3年生(2回目) その102 エリスの怒り
102 エリスの怒り
母の部屋に呼び出されたエリックは、2人の姉がすでにいる事に驚いた。長女レイティアの正面に座っている次女セーラは、いつもの姿勢は変わらないが、緊張している様子が遠くからでも分かった。
巻き込んでしまった事は後で謝罪を重ねるしかないが、姉セーラの存在は白上質紙の事業展開の切り札でもあり、このカードを手に入れない選択肢はエリックには無かった。とにかく、後で償いを含めて話をさせてもらおうと考えながら、もう1人の姉が母の隣に座っている理由を探してみた。
「エリック、座りなさい。」
正面のソファーに座るように命令された問題児は、母親の灰水色の瞳が普段と変わらない様子を確認してから、その隣の姉と一瞬だけ視線を交えたが、特別な反応はなく、母と同じ顔の姉も呼び出された理由が分かっていないようだった。
呼び出されたのではなく、セーラの付き添いで座っていると考える事で違和感がない事に気付いた。自分も姉二人も学園の授業が終わってすぐに、公爵邸に戻ってきたので、灰色基調の制服の姿のままだった。状況がつかめないまま、セーラが何らかの問題に巻き込まれていると判断すれば、妹のために労を惜しまないのが長女の性質だった。
「今回の事、父さん、母様に相談することなく進めて、多くの方々に迷惑をかけた事をお詫び申し上げます。セーラ姉さんも、巻き込んでしまって、本当にすいませんでした。後で償いをさせてもらいます。」
母親に下げた頭を起こしてから、右隣に座っている赤髪の姉の方に向き直ってから、深々と頭を下げた。
「大切なお金の事なのに、深く考えずに投資をするって決めた、私も悪かったから。エリックが。」
「セーラは悪くありません。セーラが誰かに謝る必要はありません。」
自分の言葉を遮ってきた母親に驚きながらも、セーラは改めて自分の気持ちを伝えた。
「いえ、出すか出さないかを決めたのは私ですから。」
「そうですね。セーラが決めました。ただそれは、弟であるエリックを信じたからでしょう。家族を信頼する事は当然でもあり、大切な事です。セーラは悪くありません。悪いのは騙したエリックです。」
「騙してなどいません。きちんと投資の見返りが来るように考えています。父さんの指示で利息をもらう事になりました。父さんの指示がなくても、白上質紙の現物をもらえる事になっていました。それを売れば、投資した分の利益を受け取ることができるようにはなっていたんです。姉さんに損をさせるようなことはありません。」
「投資の利益の事で騙したとは言っていません。エリックがセーラに投資を持ちかけた理由で嘘を言っている事を指摘したのです。」
「お母様、どういう事ですか?セーラを騙したというのであれば、私も許せません。」
母親が長女を同席させた理由が、エリックを叱る時の援軍を求めてのものだと勘違いしたエリックは、手ごわい相手の説得が必要になるかもしれないと考えていた。次男は母親から叱られたことがなかったため、叱るという一点に限って言えば、母親を舐めていた。
「エリックが、セーラを投資に参加するように誘ったのは、今回のように問題が大きくなった時に、製紙事業が止まる事がないようにするためです。こういった問題が発生した場合、一端事業を停止させる事が多いのです。そして、ノーランド侯爵が関わっている以上、停止する事ができるのは、旦那様か私です。」
サファイヤブルーの瞳に怒りが含まれた。両親がセーラに向ける愛情を利用した弟の愚行を許しがたいものであると判断したレイティアが怒鳴りつける。
「事業を停止させると、それに賛同していたセーラが責任を感じてしまう。それを回避するために、お父様とお母様が事業を停止させることなく、そのまま行わせる事になると考えたのね。そうなれば、お父様もお母様も、エリックを強く叱る事ができなくなると考えたのね。」
「違う。叱られるのは当然だとは思っている。それから逃げるつもりはないんだ。ただ、この事業は後で必ず国のためになる。直近で言えば、フロスト男爵領の人々だって、利益を得る事ができる。」
反論してきたエリックに怒りの言葉で逆撃を加えようとしたレイティアを、左手を伸ばす事で公爵夫人が遮った。
水色のワンピース姿の38歳の普段は、19歳の娘と全く変わらない若々しい姿と、時折見せる涙の姿から、年齢に相応しい母親の姿を子供達に感じさせる事は全く無かった。母親の威厳のような雰囲気を一度も見せた事が無かった公爵夫人が、初めて母親としての威圧感を示して、3人の言葉を遮っていた。
「エリックを呼んだのは言うまでもなく、反省させるためです。ですが、反省するつもりはないようなのですね。セーラを呼んだのは、先程言ったように、叱るためではありません。この場に、レイティアとセーラを呼んだのは、男性と言う生き物を学んでもらうためです。2人の意見も考えも、後で聞きますから、しばらく見守っていなさい。」
「はい。」
「はい。」
「エリック。セーラを利用して、事業の停止を避けようとした事を認めますね。」
「はい。それは認めます。ただ、一度始めた事業を停止すると、現場で動いてくれた人々に迷惑も、不利益も与えます。」
「分かりました。旦那様が停止を命じていない以上、私が停止を進言することはありません。このまま続けて構いません。」
「ありがとうございます。セーラ姉さんも、ごめんなさい。黙ったまま利用するような事をしたのは、酷い事でした。今後は、皆に相談をするようにします。」
事業の継続が決定した事に安堵しているエリックは、その事を母親が敏感に感じ取っている事を知らなかった。エリックとレイティア、セーラでさえも、エリスという母親の芯の強さを知らなかった。ただ、一度も見た事のない実力を知る事は誰にもできなかった。
「エリック。今回の事で、アイリスの夫に相応しくない事が分かりました。婚約を解消します。」
「母様、どうして、そういう事になるんです。」
「今言いました。アイリスに相応しくないからです。」
「どこがですか。」
「今回の事が、アイリスのためになると本気で考えている愚かな所です。いえ、愚かな事をしても、それに気づかず、直そうとしない所が、一番の問題点です。これだけ言われているのに、自らを省みることなく、この場をどうにかしようと考えているのでしょう。」
「そのような事、僕は認める訳にはいきません。」
「分からないのですか。それとも、分かっていて逃げているのですか。」
「分かりません。今回の投資の話と婚約は関係ありません。」
母と息子の言葉のやり取りの中、その様子を冷静に見ようとしていた姉妹は同時に気付いた。公爵夫人エリスが圧倒的に格上の人間で、子供である自分達が、太刀打ちできない存在である事に初めて気付いた。
物分かりの言い子供達に対して、注意を促すことはあっても、叱る事の無かった母親の事を、レイティアは姉のようだと思って接していた。母として自分を先導してくれるのではなく、姉妹として並んで歩んでくれてきた母は、自分にそっくりな容姿を持っているだけでなく、肌の瑞々しさも19歳と同じだった。母よりも3cmだけ背が高くなった今は、まるで自分の方が姉のように思う時もあった。
公爵邸に迎い入れたセーラに対して、どうすればいいのか分からないまま、涙と共に混乱している姿を何度も見ていた事から、要領の悪い姉から泣き虫の妹へと認識は変わっていった。セーラと一緒に料理ができない事を本気で悔しそうにしている事に共感しながら、レイティアは母エリスを守らなければならないとさえ考えていた。
唯一の圧倒的な差であった武力も、母と同じ所まで辿り着いた今、レイティアの中では、双子女神は本当の双子だと考えるようになっていた。
「お母様、お願いです。エリックに機会を与えてください。お願いします。お願いです。」
長女が悲痛な叫びを母親にぶつける姿を見て、ようやくエリックも気づいた。
18年前に暗闇の暴走の時、50名を超える騎士と共に中の巣に入って、中の魔獣を全て排除して、たった1人で帰還してきた戦士が、弱いはずがなかった。精神的に弱いなんてことは絶対になかった。盾として切り裂かれていく戦士を見送り、敬愛する義母である先代女公爵アンシェリアさえも目の前で死んでいくのを見送った戦士が、この国の中で最も強靭な精神力を持っているのは当然の事だった。魔獣の戦いにおいて、味方の死を最も多く見たのがエリス公爵夫人だった。
誰よりも深い感情を心に秘めているからこそ、子供達を叱る中で感情を高ぶらせる事はなかった。第2夫人の娘に対して見せる涙は、弱さではなかった。大切な思いを揺さぶる過去の事を思い出すからだった。忘れてしまい過去を決して忘れず、今もそれに立ち向かっている姿を、エリックもレイティアも、何かに耐えているだけの弱い母親だと思い違いをしていた。
「レイティアとセーラのために話はします。男性と女性は、異なる考え方を持っています。人にもよりますが、違うものだと思いなさい。この事を知らないと、必ず、お互いの気持ちに気付けなくなります。」
「どう違うのですか。お母様。」
「男性は1つの事に拘るあまり、考えを狭めてしまう事があります。女性は先々の事を考える事から、臆病になって、決断を先延ばしにしてしまう事があります。求めるモノも違います。男性は強さを求め、女性は美しさを求めます。」
抽象的な話に、セーラが理解しきれない表情を示すのを、公爵夫人は見て取って具体的な話へと移った。
「エリックは、アイリスへの贈り物という一点だけで考えています。だから、他の問題は全て二の次なのです。女性の私には、エリックの行動がアイリスの立場を無視しているように見えます。もし、エリックの筋書き通りに物事が進んだ場合、いずれ税金に関係しての問題が発生します。その時、問題の始まりは、今回の件だったと多くの人間が気付きます。そうなると、アイリスは非難を受ける事になります。」
「悪いのは僕です。」
「そうです。ですが、その悪い事をしたのはなぜですか。アイリスに贈り物をするためでしょう。」
「それは僕の責任であって。」
「そうです。でも、世間はそう見てはくれません。あなたは財政を改革した天才児、ケネット侯爵派を解体した英雄です。王都の民は、エリックが悪いことをするはずがないと思っています。ですが、実際に悪い事が起こった。となると、どうなるかは分かりますね。アイリスが我儘を言ったのが原因だ。もっと酷い言葉かもしれませんが、アイリスが悪く言われるに決まっています。分かりますね。セーラの事、ミーナの事、真実を知る私達自身が、悪いのは私達だと認めても、私達が原因であるとは王都の民は理解してくれません。私達自身が悪いと認める発言すらも、英雄の優しさに置き換えられています。」
「アイリスは、未来を考えて、一生懸命勉強も、それ以外の事もしています。婚約の解消だけは許してあげてください。」
「セーラ、アイリスに悪い所はありません。私はエリックが、アイリスに相応しくないと言っているのです。アイリスの置かれた立場を理解せず。決して楽ではない立場にいるのに懸命な努力を続けている婚約者を顧みようとしていないエリックが、アイリスの相手に相応しいはずがありません。」
母に許してもらう方法が、3人の子供達には分からなかった。覚悟を決めたように話をしている母親の強さを目の当たりにして、どのように納得してもらえるのかが全く分からなかった。
セーラは話を続けるしかないと考えた。2人の関係が解消されるのを見たくはなかったから、何かを探すために会話を続けた。
「お母様。男性は強さを、女性は美しさを求めると言うのは、言葉の意味は分かるのですが。それは男女の違いなのでしょうか?強い男性を美しいと表現する事もあります。美しい女性を強さに関係する言葉で褒める事もあります。」
「そうですね。言葉の違いを言いたかったのではありません。強さとは、誰かと比べて確認する事。もしくは、誰かに対して、それを誇る事。美しさとは、自身を磨いて得るもの。そう言いかえれば、違いが分かるかもしれません。」
「何となく分かった気がします。男性は、周囲に認められる事を大切にして。女性は、愛する1人だけに認められる事を大切にするという事でしょうか。」
「そうです。セーラ、そういう認識でいいと思います。それぞれに大切にするものが違う事は悪い事ではありません。ですが、その違いを理解せずにいると、様々な問題が発生する場合があります。」
「エリックが直すべきところは何なのでしょうか。」
「アイリスと特別な関係であったのに、特別に格好良い所を見せたいと考えた事です。時間はあったのです。急ぐ事は無かった。誰かに奪われる心配もないのだから、ゆっくりと気持ちを通じ合えばよかった。」
セーラと対話を続けている中で、エリスの表情、言葉に柔らかさが戻ってきているのを、子供達は感じていた。策士は、この機会を逃さなかった。
「母様、自分の至らない部分が良く分かりました。これからも反省し続けます。婚約解消の事は、許していただけませんか。」
「お母様、私からもお願いします。婚約解消だけは許してあげてください。」
「お母様、来年の4月には私とロイドの結婚があります。その前に、弟達の婚約解消などという事は避けたいです。少なくとも、私達の結婚式までは、反省する時間をエリックに与えてくれませんか。お願いします。」
2人の援護射撃が決まったというよりも、エリックが反省する方向に進むのであれば、母として許すつもりだった。本当に婚約が解消された場合、一番悲しむのは、大切な嫁であることも、公爵夫人はきちんと理解していた。
「仕方がありません。レイティアとセーラの力を借りて、この場をどうにか切り抜ける事ができたと喜んでいて、深く反省していないようですが。」
「そんな事は・・・。いえ、母様のおっしゃる通りです。反省はしているのですが、そういう考え方をしている自分もいます。」
「エリック、信頼とは能力で手に入れるものではありません。その事を忘れないと誓い、関係した人々、もちろん、ミクソン家にも。事情を正直に話し、謝罪をするというのであれば、婚約解消については撤回します。」
「ありがとうございます。」
叱られた当日中に関係者に全てに謝罪をしたエリックは、その夜に最も頼れる兄へと一通の手紙を書き上げて送った。自分の失敗と母エリスが厳しく叱責した事については、詳細に書き記した。そして、手紙の最後に、白上質紙の制法を記すと同時に、その製法をフロスト男爵家から買い取ったという形で、代金を男爵家へと送るようにと依頼した。そして、兄は4カ月後に弟の功績を記した手紙を両親へと送った。




