2年生 その33 太陽の日2
33 太陽の日2
少女のような高音と柔らかい声質が部屋の扉をすり抜けて、セーラの耳にも入ってきた。「セーラです。入ってもよろしいでしょうか。」
「ど、どうぞ。」
中からは家主の男性の低い声が聞こえた。家の主であり、国内でも有数の戦士の声のはずだったが、そこには怯えにあった。
「アイリスちゃんと話がしたくて、第一学校の方は早く出てきました。」
「そうだったの。今、エリックを叱っていたのよ。」
「はい。話は聞きました。」
「セーラ姉さんも、アイリスとの。」
「はい。そこまで!」
その場を一言で止めると、食堂で使う6人掛けのテーブルの空いている椅子にセーラは座った。男女2対2の構図が女性3へと変わり、母親の右隣の位置から、中央の席のエリックの表情を伺った。弟は不満であることを隠す気は無かった。その隣のランドルフは困惑の表情に諦めが混じっているようだった。
「お母様は、エリックの何について叱っているのですか?」
「今日、婚約を申し込んだ事です。」
「アイリスは受けてくれた。それを、そんな。」
「エリック。」
強くはないが、感情を含まない透き通った母の声がエリックの体に染み込んでくると、何も言い返せなくなった。息子が言い返そうとすると名前を呼んで、その巧みな弁舌を封じ込めてから、公爵夫人は息子を叱り続けていた。
その前進しないやり取りを止めるために、セーラが参加していた。
「お母様は、婚約には賛成で、エリックの行動を叱っているのですね。」
「そうです。婚約を申し込むのであれば、少なくとも一度は私かギルバード様が同席した上での食事会を開かなければなりません。お見合いを成立させる必要があります。成立させた後であれば、2人が仲を深めて。」
エリックが口元を動かそうとしたのを察して、セーラの赤い瞳が冷たい視線を向けて、弟の動きを封じ込めた。
「いって、その上で婚約を当人同士で決める事に依存はありません。」
「姉さん、僕にも言いたいことが。」
「ダメです。」
「え・・・。僕は拙速な事をした事は分かっている。だけど、アイリスの屋敷で、ランドルフ卿の前で叱らなくても。」
「叱られるような事をしたという自覚があるなら、叱られなさい。婚姻は両家のものでもあるのよ。婚姻という事であれば、エリックがした事であっても公爵家がした事と同じなのよ。ミクソン家に対する失礼であれば、ランドルフ卿の前でしっかりと叱った上で、公爵家として謝罪をしなければならないのよ。お母様はそう言いたかったのよ。」
レイティアの強い言葉にランドルフが戸惑いを深めた。自身の武で得た騎士爵ではあったが、公爵家と比べれば、そこまで気遣ってもらう程の家名ではなかった。だから、エリック公子の行為で、ミクソン家の失礼に当たる部分は、武骨な戦士の目からは、何1つ無かった。むしろ、婚約を申し込まれたことは喜びで、名誉で、娘がエリック坊ちゃんを嫌っている訳はないから、父親としても、公爵の部下としても、娘の幸せに喜ぶ以外の事を考える事ができなかった。だが、その事を2人に伝えて納得してもらえるだけの弁舌の能力を彼は所有していなかった。
「レイティア様。私の前で叱るような事は、その。」
「ランドルフ卿も、しばらく黙っていてください。エリックも、お母様もしばらく、話を聞いてください。あ、レイティア姉様もです。叱られる必要があるというのであれば、この場にいる4人とも叱られてください。
「わ。」
異を唱えようとした母親が両手で口を押えた。
「私はここに来る前に、アイリス嬢と話をしてきました。両家の事も大切ですし、エリックに反省させる事も大切です。ですが、一番大切にしなければならないのは、アイリス嬢ではないのですか。それを怠って、4人で何かの話をしても、何の解決にもなりません。2階で怯えていました。エリックが叱られているのは分かったみたいで、自分のせいでそうなっているのではないかと考えていたと思います。」
隣の母の横顔から強い後悔が見られた。セーラを迎え入れる時にした事と同じ失敗をしてしまった事に瞳が潤んでした。誰かのために何かをしたいのであれば、相手をよく知らなければ、傷つけてしまう事があるのは体験していた。
「エリック。お母様は、アイリス嬢のために、きちんと手順を踏みたいと考えているの。私のために、ミーナ母さんの立場を明確にしたのと同じなの。アイリス嬢は騎士爵の娘として、公子と婚約して、後に結婚する。公爵家に騎士爵を侮るような人はいないけど、他の貴族も全員そうだとは言えない。正式なお見合いをしていない事が、公爵家がミクソン騎士爵家を侮っている証だって、そう言われる可能性だってある。」
庶民生まれの公女が事実である以上、攻撃する意図を持った側はそれを利用してくるし、セーラ自身がその事実を理解しているからこそ、それらの攻撃が高い効果を持った。家族の中だけの小さな世界を出て行かないというのであれば、そういったものを愛情で乗り越える事はできるが、エリックとアイリスが望んでいる世界はそうではないはずだった。
「エリックが叱られる理由は、公子の立場を忘れて、アイリス嬢の立場を守るための行動を無視した事よ。」
「すいませんでした。ランドルフ卿、本当に申し訳ありませんでした。」
「いえ、あ、エリック坊ちゃん、頭を上げてください。娘は喜んでいましたから。」
「ランドルフ卿、息子の無礼、許してくださったこと、感謝いたします。」
「え、公爵夫人、そのような事は。」
「ランドルフ卿、公爵家からの謝罪をお受けください。」
「レイティア嬢まで、え、セーラ嬢も・・・。はい。謝罪を受けます。」
公爵家の全面的な謝罪を受けるしかなかったが、それがこんなに居心地の悪い気分になるとは思わなかった。ただ、これが貴族の振る舞いとして必要であるならば、自分の気持ちとは関係なくしなければならなかった。平民出の自分のままでは娘のためにならない事をランドルフは強く自覚した。
場の空気が穏やかなものに変わりそうな所でセーラが追撃を加えた。
「エリック、まだ反省してもらう事があるのだけど。」
「はい。何でしょうか。」
「アイリス嬢は7歳で、騎士爵の娘、お父様の部下の娘。公子であるエリックに逆らう事も、エリックの意に沿わないと考えた事も、言うことが難しい立場にいる。それは分かっている?」
「分かりました。」
「分かったというのであれば、反省しなければならないのは、好きになってもらう努力を全くしていないのに、婚約の申し込みをした事よ。」
冷静になったからと言って、アイリスへの思いが冷めるような事は無かったが、自分自身の不誠実さがよく分かるようになった。花束を持参したが、それが2人の想いを結び付ける証になるのは、それまでの経過があった2人に限定された事であって、何もない2人にとっては、単なる綺麗な花束にしかならなかった。
本人とあまり会話をせずに父親から情報収集をしていたエリックと、セーラお姉ちゃんと一緒に料理を楽しんだアイリスの2人には、2人だけの時間すら存在していなかった。初めて2人だけの世界で対話をしたのは、今日の婚姻の申し込みであった。
「アイリスに謝ります・・・。」
「それはダメよ。」
「どうしてですか。」
「婚約を申し込んだ後に、謝ったら、どう思われるかは分かるでしょ。アイリスにきちんと理由を説明しても。婚約を申し込んだ事が悪い事、何らかの問題がある事になってしまうわ。」
「どうしたらいいんですか?」
「アイリス嬢から、婚約を申し込んでもらうようにするの。」
「返事はもらいました。」
「だから、それは、そう答えるしかない状況だったからでしょ。」
「娘が受けたのは、嬉しかったからだと思うから。意志に反した訳ではないと思う。」
「ランドルフ卿、アイリス嬢は申し出を好意的に受け止めているのは間違いありません。ですが、好きだから。受けた訳ではありません。一番大切な事は、エリックがアイリス嬢に好きになってもらうことなんです。」
この美しい貴公子を好きにならない女性はいないと言い切れるほどの美男子で、性格も良好で、物腰も柔らかく、欠点らしい欠点と言えば、今回の一目惚れ暴走だけであると考えていたランドルフは、娘が嫌う要素が見当たらない事から、好きであろうと考えていたが、改めて考えれば、嫌いではないと好きは全く異なる感情だった。それにエリック坊ちゃんが一目惚れをしたからと言って、アイリスが一目惚れをする保証はなかった。自身が妻を得るために必死に告白を繰り返した事を思い出すと、セーラ様の言葉が良く理解できた。
「セーラの考えは正しいと思う。でも、どうやって婚約を申し込んでもらうの?」
レイティアが当然の疑問をぶつけてきた。
「お姉様、すいません。うまく説明できていませんね。婚約を申し込んでもらうというのは、アイリス嬢からエリックの事が好きだという言葉を引き出す事です。そういう告白をアイリスにしてもらう事です。」
「アイリスに好きって言ってもらえばいいって事ね。」
「そうです。そこで、ランドルフ卿に聞きたいのですが。アイリス嬢が学校へ行くのは、何の日ですか。」
「月と水と金の3日間です。」
「分かりました。では、火の日には公爵邸に来てもらって、エリックと一緒に勉強してもらいます。木の日にはエリックがこちらに伺って、一緒に勉強してもらいます。そして、土の日の休日には、どちらかの家で遊びます。もちろん、私も一緒に遊びます。」
「なるほど。当然と言えば当然だけど、一緒の時間がないと、好きなんて気持ちになれる訳ないしね。私も一緒に遊びたいわ。」
「私も。」
「お母様は、エリックを叱った、怖い義母だと思っているから難しいかも。」
姉の指摘に青ざめた母親の横顔を見て、セーラは慌てた、
「そう・・・。」
「ああ、お母様、ごめんなさい。今は、アイリスは怖いだなんて思っていません。ああ、アイリスの前で叱るような素振りを見せたことを反省してもらいたくて、ああ、ごめんなさいお母様。アイリスは、お母様の事を素敵な女性だと思っていますから。普通に、一緒に遊べます。大丈夫ですから。」
「でも。少しは怖がらせたのでしょ。」
「お姉様、そんな事を言わないでください。本当に大丈夫ですから。この後、一緒にアイリスに謝りに行きましょう。それで大丈夫ですから。」
「本当に。」
「本当です。本当です。」
少女のような儚さを感じさせる言動を見せる母親は大好きではあるが、こういう姿を見ると、本当に心が締め付けられた。少しからかった時に恥ずかしそうに見せる笑顔までは問題ないが、追い詰める要素が加わったからかいは2度としないとセーラは心に誓っていた。
「お母様は教えるのは得意なのですから、アイリスが来てくれた日に、勉強を教えればいいのです。」
「そうね。」
「では、セーラと一緒に迎えに行って、謝ってきてください。私はここで待っていますから。」
「分かったわ。行きましょう、セーラ。ミクソン夫人にも謝罪しないと。」
「お姉様も一緒に行った方がいいと思います。」
「どうして、セーラ。私はほとんど話をしていないから。」
婚約者持ちの経験者として、当事者以外の人間が色々言い始めると揉め事しか起こらない事を知っていたレイティアは、冷静な判断をして、適切な行動を取っていた。ここで謝罪すべきことは何1つなかった。
「お姉様が、謝罪しなければならない事をしていないとは思うのですが。アイリスは、お姉様に対しても悪い印象を持っているかもしれないから。一緒に行って、挨拶みたいな感じの顔合わせをしておいた方が良いと思うのです。」
「どうして、私って、そんなに印象が悪い?」
「そのそっくりですから。」
「あ。」
レイティアは今まで、母親とそっくりという点で良い印象を持たれたり、褒められたりすることはあっても、それが原因で悪印象を持たれるような事は無かった。姿かたちはそっくりで、声質も初めて聞いた人には聞き訳ができないほど似ていた。
「ああ。お母様、少しだけなのです。会えばすぐになくなる程度のものなのです。そんなに落ち込まないでください。お姉様も早く会っていた方が良いと思ったからです。ああ、そんな表情だと、良い印象を持ってもらえなくなってしまいますから。本当に大丈夫ですから。笑顔で。ね。」
新しい家族の加入と親戚が増える事は喜びではあったが、公爵家が大いなる幸せを手に入れるにはまだ時間が必要だった。




