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公爵家物語(オズボーン家)  作者: オサ
4年生
122/198

4年生 その118 女神の涙

118 女神の涙


イシュア暦369年4月8日月の日、新居の夫婦寝室で目覚めた館の主は、愛妻がベッドに居ない事に気付いた。

初夜の翌朝はお互いに恥ずかしそうに笑顔を見せてからキスを交わしたが、二夜の明けた今朝は1人だった。

「ロイド様、お目覚めになりましたか?」

「ああ、起きている。」

「入りますよ。」

新居に住み込みで働いているヘレン39歳は、レイティアの侍女と言う肩書も与えられている女性家令であった。

「ああ、おはようヘレン。」

「おはようございます。」

「レイティアは?」

「お目覚めになり、身支度を整えて、隣の自室においでです。」

「ん。何か?」

 ヘレンはかつてのロイドの乳母で、長年宰相邸で働いていた。遠慮がある間柄ではなく、お互いの表情で何かがあった事ぐらいはすぐに分かった。

「とりあえず、この後、浴室で体を洗ってから、自室で着替えてください。いいですね。分かりましたか?」

「ああ、もちろん、そうするが、何かあったのか?」

「ございましたが、決して、慌てたり、感情に任せて行動したり、発言してはいけません。それが約束できるのなら、お教えします。」

「分かった。」

 すぐに答えが返ってくると思ったロイドをしばらく待たせてから、銀髪茶目の侍女はゆっくりと答えた。

「レイティア様は、自室で泣いておられます。」

「・・・・・・。何があった?」

「慌てないのはご立派です。」

「緊急性があるなら、すぐに私を起こしていたはずだからな。」

 表面上は冷静さを装いながら、宰相の孫は人生で一番慌てていた。第一公女が泣いているのをほとんど見た事が無かったから、緊急性は無くても重大な何かが彼女の身に起きている事だけは理解していた。

「レイティア様から、一通りは話を聞いたのですが。正直、良く分かりませんでした。言葉が分からないとかではなくて、どういう事なのかが分かりません。」

「泣いている理由を、レイティアは何と言っている?」

「ご自分がロイド様に捨てられてしまうと言って、泣いているのです。」

「・・・・・・結婚したばかりの夫婦に、愛情の大切さを学ばせようとするための何かのイベントでもあるのか?」

「そのような事はありません。」

「・・・・・・。」

 初夜も二夜も女神の体を丁寧に扱いながら、公爵家伝来の作法にあった言葉も動作も丹念に行った。何度も果てそうな瞬間を回避しながら、女神の体に奉仕してきた。奉仕すると同時に女神の体を自由に弄ぶことに夢中になりそうな自分を叱責していた二晩の事を思い出すと、理解が及ばない何かが起こっている事を把握した。

自分がレイティアを捨てるという発想が存在しないだけでなく、彼女がそう思える要因が何なのかも分からなかった。イシュア国一の美姫に愛されながら、結婚に辿り着いた今、幸せの絶頂と考えている自分が、姫を捨てるという考えに至るはずがなかった。

誰に聞いても、ロイドは幸せ者だと言ってくれる現状において、夫に絶大な幸せを与えてくれる妻だけが、夫に不満を持たれて、捨てられると泣いていた。そのような嘘を言うはずがない乳母に、疑いの視線を向けずにはいられなかった。

「夫婦と言っても、別の人間です。完全無欠の令嬢であるレイティア様だって、悲しかったり、辛かったりする事はあったはずです。そういった事をきちんと聞いてください。それに、完全無欠だと思っているのは、周りの者だけで、レイティア様自身は、そう思っていないかもしれません。少なくとも、妻としては2日目、素人です。」

「ああ、分かった。」

「朝食の準備をしておきますが、急がなくても大丈夫ですから。私たちは先に食べておきます。」

「ああ。分かった。」

 浴室で身ぎれいにして、紺色のズボンと白の長そでシャツを纏ったロイドは、2つ向こうのレイティアの部屋へと向かった。


 妻の部屋の扉をノックすると、足音が聞こえた。慌てて部屋に入ってきた夫に対して、薄緑のワンピース姿の妻が抱きついてきた。

「旦那様、捨てないでください。足りない所は、足りない所は。努力しますから。」

 泣きながら縋ってきた妻を受け止めながら、ロイドはしばらく頭の中が真っ白になった。それでも、妻の金髪を撫でながら、抱きしめる事を止めなかった事を、後日自分で自分を褒めた。

 一緒にソファーに腰掛けた時、妻は少し震えていた。

「レイティア、私が捨てるなんて事は、絶対にない。それは信じて欲しい。」

「捨てないでください・・・。」

 自分の胸に顔を埋めながらか細い声で妻が訴えてきた。

「捨てないから、話をして欲しい。私にはレイティアに不満なんてないよ。でも、レイティアには私が捨てるように見えたんだよね。どうして、そう思ったの?」

「閨の事・・・ごめんなさい、妻として、もっと尽くします。足りない所があれば、おっしゃってください。旦那様が満足できるようにいたします。」

「閨の事って?え、足りない?え?」

「もう、駄目なのですか?」

「違う、違う。閨の事、満足している、足りないなんて事は無い。」

「もう、私は直しようがないのですか・・・。」

「いや、直すところがないんだ。レイティア、私の顔を見て。どうして、私が満足していないなんて、勝手に決めるんだ。」

 肩を掴んで顔を上げさせたロイドは力強い声で訴えた。

「旦那様は、私の中に精を一度しか放ってくださいませんでした。」

 レイティアが強い声で訴えてきた内容が良く理解できなかったロイドは妻に理解力がない事を謝罪してから、事細かに質問をしていった。

「男性は、一晩の間に何度も精を放つと、本にも書いてありました。」

「一度だけだったから、私が閨の不満を持っているとレイティアは考えたの?」

「はい。男性は何度も求めてくるから、それを受け止めるようにと。お母様に教えていただきました。」

「初夜も一度だけだったけど。」

「初めての日は痛みがあると、旦那様もご存じで、私の体を労わってくださったのだと思いました。だから、昨夜は、何度もしていただけると思って・・・。」

「本当に不満があるなら、閨をしないと思うのだが。」

「公爵家の娘として、子をなさねばなりません。旦那様もそれが分かっておいでだから、一晩に一度は、私の中に・・・」

「つまりは、私が閨では最低限の事しかしないから、私が不満に思っているとレイティアは考えたという事?」

「はい。」

「不満なんてない。本当だ。義務でレイティアを抱いている訳ではない。愛している。」

 ロイドはピンクのリボンで一束になった金髪を、ソファーの背もたれの後ろの方に流すと、レイティアの求める証を与えた。

 その中で、ロイドは訴えた。体でレイティアの望む愛を感じさせながら。

「私も本当は何度も、何度も体を重ねたい。私をここまで愛してくれるレイティアが愛おしくてたまらない。だけど、いつも私は思っていた。自分がレイティアに相応しい男なのかと。」

「学は立つが、武力はない。女神と呼ばれるレイティアに相応しい美貌はない。」

「唯一自信が持てる文官としての仕事で成果を出す事が、レイティアの横の立ち、こうやって、レイティアの体を自分のものにできる条件だと思っていた。」

「だから、仕事を頑張らないと。」

「そう思っていた初夜、恐ろしい程に、気持ちよかった。本当は何度も何度も、朝までもずっと交わっていたかった。」

「だけど、こうやって、何度も繰り返すと、止められなくなると思った。毎晩、レイティアの与えてくれる快楽に飲み込まれていたら、自分は仕事ができなくなってしまう程、溺れてしまうと思った。初夜は痛みがあると考えて、抑えが効いたけど。」

「自分を抑えないと、こうなってしまう。だから、ルールを決めさせてくれ。」

 公爵家に伝わる作法の中にある過激な部分が、いくら愛する相手でも、こういう事をしない方がいいと言われてきた内容であると、2人が気付くまでに3年の時間を必要としていた。

 勘違いによる恥ずかしい体験だったが、この事は夫婦にとって自分たちをよく知るためのきっかけになった。


昨日のうちに、結婚式出席に令状を書き終えていた2人は、ゆっくりとした時間を取ることができた。朝とは違う水色のズボンとシャツ、少し濃い緑のワンピース、緊張感のない服装でソファーに並んで腰かける2人は、体を寄せ合っていた。

「レイティア、朝の事だけど。どうして、あそこまで追い詰められるような気持ちになったと思う?」

「分かりません。」

「私が気になるのは、レイティアが自信を失っていた事なんだ。」

「自信ですか?」

「うん。自信が無くて、誰かに救ってもらいたいと考えている時、ああいう行動をすると思うんだ。」

「そうかもしれません。」

「それで、どうして、あんなに自信を持てないのかが、私にはよく分からないんだ。私だって、伯爵家の嫡孫、宰相の孫という肩書や、宰相府での仕事の実績があって、自信を持つことができている。レイティアは、公女としての責務を果たし、軍功もある。学力も優れている。容姿も優れている。」

 一番分かりやすい容姿について言えば、国一番の美姫と称された公爵夫人にそっくりで、自信を失う要素は全く無かった。

「・・・。」

「レイティアは、公爵夫妻の姿をずっと見てきて、その姿が普通だと思うようになったから、自分の持っているものが、特別ではなく、普通の事だと思うようになったのかな?」

「そうなのかもしれません。」

 満足感しかない表情で自分を見つめてくるレイティアに安堵していると同時に、さっきの性交だけで、これほどの変化が見られる事が怖かった。夫と妻の関係がどうにかなる心配ではなく、妻の心がどうにかなってしまうのではないかという恐怖がロイドの中に広がってきた。

「去年、高原の戦役が終わって、王都に戻ってきてから。レイティアが嫉妬する事が多くなったと感じていたんだが。」

「旦那様が、他の女性を褒めたから・・・。」

「それは、婚約を促す側の役目として。」

「分かっています。」

 その分かっている事にも強く嫉妬していた。戦役の前と後では明らかに違っていたが、妻の心に強く影響を与えている事が何であるのかを考えた。

「戦役に向かう途中で、ミーナさんの事を思い出したって。」

「思い出したと言っても、ミーと呼んでいた事を思い出しただけで、私が生まれてから、お母様に代わって面倒を見てくれたことは、お母様から聞きました。」

「3歳前には公爵邸を出て行ってしまったんだよね。」

「はい。」

第2夫人ミーナを軸に思考を進める事で、ロイドは答えに辿り着くことができた。


 第一夫人エリスは、レイティアを生んだ直後から訓練を開始した。母乳を出して貯めておく以外、全ての時間を訓練と休憩に費やした。直近に迫る暗闇の暴走で勝利する事が、公爵夫人の唯一の為すべき事だった。

 そのため、ミーナがレイティアの母親だった。自分の乳房に垂らしたエリスの母乳を飲ませる事以外は、完全な母親だった。身の回りのお世話も、添い寝をする事も、遊ぶ事も何もかもをミーナが行っていた。

 そのミーナが公爵邸を出て行った時、第一公女は母親を失った経験をした。その経験に耐えられないから忘れたのか、幼かったから忘れたのかは不明だが、母親を失ったという恐怖は、心に刻み込まれたのは確かだった。

 公爵一家としては何も欠けていないのに、自分に最も愛情を注いでくれた女性が消えてしまうという恐怖感だけを抱えて、レイティアは生きていた。実母がいて可愛がってくれるのに、母親を失った痛みと恐怖だけが、心の中に残っていた。養母ミーナの存在を認識できていれば、レイティアは自分の中にある悲しみを癒すことができたかもしれないが、養母の存在を忘れていたために、自分の心の中にある問題に気付く事すらできなかった。

愛する誰かが居なくなる恐怖が、レイティアの心の中心にあり、それが認識されずに、癒えなかった傷として残っていた。その傷が夫に向けられた時、自分が捨てられてしまうという恐怖にレイティアは支配されてしまった。

これまでの嫉妬と評していた妻の行為は、愛する者が消えてしまう恐怖への抵抗であった。

「私はレイティアとずっと一緒だから。絶対に離れないから。」

 この一言で救われたかのように笑顔を見せたレイティアには、もう1つの心の重しがある事に、ロイドは気付いた。

 レイティアと瓜二つの第1夫人は、公爵に第2夫人の存在を許した女性だった。そこに暗闇の暴走という仕方がない要因があったとしても、公爵は第2夫人を抱いて、第2夫人は身籠った。

 セーラという愛すべき妹の存在と暗闇の暴走という不可避の要因があったから、公爵家の人間は第2夫人をも愛情をもって受け入れているが、本来は歓迎されるべき存在ではなかった。

 理想の夫婦像と呼ばれている自分の両親の間に、もう1人の女性と、別の娘が存在していた事を知った時、レイティアは大きな衝撃を受けていた。その直後に、見捨てられていた妹の存在を知ったから、別の感情に塗り替えられたが、悲しみと怒りを一瞬ではあっても、レイティアの心を支配していた。

 レイティアにとって、双子女神の容姿は、誰をも魅了するものではなかった。公爵に浮気をされた女性の容姿だった。

美しさは人によって感じ方が違うのだからという言葉は、レイティアの美しさに敗北感を捻じ込まれた女性達、特に妹であるセーラへの慰めの言葉だった。しかし、レイティアだけはその言葉の受け取り方が違った。圧倒的な美とは幻想でしかなく、絶対的な美はこの世に存在していなかった。存在するのは、人によってだけでなく、時や状況によっても変化していく美だけであった。

妹セーラへの慰めの言葉は、姉レイティアにとっては警戒と戒めの言葉であり、愛する人間から愛情を受けるために努力を怠ってはいけないという決意を作り出した言葉だった。

ロイドは自分がレイティアを守る決意したと同時に、彼女の心の中に漂う暗い何かを表に出さないでいこうと決めた。これまで彼女がバランスを取りながら維持してきたものを今は壊す必要がないと考えた。そして、いずれ、それを表に出さなければならない時が来るのであれば、その時までに自分が、レイティアにとって大きな存在になろうと決めた。

今は、妻が望む形の夫となり、妻が夫に対して揺るぎない信頼を与える事に全力を尽くすしかないと考えた。


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