(3)
「えっと、うちの妹が使ってるのは……」
私は、今やすっかりリビングの風景と化した馴染みのパッケージに手を伸ばす。
だが、彼はちっとも動かなかった。
「どうしたの?ここにない?」
「あ…、うん、そうかも…」
彼は握っていたメモを折り畳みながら言った。
「一緒に探すよ。どこのメーカー?」
「いや、大丈夫。取り扱ってる店が少ないメーカーのだから、別の店に行ってみるよ」
メモを見せるようジェスチャーした私に、彼は急いでそれをしまった。
「俺のことはいいから、早くオムツ買ってきなよ。そしたら雨がやんだらすぐ帰れるだろ?」
遠慮するなと、優しい彼は、名前も知らないであろう私にまで気を遣ってくれる。
「そっちは帰らないの?」
「俺は電話で迎えを頼んだから」
「あ、そうなんだ。それじゃ、レジ行ってこようかな」
納得した私に、彼は「そうしなよ」と一緒について来てくれた。
そして会計を済ませると、雨はずいぶん小降りになっていた。
まるで買い終わるのを待っていてくれたかのようなタイミングに気を良くした私は、オムツを両手に持って、足取りも軽く店の自動ドアをくぐった。
見送ってくれた彼には
「それじゃお先に。私1組だから、もし愚痴りたいことが溜まったりしたら、いつでも声かけて」
もうすっかり友達気取りでそう言っていた。
「ありがとう。俺は5組なんだ。そっちも、何かあったら言って」
お返しと言わんばかりに告げてくれるが、実際、人気者の彼に私が学校で気安く話しかけるなんてできないだろうなとは思っていた。
だがそれは今わざわざ言葉にする必要もないことで、わたしも「ありがとう」とだけ返し、小雨の中を家に戻ったのだった。
けれど、店の駐車場を出てしばらく行ったところで、私はポイントカードにスタンプを押してもらってないことを思い出したのだった。
「あ、やばい。スタンプもらうの忘れてた!」
キャンペーン期間限定のスタンプカード。
たまった数に応じてもらえる割引券が変わってくるので、必ずスタンプを押してもらってねと、義母に念を押されていたのだった。
私は家に着く前に思い出せてよかったと本気でホッとしつつ、店に戻ったのである。
小雨になっていた夕立の名残は、さらに細く薄くなっていた。
やがて店の自動ドアを抜け、すぐ左にある会計カウンターの店員に事情を説明しようとしたところで、私は、まだそこにいた彼に出くわした。
私ったらポイントカードを忘れちゃって…そんな風に声をかけようと思った直前、彼の抱えている物に目が止まった。
それは、紙オムツだった。
売場にはないと言っていたがあの後見つかったのだろう、単純にそう考えた私だったが、そのパッケージデザインをちゃんと見たとき、思わず言葉を飲み込んでいた。
その紙オムツは、大人用だったのである。
目が合うと、彼は一瞬だけ、泣きそうに眉を下げた。
そして私に近付いてきて
「俺のこと、兄だと思い込んでるんだ」
ひと言だけ、呟いた。
それだけで理解するにはじゅうぶんだったけれど、彼になんて返せばいいのかまでは、考えられなかった。
彼はそんな私に苦笑いを見せた。
「ごめんね、本当は妹じゃ…」
「やっぱりいいお兄ちゃんだね!」
なんて返せばいいか分からなかったくせに、私は、彼のその切ないセリフは消し去るように、強く、大きな声で言い切っていた。
「え…?」
「だって、だって妹さんに、ちゃんとお兄ちゃんらしく接してるんでしょ?いろいろ我慢したり、こうしておつかいに来たりしてるんだもん。本当に優しくていいお兄ちゃんだよ!」
彼は大きく目を見開いて、じっと私を見返していた。
「それから、たぶん、妹さんもそんなお兄ちゃんが大好きなんだと思う。詳しいことは知らないけど、何か、そんな気がする」
まったく根拠のない力説に、我ながら子供染みてるなとは思うけれど、それは私の心からの気持ちだったのだから仕方ない。
「そう、かな…」
「そうに決まってるよ」
「じゃあ……、じゃあさ、」
彼は私を見つめたまま何かを告げようと口を開いたけれど、そのとき
「ああよかった!入れ違いにならなくて!ごめんね、迎えにくるのが遅くなっちゃって」
迎えに来てくれた義母が私を見つけて、そこで、彼との会話は終了となったのだった。
※※※※※
「あ…」
高校時代の思い出に浸っていた私は、スマホのバイブ音に現実に引き戻された。
「何?どうしたの?」
「傘を持って迎えに来てくれるみたい」
「え、わざわざ?」
「うん。でもどっちみち小雨になってきたみたいだし、そろそろ出ようか?」
追加オーダーしたデザートもすっかり空になっている。
あまり長居し過ぎるのも申し訳ないし…
私が言うと、向かいの席からはからかい口調が返ってきた。
「それはいいけど、お姉ちゃん達、相変わらず仲良しだねぇ」
私は「はいはい」と妹をあしらい、会計を済ませて店を出た。
外は、湿気の中にも雨あがりの清々しさが広がっている。
まるで雨の雫達が浄化してくれたような空気は、心なしかキラキラしてるようにも見えてきて。
すると少し先に、傘を三本携えてこちらに向かってくる夫の姿が見えた。
「義兄さんのイケメンっぷりも、相変わらずだねぇ」
妹は感心しきりに述べた。
「あのイケメンと、写真を見る限り高校時代は地味だったお姉ちゃんが、いったいどうやって付き合えたのかが謎だわ」
妹の辛口コメントにも慣れてる私は一笑に付した。
そして
「夕立には感謝してるわ」
そんな独り言を溢していた。
「え?夕立?何それ」
妹が騒ぎだすと、合流した夫が「楽しそうだね、何の話?」と参加してくる。
「あ、義兄さん。今ね、お姉ちゃんが夕立に感謝するって言ってたんだけど、それがどういう意味かって……何よ、何で義兄さんも笑ってるの?」
妹は不思議そうに夫と私を見比べた。
それには構わず、私と夫は顔を合わせてさらに笑顔になる。
「うん、俺も、夕立には感謝してるよ」
夫からは私と同じ想いが伝えられて、けれど妹には意味がわからず不思議顔のままだ。
私はその妹にもこっそり感謝してるのだが、それはまたいつか、ゆっくり話して聞かせよう。
実は、夫が私に好意を持ったはじまりは、あの日私が発したひと言だったらしいが、それがどのセリフだったのかは未だに教えてくれない。
正直言って、あの時の私はまだ子供で、彼に告げた言葉の一つ一つも感情任せの幼いものだった。
今なら、もっと上手く言えるのに……そんな風に、恥ずかしくもなったりするけれど。
けれど、きっかけなんて人それぞれだろう。
ただ間違いないのは、あの、懐かしくも、幼さ残る思い出の出来事は、私と夫の間に縁を結ばせたのだ。
人生を動かすほどの。
見上げた空は雲の割れ目から光が滲んできていて、あの日の帰り道とよく似ていた。
もうすぐお盆だ。私達よりずっとずっと年上の、けれど夫にとっては大好きな妹さんのお墓参りはいつにしよう?
そんなことを考えながら、私は雨あがりの道を帰ったのだった。
大切な家族とともに。
(完)