゃ、後任を推薦しなければ、話にならんと言われていてな。しかも、貴族達に睨みを利かせる事ができる者が条件とか言われたのじゃ。で、公爵に任せたいと思ったのじゃ。宰相補佐も辞任しているしの。わしも孫娘が可愛いのじゃ。わしのせいで、機会も与えられないというのは、どうしても避けたいのじゃ。」
老紳士の落ち込んだ表情が余りにも嘘っぽく見えた公爵と公女は顔を見合わせたが、公爵夫人は心を打たれてしまった。
「旦那様、財務卿のお願いを聞いてあげてください。孫娘さんの事、心配なのでしょう。懸命に仕事をした事が原因で、孫娘の婚姻に支障が出るなどという事があるのを、見過ごす事ができません。」
「夫人、ありがとう。このままでは申し訳なさ過ぎて、孫娘にも会えぬでな。」
「メルヴィン卿のように国政のために尽力された事が、このような悲しみを背負うなんて・・・。」
「あの、お母様。」
「セーラも賛成ですよね。」
「私は、提案書に予算を付けてくれる事が目的だったから・・・。」
「そうよね。そのためにも来たのだから、旦那様も賛成ですよね。」
「ああ。メルヴィン卿のご要望、承ります。」
「おお、そうか、そうか。という訳で、明日は休みだから、明後日に行政府の財務事務室に来てくれ。そこで財務卿補佐に任ずるから、この提案書の予算に関する仕事を任せる。そして、来年の3月末にわしが辞職した後を受けて、財務卿になるという予定じゃ。いや、目出度いの。公爵が財務卿になってくれれば、この提案の予算は、間違いなく継続的に確保できるのじゃ。」
刻まれた皴が20年間の労苦を物語っていたが、ふさふさの茶色の髪と、人懐こい茶色の瞳を持った老官僚は、皴を深めながら喜んでいた。王都を震わせることができる3人の貴族の1人と言われていた老人は、最強の後任を得る事ができて、とても嬉しそうだった。




