4年生 その116 神の祝福
116 神の祝福
この大陸に宗教国家はなく、現在の国権に大きな影響を与える宗教教団は存在していないが、この大陸にある宗教は全て同じ唯一神を祀っている。
唯一神ヴェグラは、この世界を作る時、この世界に介入しようとした邪神と戦った。邪神は魔界から呼び出した多くの獣達を率いていた。これに対してヴェグラは力を分け与えた天使達と共にこの世界を守るために戦った。
最終決戦で邪神を倒したヴェグラだったが、その力の大半を失ってしまって、世界に残された魔界の獣達を駆逐する事ができなかった。眷属である天使達の力を維持するために永遠の眠りについたヴェグラは天使達と世界の人間に言葉を残した。
「フェレールの地に残った魔界への入り口は森天使の力で封印を施した。封印がある限り、魔獣達は入り口から遠くまでは行けず、魔の森を徘徊するだけである。魔の森に近寄る事なかれ。」
「イシュアの地は魔界である。多くの魔獣だけでなく、天使さえ知らない魔獣の住む地、交流を絶たねばならぬ。大地天使に命じて山々を作り、山天使と雪天使を遣わして、人々が魔界へ迷わぬようにした。魔界に触れる事なかれ。」
「ドミニオンの地は我と人民との約束の地、そこは魔獣なき土地、天使達の住まう大地。良き心の者が良き心のまま生きられる大地。新天地を目指す者は汚れる事なかれ。」
1500年前に誕生したヴェグラ教団は、瞬く間に人々の精神的主柱となって、その規模を拡大していった。各地に作られた教会には、それぞれの地域に相応しい天使達を祀り、ヴェグラを祀る事はしなかった。それは、ヴェグラがこの世界のために永遠の眠りについている事を邪魔してはならないという教団の教えに則ったものだった。
フェレール国の王権にも大きな影響を与えるようになったヴェグラ教団は、教皇なる地位を作って、それを唯一神ヴェグラの代理人とした。500年もの間、王権や教権を巡って争いを続けた中、1人の教皇が新天地への移住を宣言した。
1000年前、都市国家群で形成されているドミニオンの地へ、フェレール国王軍とヴェグラ教皇軍が侵略を開始した。瞬く間に侵略を完了した侵略軍は、ドミニオン国を宣言して、約束の地に辿り着いた事を大いに祝ったが、すぐに権力争いを始めた。統一国家となったドミニオン国が再び安定するまでには200年間もの戦乱が必要だった。
かつての都市国家群であったドミニオンの宗教は、各都市に精霊を祀る多神教であったが、ヴェグラ教の支配を受けた事で融合しながら変貌していった。各都市の精霊がヴェグラの使徒である、との定義付けを受容する事で精霊信仰は残されて、宗教戦争による虐殺行為は発生しなかった。それは、単にドミニオンの戦乱が収まるまで、宗教者たちの主張を聞く余裕が権力者には無かっただけの事だった。
ドミニオン国の戦乱が収まった後、フェレール国内で宗教の統一化の動きが出たが、その動きは立ち枯れとなった。フェレール国内で安定した地位を確保している教皇も国王も、汚れ切った戦乱の地ドミニオンを手に入れる事に魅力を感じなかった。特に当時の教皇は、ドミニオン国内に別系統の新たな教皇を誕生させても構わないから、フェレール国に攻め込んでこないようにと釘を刺して、宗教分派を認めた。
それから500年間、ヴェグラ教団は、いくつかの権力闘争の中心になった事はあるが、国権と並び立つ権力と神の権威を持ち続けていた。
しかし、宗教界を一変した事件が370年前に起こった。
魔界であるイシュアの地へ向かった一団があった。1000人とも10000人とも言われている一団は、イシュアの地の開拓を行って、イシュア国の設立を宣言した。
その一報が、フェレール国とドミニオン国に初めて持たされた時、誰も信じなかった。開拓を志して人々が移住したという事さえ信じられなかった。魔獣の巣が無数にあり、未知の魔獣さえ住んでいるとされるイシュアの地で、人間が生活できる訳がないと信じられていた。
宣言から10年後、イシュア国から正式に訪れた外交官から、初代国王の親書を受け取ったフェレール国は、イシュア国の存在を認めた。自国を侵略された訳ではなく、汚れ切った大地に住んで、国を名乗り、延々と魔獣と戦うというのだから、こちらに悪影響がないのであれば、好きにすれば良いと考えて、当時の権力者たちは、放置を選んだが、これはヴェグラ教の権威の瓦解を意味した。
唯一神ヴェグラでさえ駆逐できなかった魔獣を駆逐したのは、ただの人間だったという現実は、創世神話がただの作り話であるという結論だけを示す事になった。教団自身が、それらの現実に対して、自分たちの矛盾している教義を合わせる事ができなかった。王権に匹敵する宗教的権威が完全に崩壊した。
これまでの信仰心と結びついている生活習慣がなくなった訳ではないため、ヴェグラ教そのものは残っていて、各地の教会は一定の役割を保ちながら現在も存在していた。殊更、ヴェグラ教を侮辱するような事もなかった。だが、2度と教皇や教団が王権に並ぶような力を持つ事は無かったし、権力闘争に利用する者もいなかった。
イシュア国を作った英雄の1人であるオズボーン公爵の末裔であり、第24代当主ギルバード・オズボーンは、長女の婚約者であるロイド・ファロンと2人きりで、自室の応接セットのソファーに腰掛けながら対面していた。
「父上・・・。」
「どうした?」
「国王陛下が立会人として結婚式を行う意味を質問されたので、お答えしましたが。何か大切な意味があるのですか。」
ヴェグラ教の権威がほとんどないイシュア国では、結婚の儀式で行う宣誓は立会人に対して行うものだった。その立会人は、自分よりも目上の者であれば誰でも良かった。地方領の騎士団であれば地方領主。商人の手代であれば雇い主。傭兵ギルドの冒険者であればギルド長。娼婦の身請けであれば店の主。とそれぞれに見合った立会人が選ばれた。
もちろん、結婚式を行うのも教会とは限らず、大きめの食堂で結婚式を執り行う庶民も多かった。だからと言って、教会で結婚式が挙げられない訳ではなく、それを望む者もいて、神父が立会人として結婚式を執り行う事もあった。
貴族の序列では、国王の姫がいないイシュア国では、第一公女レイティアが序列第一位の未婚女性であるため、結婚の儀式の立会人は国王陛下しか考えられなかった。それは、婚約が成立した10数年前から決まった事であって、結婚7日前にわざわざ確認するような事ではなかった。
「ロイドには、結婚というものの、その重みと言うか・・・。」
いつもと変わらない凛々しい美丈夫の公爵に落ち着きがない事に気付いていたが、その原因が何であるのかが全く分からなかった。今朝、急に呼び出されて、公爵の執務室に案内されたこと以外、今までに何か言いづらそうにしている態度をロイドに見せた事は無かった。
娘の結婚を純粋に喜ぶ父親の姿しか見た事は無かったし、娘を奪うロイドに対しても、祝う以外の感情を花嫁に父からぶつけられる事は無かった。今も、落ち着かない態度ではあるが、敵意や嫌気を向けてくる事は無かった。
「父上、おっしゃりたい事があれば、どのような事でもおっしゃってください。今までと同じように。もしかして、そこにある書物が関係するのですか?」
2人の間にあるテーブルの上にある本にはタイトルが無かった。メモ書きを束ねたような作りの青い本だけが、普段とは異なっている事だった。
「そうだ。ロイド、結婚において大切な事はいくつもあるが。公爵家にとっては、一番大切な事がある。それは、子をなす事だ。」
「はい。」
ロイドは思わず姿勢を正した。6年半後に発生する暗闇の暴走において、レイティアは中の巣を制圧する主力であり、次の世代の戦士を生み出す母体でもあった。国にとっても公爵家にとっても、貴重な戦力であり、貴重な血筋だった。ロイドはファラン家の嫡孫ではあるが、公女を嫁として子供を授かった瞬間から、オズボーン公爵家の分家筋となり、その血筋からは中の魔獣や大の魔獣と直接対峙する戦士の供給をする事を要求された。
「結婚後3年間に子をなして、その後は暗闇の暴走に備えるための訓練に集中すると、そういう予定を考えています。レイティアとも相談してあります。」
「ああ、それは聞いている・・・。」
「公爵家に連なる事の意味も分かっています。」
「ああ、ロイドやレイティアの決意を改めて確認したい訳ではなくて、だな。」
「そのように言いにくい事なのですか。その書物に書いてあると言うのなら、読ませていただいても良いでしょうか。」
「あ、いずれ読んでもらうのだが、ここでは・・・。これは後で貸し出すから、結婚式当日までに読んでおいてもらいたい。公爵家門外不出の書でもあるので、一月後には返還してもらいたい。」
「はい。分かりました。」
公爵家の重みを理解すると義父と義母に伝えた事は何度かあるが、実際に戦うのは自分ではなく、妻と自分の子供たち、子孫であるのだから、本当の意味で公爵家の血の価値を理解するのは、大切な者達の命を失った時なのかもしれない。そして、そういった後悔を減らすように、予め知っておくべき様々な事が、門外不出の書に書いてあるのだとロイドは思った。
「・・・ロイド、この書の事なのだが・・・。閨の事が詳細に書かれているのだ。」
「閨?」
「そうだ・・・。」
義父が顔を赤くしている事も、言いにくそうにしている表情も、最初は理解できなかったが、言葉の意味が飲み込めると、義父の態度は納得できた。だが、娘の父が娘の夫たる男性に、閨についての指導をするという話は聞いたことが無かった。そんな習慣はイシュア国にも、どこの国にも存在しなかった。
「ロイド、閨の事を誰から学んだ。」
「祖父から話を聞きました。まさか、父上、私が、事前にそういった店で経験を積んだと思われているのですか。決して、そのような事はしていません。」
「あ、いや、そういう事を疑っている訳ではない。」
結婚前に予習する事を許容する家もあれば、それを浮気の第一歩と考えて許さない家もあった。それ故に、予習を許容する家の男子は隠れて学ぶ事になっていた。その隠す事こそ、夫婦間を壊すものであると毛嫌いする家も多かった。
「本当です。信じてください。」
「もちろん信じている。その、落ち着いて聞いて欲しい。」
「はい。分かりました。」
「実は、この書には、公爵家に伝わる閨の作法が書いてある。」
「・・・作法?」
「つまりは、閨における体の位置や動かし方、それだけでなく、男女がお互いに喜びを増すような誉め言葉や、ありとあらゆる事が書いてある。」
「はあ。」
「後で、この書を読めば分かると思うから。話を進めるが。この書にある閨の作法は、普通ではないのだ。この書で閨を学んだ私にとっては普通なのだが。部下たちが酒の席で時々話している閨の事を聞く限り、この書に書かれている事の多くは、普通ではないのだ。」
「普通ではないとは?」
当然の質問ではあるが、恥ずかしくて、公爵は答える事ができなかった。
「それは読んでくれとしか言えない。ロイドも私から聞くより読んだ方が良いと思う・・・。それで、ここが大切なのだが。エリスが、母親として娘に閨についての指導をしたのだが、この書を見せたのだ。エリスは先代公爵である母上からこの書で学んだのだから、それをそのまま娘にも教えたのだ。」
女傑と名高かかったアンシェリアは、嫁であるエリスを気に入って、12歳の時から公爵邸に住まわせて様々な指導を行っていた。その指導の中に、結婚直前の閨の指導が含まれるのは当然だった。
「はあ。その書の内容を秘密にするという事ですか?」
「秘密にする必要はないのだが。いや、そもそも他人に話すような事ではないのだが・・・。ロイド、この書で学んだ者の閨は、普通の閨を学んだ者から見ると、とてつもなく、その淫らな人間だと見えるのだ。その事を、エリスもレイティアも分かっていない。だから、ロイドには学んでおいてもらいたのだ。レイティアを淫らな女性だと思わないようにしてもらいたい。」
話の内容と義父の最後の真剣な表情が合致していない事に違和感を持っていたロイドだったが、帰宅後に青の書を読んだことで、義父の戸惑いと悩みが良く分かった。そして、一刻も早く世継ぎや血族が欲しいと考えてきた公爵家歴代当主の願いが凝縮されているのだと知ると、この卑猥としか評価しようがない本を代々学んでいかなければならなかった公爵家の血脈の重さを改めて、ロイドは知った。




